Ⅰ
「大神さん、行かないでください!!私を・・・・・・私をつれていってください!」
ゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて北駅から離れようとする汽車を追いかけながら、北大路花火は叫んだ。だが幾ら走っても汽車は遠ざかるばかりで、客車の乗降口から半身を乗り出した大神一郎の姿は、彼女の視界の中で小さく消えてゆく。
黒衣の少女は胸中の泉から湧き出す悲しさに押し潰されて、その場にしゃがみ込んでしまう。
ところが、少女の切なる願いが天に届いたのか、彼女の前には視界から消えた筈の汽車が停車しており、目を上げた乗降口には大神の姿があった。
慌てて立ち上がった花火は客車に駆け寄る。しかし、どうしても最後の一歩が踏み出せない。足が自らの意思に反して頑なに動くことを拒否している。
大神は優しげな眼差しで花火を見ていた。だが、決して彼女に手を伸ばすことはない。
『嗚呼、どうして大神さんは私に手を差し伸べてくださらないのだろう。あの時、北駅での別れの際も、彼が手を伸ばしてさえくれたら、私は喜んで列車に飛び乗ったのに・・・』
そう思い、そう思ったことに気がついて、花火はこれが夢の中なのだと悟った。
いつも見る、いつも変わることのない、悲しい夢。
照明がひとつずつ落ちるように、彼女の視界から北駅や列車が次々と消え失せてゆく。
ある確信をもって振り返ると、そこにはやはり、いつも通りの光景があった。物腰の柔らかい、誠実で、微笑みを浮かべた青年―かつて彼女の婚約者であり、北海の海底で自らの豪華客船を墓所としたフィリップ・ディ・マールブランシュが佇んでいる。
彼は、自分の妻となる筈だった少女に手を差し伸べた。
「僕の花火・・・愛しているよ、ずっと・・・」
しかし、黒衣の少女は婚約者であった男の手を取ることができなかった。彼は大切な過去ではあったが、共に歩む未来ではないのだ―そう思ってしまった心に鈍い痛みが走った。
目が覚めた時、一筋の軋んだ心の欠片が瞳から零れた。暫し呆然としていた黒髪の少女は、そこがブルーメール邸内に設けられた彼女の部屋であることをゆっくりと知覚して、僅かな吐息と共に華奢な身体を起こす。
自らの身体を抱いたのは、どこからか冬(イヴェール)の吐息が吹き掛けられたからではなかった。
西暦1927年1月―雪催いの空が続く冬のことである。
夕刻、巴里はモンマルトルの丘に建つ劇場シャノワールも等しく曇天の下にあった。その日は休場日ということもあり、白亜の劇場それ自体が寒さにうずくまっているかのように見える。
慌ただしさとは無縁の一階客席に、五人の女性が座っている。全員がシャノワールを代表する踊り子であり、同時に巴里の平和を守る巴里華撃団花組の隊員たちであった。休場日なので照明は控えめだが、代わりに卓上の洋灯が彼女たちを優しく照らしていた。
この頃の北大路花火は、以前のように黒い服を着ることがなくなっていた。喪服をまとい続ける必要がなくなったからだが、それでも相変わらず落ち着いた格好が多い。今日も外套を脱ぐと、その下から現れたのは飾り気を抑えた青系統のツーピースである。
話を切り出したのはエリカ・フォンティーヌだった。
「クレーム・ブリュレといえば、あの女性を見てきたんですよ。コクリコとロベリアさんと一緒に」
相変わらず会話が転倒しているシスター見習いだが、そこは全員慣れたものだった。
「もう、それじゃあ意味が分からないでしょ。昨日エリカが言った女の人を、今度はボクたち三人で見に行ったんじゃない」
そう補ったのは最年少でありながら一番のしっかり者であるコクリコだけで、他の面々はそれぞれの表情で飲み物を口に運んだだけだった。
◇
事件という程のことでもない一件は、昨日エリカが遭遇したことだった。
