オーク巨樹を鎮めて、巴里の平和を取り戻してから早1ヶ月の時が経っていた。
そして、気が付けば俺がこのモンマルトルの街に来て半年が過ぎている。
住み慣れた帝都を離れるときには不安だったこの街での暮らしも、今ではすっかり馴染んでいる。
むしろ、心地好いくらいだ。
それはさて置いて、シャノワールも1ヶ月間の改修工事を終えて先日から営業を開始した。
勿論、俺もモギリの仕事に復帰し、花組の華やかなレビューを観に来るお客さんたちの切符をあくせくと切っている。
毎日が盛況で。満員で。忙しくて。楽しくて。
あっという間に時間が過ぎていく。
気が付けば、いつの間にか自分の部屋のベッドにいたなんてこともある。
毎日がすごく充実している。
…ただ、ひとつ気がかりになっていることを除けば。
閉店後、バーのカウンターに座ってひとり考える。
「どうしたんだい?ムッシュ。浮かない顔してさ。いい男が台無しだよ」
聞き慣れた声に振り向く。
「…支配人」
「隣、いいかい?」
「あ、はい。どうぞ」
立ち上がって、支配人をエスコートすると軽く微笑して支配人が座った。
「ムッシュもなかなかいい男になったじゃないか。自然にエスコートが出来るんだからね」
「そんなからかわないで下さいよ、支配人」
「からかってなんかいないんだけどねぇ。まぁ、その謙虚さがムッシュの良いところでもあるんだけどね」
「はぁ……。」
褒められて悪い気なんてしないけど、何と答えたらよいか解らなくて相槌を打ってうってごまかした。
「ジョルジュ、あたしもブランデーを貰おうかね」
「かしこまりました、オーナー」
支配人のオーダーにジョルジュさんが手際よく、ブランデーの入ったグラスを差し出した。
「じゃあ、ムッシュ。ひとまず乾杯といこうじゃないか」
「あ、はい」
「はい、乾杯…、と」
グラスとグラスがぶつかって甲高い音が一つ店内に響いた。
「…ところで、ムッシュ。」
グラスに少し口を付けたあと、支配人が言った。
「最近ずっと何かを考え込んでいるようだけど何かあったのかい?」
さすが、支配人。
ポーカーフェィスを装っていたつもりでも、しっかり見破られていたのか。
「お気付きだったんですか…」
「当たり前だよ。あたしを誰だと思ってんだい?ついでにあんたが何で悩んでるのか当てて見せようか?『巴里が平和になった今、いつトーキョーに戻る日が来るのか?』違うかい?」
そこまで見通されているのか…。
やはり支配人には敵わない。
「…そうです。これは…あまりに自分らしくないと思っているんですが、俺はその日が来るのが怖いのかもしれません」
ここはあまりに居心地が良過ぎるから。
「…でもさ、こういう言い方をしちゃなんだけど、ムッシュがいつかトーキョーに帰ることは初めから決まっていたことだろ?何を今更、怖がってるんだい?」
「それは…」
それは…出来るならば避けたかったことで。
出来るならば考えたくなかったことだから。
言葉が続かなくなった俺の後を支配人が続ける。
「あの子たち…いや、あの子と離れなければならないこと、だね」
「…はい」
そう、正直言ってここまで別れ難くなるなんて思ってもいなかった。
思っていなかった分、その時が来るのが怖いのかもしれない。
「軍人らしからないんですが」
「それでいいのさ。いいかい?ムッシュ。紳士っていうのはね、去り際にどう印象を残すかも大事なのさ。お堅い軍人みたいに何でも理屈で考えてちゃあ駄目なんだ。冷静に割り切ろうとしちゃあ駄目なんだよ。大切なのはね、自分の気持ちなんだ」
自分の気持ち…。
まだ伝えていない俺の想い。
「ムッシュはあの子にまだ伝えていないんだろ?自分の気持ちをさ」
「…はい」
伝えてしまったら今の関係が崩れてしまいそうで、どうしても伝えられなかったから。
俺は今の状態でいようと思ったんだ。
「相変わらずこういうことに関しちゃ奥手なんだねぇ」
半ば苦笑しながら支配人が言った。
「はぁ…」
「ムッシュ、謙虚なのもいいけどね。女は大胆な男も好きだったりするものなの。案外、あの子もムッシュが言うのを待ってるかもしれないよ?」
「…そうでしょうか?」
気持ちを押し付けることにはならないんだろうか?
