「ラチェットさん!」
次第に遠くなる意識の中でラチェットはその声を聞いた。
『ああ、また心配をかけてしまったな』そんな事を思いながら、その腕にしがみつく様に倒れ込んだ。
次に目が覚めた時、ラチェットは自宅のベッドの上にいた。
見覚えのある天井に安心感を覚えながらも、今日はシアターに出勤した筈なのにどうしてここに横になっているんだろう?とぼんやり考える。
半身を起こそうとしてみるが、体の節々が痛くてどうにも力が入らない。
少し動いた拍子に額から冷たい何かがベッドの上に落ちた。
それは水で濡らしたタオルだった。
ベッドサイドの棚の上には水を入れた洗面器が置かれている。
状況から察するに自分はどうやら風邪を引いてしまったらしい…と、どうにか半身を起こしながらラチェットは現状を頭の中で整理していた。
(そうなると、どうやって帰って来たの?一人でシアターから帰って来たのかしら?)
今の自分の体調で自ら車を運転して帰って来たとは考えにくかった。
ふと気付けば、いつの間にかいつものスーツからナイトウェアに着替えてある。
そうなると誰かがここまで送ってくれて、着替えまでさせてくれたことになる。
(一体誰が?)
ガタ。
自分しかいない筈の部屋で物音がして、ラチェットは咄嗟にベッドサイドの棚の最上段の引き出しに手を掛けた。
護身用のナイフを取り出す為だ。
2回ドアをノックする音がしたが、相手を油断させる為にラチェットは返事をしなかった。
ガチャとドアノブが回る音に緊張感が走る。
だが、ドアが開いて入って来た人物はラチェットがとても見知った顔だった。
引き出しから手を離しベッドに手を戻す。
ナイフを突きつける相手ではないことが判ったからだ。
その人物はラチェットの姿を確認すると、ホッとした様に言った。
「…良かった…。気が付かれたんですね。でも、まだ起き上がっちゃダメですよ」
新次郎は『失礼します』と一言掛けるとラチェットの額に自分の掌を当てた。
「…うん。少し熱が下がったみたいだ」
安堵の息を漏らす新次郎。
「王さんに診て頂いたところ、風邪だそうです。疲労が溜まっているんじゃないかって仰っていました。薬も処方して頂きましたから、後で飲んで下さいね」
ラチェットの肩にショールを掛けながら、新次郎が言った。
本当にあの頼りなさげだった新次郎はどこに行ったのかと思う。
「…ありがとう、大河くん…」
「ぼくは怒ってますよ、ラチェットさん」
ラチェットの方を見ながら、新次郎が静かに言った。
その事がかえって新次郎が怒っていることを強調させた。
「…ごめんなさい。迷惑をかけてしまったわね」
「ぼくが怒ってるのはそういう事じゃないんです。本当に心配したんですよ?」
新次郎の言葉でラチェットはシアターでの失態を思い出した。
屋上から下に降りようとエレベーターに乗ったところで、たまたま同乗していた新次郎の方に倒れ込んでしまったのだった。
「…ごめんなさい…」
「ね、ラチェットさん。もうちょっとぼくを頼って欲しいとぼくは思います。そりゃあ、ぼくじゃまだまだ頼りないかもしれませんけど、それでもラチェット さんの負担を少しは減らせるかもしれないじゃないですか」
「大河くん…」
真剣な顔でそう言った新次郎を見つめるラチェット。
「…すみません。具合が悪いのにグダグダ言ってしまいました。ラチェットさんが倒れられた時に動転してしまって…。自分の不甲斐なさを痛感しただけなん です」
苦笑しながら新次郎が言った。
「ううん。こちらこそ、心配をかけてしまってごめんなさい。上司として失格ね」
「ラチェットさん、ぼくは部下としても勿論あなたを心配していますが、それだけじゃないんですよ?」
ラチェットの言葉に対し、そう返した新次郎にラチェットは風邪による熱以外に頬が熱くなっていくのを感じた。
「はい…」
小さく恥ずかしそうに返事をするラチェット。
「だから、もっと自分を大切にされて下さいね」
「はい…」
いつもは颯爽としていて非の打ち所のない副司令も恋人の前ではどうにも形無しらしかった。
「…ところで、大河くん。一つ聞きたかったのだけれど」
「はい。何ですか?」
「あの…、これには誰が?」
そう自分の格好を指差すラチェット。
これに慌てて答える新次郎。
「あっ、も、勿論、ぼくじゃないですよっ。プラムさんですっ。一緒にここまで来てっ、それでっ、シアターの方も放って置けないからって先に帰られたんで す…っ」
「本当に?」
何やら妙にしどろもどろに説明する新次郎をジッと見るラチェット。
「本当ですよっ~~」
「ふふ。じゃあ、信じてあげようかな」
「ありがとうございます。…って、ぼくウソついてませんよ!」
「はいはい。解ってます」
「本当かなぁ…」
はぁ…と、ため息をつく新次郎を見て、自然と笑みが零れるラチェット。
熱で上気しているからか目も潤みがちで、ただでさえ美しいラチェットを一層引き立てているように見える。
息を飲む美しさとはこういう事を言うんだろうななどと思いながら、ラチェットを見つめる新次郎。
「ラチェットさん。下がったとはいえ、まだ熱が高いんですから。横になってた方がいいですよ」
ハッと気付いたように、新次郎が言った。
「そうさせて貰うわ」
そうベッドに横になるラチェット。
「もしお邪魔なようでしたら、ぼく向こうの部屋に行ってますから」
「ううん。ここにいて?」
「そうですか?」
「ええ。大河くんがそばにいてくれたら、安心して眠れるわ」
「解りました。それじゃ、ぼくここにいますね」
ラチェットの言葉に照れ臭そうに笑いながら新次郎が言った。
「ありがとう…。ふふ、大河くんに看病して貰えるなら、たまにはこういうのも良いかも」
「こうなる前に甘えて下さい。ラチェットさんが呼んで下されば、ぼくは何時だって駆けつけますから 」
そう言った新次郎にうっとりと見とれながらラチェットが言う。
「心強い言葉ね」
「気持ちが込もっていますからね。…それじゃ、おやすみなさい、ラチェットさん」
「…おやすみなさい、大河くん」
目を閉じるラチェット。
ラチェットを愛おしそうに見つめる新次郎。
大切なひとがそばにいてくれるというだけで生まれるその幸せな安心感を胸に抱いて。
心地良い眠りがラチェットを待つ。
この分なら明日には熱が引きそうだ。
良薬は口に苦しと言うが、時と場合によっては甘いものもあるのかもしれない─。