教会のお勤めが終わった午後、シスター見習いの姿は九区のオペラ・ガルニエ前にあった。
『オペラ座』とか、建築家の名前から『ガルニエ宮』とも呼ばれることがある重厚で壮麗な歌劇場。ルネサンス様式とバロック様式が交じり合った外見から数世紀前よりこの場所にあったような印象を人々に与えるが、実はたったの半世紀前―一八七五年に落成した建築物であること聞けば誰もが驚かされる。実体としてはナポレオン三世の第二帝政期に実施された巴里大改造で突如出現した建造物だった。また公にはなっていないが、昨年六月に巴里華撃団と怪人マスク・ド・コルボーとの戦闘が生じたことでも極一部に知られている。
ここにひとつの挿話がある。ナポレオン三世の皇后ウージェニーは保守的な性格で、設計の段階からガルニエの折衷的な様式がお気に召さなかった。皇后がこの建物はどちらの様式なのかと尋ねると、若き建築家は恭しくご下問に答えた。
「皇后陛下、これは『ナポレオン三世様式』です」
お追従の成果かどうかはともかく、ガルニエの案が採用されたのは歴史上の事実である。また実際にオペラ・ガルニエの建築様式を指して『第二帝政様式』とか『ナポレオン三世様式』と呼ばれていたが、これはガルニエに予知能力があった訳ではなく、他に適当な表現がなかったからだ。なお、ナポレオン三世自身は大変な現代主義者であり、おまけに音楽もオペラも苦手で歌劇場の建設に積極的ではなかったから、当の本人が様式名を聞いたら苦虫を千匹程噛み潰したことであろう。
モンマルトルの丘がある十八区と九区は隣同士(巴里は市の中心部から時計回りに区が配置されているので、番号が飛んでいても隣接していることがある)、エリカは殊勝にも自主的な巡回をしていた―訳ではなく、オペラ座近くに小さな店を構えるお菓子屋さんを目指していただけである。評判のクレーム・ブリュレがあると劇場従業員のシー・カプリスに聞いて、喜び勇んで買いに行こうとしていたのだ。
近未来の幸福な光景を舌の上で想像し、鼻歌交じりで小走りに駆けるシスター見習いは、歌劇場前で足取りの覚束ない女性を目に留めた。
オペラ・ガルニエの周辺は大通りが幾本も交差する、巴里市内でもっとも交通量の多い場所のひとつである。小首を傾げたエリカの視界の先で、淡い金髪を肩まで伸ばし、黒い服をまとった女性は歩道と車道の境に立ち止まった。
彼女は黒服の中から何かを取り出して掲げたかと思うと、そのまま吸い込まれるように車道へと踏み出したのである。慌てて駆けつけたエリカが女性の腕を引っ張らなければ、彼女は通りかかった蒸気自動車に轢かれていたかもしれない。
「大丈夫ですか?どこか具合でも悪いんですか?」
しゃがみ込んだ女性に声を掛けると、彼女は生気のない、心を何処かに置き忘れたような表情をエリカに向けた。
「私、まだ生きてるんですか・・・」
その時、霊力を持ったエリカは、女性の中に『黒い影』を視た。酷くボンヤリとして薄い影だったので、彼女にもその正体は掴めなかった。
◇
「・・・んで、頭数を増やしてもう一度確認しようという話だったよな。それに何で断ったアタシがつき合わなくちゃならないんだよ!」
愚痴を吐いたのはロベリア・カルリーニである。
昨日この話題が出た時は、『警戒度が低く、また急な話でもあるので、取り敢えず都合のいい人だけで』ということになった。今現在も地下の作戦司令室ではなく客席での話題に留まっているという事実が、事態の緊急度の低さを物語っている。グリシーヌと花火は所用があり、またロベリアは「そんなめんどくさいこと、誰がするか」と不参加を表明していた。しかし、どこをどう脳内変換されてしまったのか、エリカの中ではロベリアが喜んで参加することになっていたのだ。挙句に無理矢理つき合わされたのだから、ロベリアにとっては災難以外の何ものでもなかった。