「ああ。あたしが保証するよ」
「はい!すみません、支配人!俺、ちょっと彼女のところに行って来ます!」
「頑張っといで!あの子、まだ秘書室にいるはずだよ」
「はい!ありがとうございました!」
「…もう時間が無いんだ。精一杯おやり…」
支配人が最後に何を言ったかは声が小さくて聞こえなかった。
だが、支配人の力強い言葉を受けて、俺は足早に秘書室へと向かった。
『コンコン』
軽くノックをして秘書室へと入る。
「あ、大神さん。どうなされたんですか?オーナーならお留守ですよ」
書き物をしていたらしい手を休めてメルくんが言った。
「いや、君に用があるんだ」
「私に、ですか?」
「ああ。どうしても君に伝えておきたいことがあってね」
言わないで後悔するよりも、たとえ離れたとしても君と繋がっている何かが欲しいから。
だから、俺はメルくんに想いを告げようと思った。
「…お、大神さん。そんなにじっと見られるとその…、少し恥ずかしいのですが」
じっとメルくんの顔を見つめたまま、言葉を止めた俺にメルくんが言う。
「あ、ご、ごめん」
「い、いえ…」
…って、どうにも照れくさいな。
「メルくん」
「は、はい」
「…日本の古い和歌…まぁ、詩のようなものなんだけど。それにね、”忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと ひとの問ふまで”という歌があるんだけどね」
…何言ってるんだ、俺は。
「どういう…意味なんですか?」
「あ、ああ。”ひとに知られないようにあなたへの恋心をずっと隠してきましたが、とうとう周りのひとが心配するほどに顔色にも出るようになってしまった”という歌なんだ」
だから、何が言いたいんだ…。
俺はそんなことを言いに来たわけじゃないだろ!?
「……何か解ります。そういうの」
一瞬、クスリと笑ってメルくんが言った。
「…メルくんもあるのかい?そういうこと」
「あ、はい。今日だってシーに…って…す、すみません。私、仕事がまだ残ってますから…」
急にハッとしたように慌てて仕事に戻ろうとするメルくんを止めるように、俯いたメルくんの顔を覗き込む。
「…シーくんに心配をかけたのかい?」
「は、はい…」
いつもの困ったような照れたような表情でメルくんが頷く。
「俺も支配人に心配をかけてしまったんだ」
「大神さんも…ですか?」
「ああ…」
「………一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
メルくんが俯いたまま、言った。
「ああ。いいよ」
「…大神さんにはお好きな方がいらっしゃるんですね」
「うん。…いるよ」
俺がそう頷くと、メルくんは一瞬泣きそうな顔をして後ろを向いてしまった。
「そうですか…。そうですよね」
「…ああ。俺はメルくん、君が好きなんだよ」
「え…?」
俺の突然の言葉に、信じられないような顔をしてメルくんが振り返った。
「俺はメルくんが好きなんだよ」
もう一度繰り返す。
「…本当、ですか?」
「うん。俺は本当にメルくんが好きだ」
出来ることなら、いつまでも君のそばについていたいと思う。
「…大神…さん…」
泣きそうだったメルくんの瞳からとうとう涙が零れ落ちた。
「…迷惑だったかな」
ハンカチを差し出して、そう問うとメルくんは首を振った。
「… 違うんです。私、大神さんはずっと副隊長の…あの人のことが好きなんだと思ってたんです。だから、私の気持ちはずっと胸にしまっておくつもりでした…。でも、大神さんたちのおかげで巴里が平和になって、シャノワールも元通りになって、本当に良かったなって思ったら大神さんがトーキョーにいつ戻られてしまうのか…って、そればかり考えるようになってしまって…。そしたら、遠くから見ているだけでもいいって思っていたのにすごく切なくなってしまって。シーにも最近おかしいなんて言われてしまって」
それはメルくんにしては雑然とした話し方だった。
でも、嫌いじゃない。
むしろ可愛いと思った。
「…メルくんの気持ちはどうなんだい?」
「私は……大神さんのこと、好きです…」
メルくんが静かに、でもはっきりとした口調で言った。
メルくんの目から零れ落ちた涙を指で拭って、言う。
「…じゃあ、この後、一緒に食事にでも行かないか?君とゆっくり話がしたいんだ。」
「…はい…!」