花火は様子を見に行った三人に感謝と労りの言葉を掛けると、改めて件の女性の様子を聞いた。三人は三様の表情を浮かべたが、共通していたのはそれぞれ多少の懸念が含まれていた点であろうか。
「怪人だの妖魔だのは絡んでなさそうだぜ。今のところはだけれど、な」
「ウン、ボクもそう思った。でもあの黒いモヤモヤした影、ちょっと気になるよね」
「皆さん、ノンビリし過ぎです!このままだと、また道路に飛び出しちゃいますよ」
三人の話を聞いて、グリシーヌがため息をつく。豪奢な金髪が卓上の洋灯に照らされて波のように光を撒いた
「・・・なるほど、このメルの資料と照らし合わせると、多少事情が見えてくるな」
そう言って、卓上に数枚の書類を広げた。それはテアトル・シャノワールの事務員であり、巴里華撃団の構成員でもあるメル・レゾンが作成した調査報告書だった。
―昨年末の午後四時頃、オペラ・ガルニエ前で交通事故が発生。
蒸気自動車を運転していた男性が操作を誤り、そのまま歩道に突入。通行人の男性一人が自動車と接触して死亡。被害者は時計技師見習いのアンドレ・フロン(23)。
人通りの多い場所で起こった事故で犠牲者が一名に留まったのは、事故車に気づいた被害者が周囲の人たちを押し退かしたからだと複数の目撃証言がある。この勇気ある行動に対し巴里市警は感謝状を発行した。
エリカが助けた女性は、先月のノエルに被害者と結婚したばかりの妻ラシェル(20)。彼女に身寄りはなく、残された遺品は彼が手掛けた懐中時計ひとつ―
五人が囲む洋卓に、湿り気のある沈黙が降り積もった。
「・・・なるほどな、つまり『魔が差した』のか」
ロベリアがぽつりと呟いた。
魔が差すとは、『魔』が心に入り込んだように普段では考えられないような『悪念』が起きることである。愛する夫を失い呆然自失となった妻が事故現場に立った時、ふと心の隙間に『魔』が入り込んでしまったということは充分に考えられる。
だが、人間の『念』は良しにつけ悪しきにつけ強く、言葉の上での『魔』が本当の『魔』に成り果てることもある。エリカたちが視たという影は、そんな『魔』の萌芽に相違なかった。今直ぐには問題にならなくとも、このまま放置しては災厄に育つ可能性も否定できない。
「・・・可哀想だよね」
「悲しい話だな」
「アンドレさんは善行を積まれたのですから、きっと神の御許に行かれた筈です」
コクリコとグリシーヌは溜息をつき、エリカはそう言って救いを信じたが、一人花火は沈黙を友としていた。
とそこに、銀髪の女性が黒髪の少女に声を投げる。
「んで、どうするよ隊長代理?こいつをどうにかして助けてやるか、それとも望む通りにしてやるのか。お前なら、この女の気持ちが分かるだろう?」
「―貴様!」
余りの無遠慮な言葉に立ち上がったのはグリシーヌの方で、言われた花火はただ静かに瞑目しただけだった。暫くして瞼を開いた花火は、やはり平静に言の葉を紡ぐ。
「・・・そうですね、私はラシェルさんの悲しみが、少しだけ分かるのかもしれません。ですが、分かることと、そこから救い出せるかどうかは、また別のことなのだと思います」
そう独白した黒髪の少女は、様子を視た三人に『魔』だけを討つことが可能か尋ねた。答えは全員「否(ノン)」だった。未だ明瞭な形になっておらず、何より影は常に彼女の内側に留まっていたからだ。瞬間、ロベリアが露悪的な視線を投げたのは、暗に『この女ごとでいいなら討てるけどな』と花火に問題提起してみせたのだ。
花火は物静かな表情でロベリアの提案を受け流すと、一日だけ考えさせて下さいと皆に頭を下げた。
花火が席を立った直後、ロベリアに歩み寄ったグリシーヌが彼女の胸ぐらを掴んだ。
「貴様、先程の言葉は何だ!言ってよいことと悪いことの区別もつかないのか!」
「そうだよ、酷いよロベリア」
「酷いです、花火さんに謝るべきです」
皆に責められたロベリアは、グリシーヌの腕を邪険に払い除けると全員を睨めつけた。
「ハア?口に出そうが出すまいが、全員同じように思ったんだろうが。『花火と同じだ、花火なら気持ちが分かるんじゃないか』ってな」
その言葉に、全員が気まずそうに視線を逸らす。
確かにロベリアの言う通りだった。ラシェルの立場が花火と似通っている。婚約者と夫という違いはあるけれど、若くして事故で愛する者を失った悲哀は同じであろう。ラシェルの気持ちが分かる花火ならば、何か彼女を救う手立てがあるのではないだろうか、と。
「いいかい、今のアイツは花組の隊長代理なんだ。変に気を使うより、ハッキリ言ってやった方がいいのさ。その上でどうするのか、花火が自分で決めるんだよ」
大きな溜息をつくと、この場で最年長の女性は低い苛ついた声で言った。
◇
一連の様子を貴賓室から眺めていたのは、テアトル・シャノワールの支配人であり、巴里華撃団総司令でもあるグラン・マだった。
劇場の構造上、貴賓室からは舞台を含めた一階部分が望める。そこから花組五人の会話を一部始終聞いていた婦人の瞳には憂愁の波紋が広がっていた。
彼女から見ても、北大路花火はよく隊長代理の努めを果たしていた。皆の意見をしっかりと聞き、皆の主張を巧みに調整し、皆の長所を上手く引き出している。大神一郎が花火を副隊長に選んだのは間違いではないのだろう。
しかし―グラン・マはその豊かな肩をすくめた。確かに花火は『皆』を上手にまとめている。でもその一方で、自分の気持ちは抑え込んでいるように見えるのだ。元来が決して自己主張の強い子ではないのだが、大神が巴里にいた頃はもう少し自分というものを主張していたように思う。
「何らしくもないことしているの、イザベル」
再び吐息を漏らしたグラン・マの広い背中に声が当たった。
支配人を本名で呼んだのは、貴賓室のソファに身を沈め、優雅に煙草を燻らせている女性である。
波打つ短髪の女性は、恐らくグラン・マより年下なのだろう。目鼻立ちは整い、美人と称してもよいのだが、『絶世の』とか『類い希なる』などの形容詞をつける程でもない。奇妙な表現だが、『平凡な美人』というのが一番事実に近いかもしれない。
だが、彼女が非凡なのは外側ではなく内側だった。上品な所作と、何より内面の活力により炯々と輝く瞳によって、まるで舞台女優のように人の視線を引きつけて止まない。また細身の身体を包むワンピースも黒なら、洋服掛け掛けられたコートと帽子も黒一色という格好の一方で、上品な乳白色の首飾りにより双方の色味を一層引き立てている感覚も凡庸とは程遠い。
苦笑を浮かべたグラン・マは、彼女の向かいに腰を下ろした。
「うちの踊り子のことでちょっとね。娘みたいなものだから、つい心配してしまうのさ」
「心配しているなら、本人にそう伝えればいいの。当人がいないところで心配しても時間と感情の無駄遣いよ」
流れるような口調で言葉の鞭を振るう客人に、女主人は声を上げて笑った。
「あんたは相変わらずだよ、ガブリエル。そうまではっきりと言われたら、逆に気持ちがいいくらいだ」
ガブリエルは巴里でも名の知れたスティリスト(服飾デザイナー)である。もっとも彼女は最初からその道を目指していた訳ではなく、若い頃には歌手を志していたことがあった。結局は芽が出なかったのだけれど、その頃に知り合ったのが当時既に名の知れた踊り子の『黒猫』―若き日のイザベルである。燃えるような向上心が鋭い針となって現れるガブリエルは、当然売れっ子のイザベルにも手厳しかった。しかし一方のイザベルがそんな彼女を面白がったことから、二人の間に奇妙な友誼が芽生えることになった。
その後二人の道は大きく分かれたけれど、関係だけはあの頃と変わることなく続いていたのである。
「真面目過ぎる子なんだよ。ジャポネーゼ独特の気質かどうかは分からないけれど、いつも自分の気持ちより他人のことを優先してしまうのさ」
「何処の国だろうと女は女よ。そういう人間を見ると苛々するわ」
見る者の視線を意識する女優のように、黒衣のスティリストは上品な所作で細い両手を広げてみせた。
そんなガブリエルの様子に、グラン・マは意地の悪い微笑を浮かべる。
「上品振られても、頬にマカロンの欠片をつけたままじゃあ恰好つかないねぇ」
その言葉に、心当たりのあった黒衣の女はあたふたと頬に手を当てた。途端に女優から喜劇役者へと転職してしまったかのような有様だった。
一拍の間を置いて、ガブリエルは印象的な瞳に危険な光を宿す。
「イザベル!アンタまた担いだわね!」
「おお怖い、上品の仮面が剥がれて素顔のガブリエルが出てきたよ」
わざとらしく怖がってみせるグラン・マに、ガブリエルは歯がみして悔しがった。この伯爵夫人にして劇場支配人は、何かといえば彼女をからかうのだ。
黒衣の女は手元の煙草を一気に吸うと、怒気と紫煙を一緒に吐いた。
「・・・嘘だってつき通せば真実になる。上品に振る舞う努力をして何が悪いの!」
「悪いだなんて一言も言ってないじゃないか。私はそんなあんたを昔から買っているのさ」
「『買っている』ですって?『からかっている』の間違いでしょうに。イザベル、あなたは昔からそう」
それ程豊かでもない自制心を総動員して、黒衣の女は再び上品の仮面を被り直した。その様子にグラン・マは声を上げて笑ったが、実際に勝ち気で努力家で、そのくせ少し抜けている所がある年下の友人を彼女は気に入っていたのだ。確かに、からかい甲斐があるのも間違いないのだけれど。
ようやく笑いを収めると、女主人は何気ない口調で切り出した。
「ところで、どうだろうガブリエル。あんたあの子と話してやってはくれないかい?」
「あなたにしては下手な冗談ね、イザベル」
ガブリエルは肩をすくめて見せた。その所作ひとつ取っても堂に入った優雅さであり、彼女の努力が決して一朝一夕のものではないこと物語っている。
「私は好きなことしかしないわ。私は自分の人生を、自分が好きなことだけで切り開いてきたの。たとえあなたでも、他人から言われたことに従うなんて真っ平御免よ」
ここまで言い切れる人間というのも尋常ではないが、応対した方もまた只者ではなかった。
「誰も諭してやってくれとか、力づけてやって欲しいなんて頼んでないよ。ただ、あんたはああいう子が嫌いなんだろう?思い切り引っ叩きたいだろうと思っただけさ」
黒いスティリストは二度三度と瞬きすると、微笑と共に紫煙を吐いた。イザベルの手に乗るのは悔しいが、彼女の言い草が気に入ったのもまた確かだったのだ。
「全く惜しいわ。もしあなたが男だったら、私の沢山いる愛人の一人にしてあげたのに」
「もしあんたが男だったら、毒舌芸でシャノワールの舞台に立たせてあげたよ」
二人の女性は優雅に笑い合う。どちらがより努力を要したのかは観客不在のため判然としなかった。
Ⅱ
翌日、北大路花火の姿は冬ざれの公園にあった。
今にも雪が降り出しそうな曇天で、痛みを感じそうなほど冴えた風が頬をなでる。昼間とはいえ数日前の雪が彼方此方に残っていることもあり、園内に人影はほとんど見当たらない。
彼女が腰を下ろしたのは、園内を流れる小川を見渡す長椅子である。そこは昨年の初夏、大神一郎と共に訪れた場所だった。当時小川に足をつけてしまった花火は、自分が水への恐怖を克服していたことを知り、凍りついていた心がゆっくりと溶け始めていたことを悟ったのである。あの時、空には初夏の陽光が輝き、公園は木々や花々の色彩に溢れ、水は心地好い涼気を彼女に伝えた。今、空は重く、色彩は単調で、冷気はきつく身体を縛る。風景を飾るまだらな残雪も、寒々しい印象を強調する効果しかない。
『それに、あの時は傍にいた大神さんが、今はいない・・・』
そう思って、花火は慌てて頭を振った。ここに来たのは巴里歌劇団の隊長代理として、一人落ち着いてラシェルの件を考えるためであり、決して感傷に浸るためではなかった。黒髪の少女は深呼吸をして冴えた空気を体内に取り込むと、意識して思考を切り替えようと努めた。
ロベリアが言ったように、ラシェルの気持ちが花火には痛いほどよく分かる。いや、今現在彼女が堕ちている深淵を理解できるのは、恐らく自分だけであろう。そこはかつて花火が留まっていた場所でもあったからだ。
では、そんな自分が手を差し伸べたら、ラシェルをそこから救い出せるのだろうか?そう自問すると、花火には自信がなかった。
顧みれば、花火には父母がいるし、辛い時期にはグリシーヌが傍にいてくれた。当時はそれがどれだけ支えになったのか気づかなかったけれど、もし皆がいなかったらと想像すると心に霜が降りる彼女だった。一方、今のラシェルには誰もいない。親兄弟も、支えてくれる友もいないのだ。
それでは、花火にとってのグリシーヌのように、彼女自身がラシェルを支える友人になれるだろうか?いや、同じ境遇の者同士が手を取り合っても、結局は自分の傷を相手に見出すだけの、何ら建設的ではない関係に終わってしまう可能性すらある。
悲しみの底から浮上するにはもっと別の、ラシェル自らが生きたいと思わせるような、力強さとか優しさが必要なのではないだろうか。そう、例えば―
「・・・大神さんのような優しさと、力強さが」
そう独り言ちて、そして呟いた言葉に気がついて、花火は自嘲未満の吐息を漏らした。
意識すればするほど大神のことが頭から離れない。巴里花組の隊長代理として頑張ろうとすると『こんな時、大神さんならどうしていただろう』と考えてしまう。タタミゼ・ジュンヌとしてシャノワールの舞台に立った時も『今夜の舞台、大神さんに喜んでもらえただろうか』と想像してしまう。彼のことを想わない日など一日たりとてない。そんな時、フィリップ・ディ・マールブランシュの姿も一緒に見えてしまうのだ。
花火の世界で、かつての婚約者はただ静かに笑っている。その笑みが、彼女の心を細く鋭い針で苛んだ。大神は「忘れるんじゃなく、心にとどめて悲しみを乗り越えるんだ」と言ってくれた。確かに、その言葉によって自分は救われた。しかし―
『私は大神さんの言葉に甘えて、フィリップのことを蔑ろにしているのではないか。私はとても酷い女なのではないだろうか・・・』
そんな自己険悪の沼に一歩踏み込みかけた花火の前に、気がつくと人影が立っていた。
慌てて視線を上げて、彼女は一瞬全身を強ばらせた。そこに全身黒色の人物を見出したからである。咄嗟に、かつて彼女を苦しめた怪人マスク・ド・コルボーが復活したのではないかと錯覚した。心の弱さにつけ込むのはコルボーの十八番だったからだ。
だが、そんな誤解は折からの寒風に乗って飛散した。少女を見下ろしているのは、全身黒ずくめの格好をした中年の女性だったからだ。
黒衣の女―ガブリエルは、ただ黙って花火のことを見下ろしている。花火自身、これまで特に流行の服装などに興味を持たなかったので、スティリストとしての彼女を知らなかった。グラン・マの客としてシャノワールを訪れた姿を何度か目にしたことがある程度である。
そんな女性が何故自分の前に立っているのか分からない黒髪の少女の前で、黒衣の女はようやく口を開いた。
「マドモアゼル、人に席を勧めないのは礼儀知らずというものよ」
「・・・こ、これは失礼しました。どうぞ、隣にお座り下さい」
一瞬面食らった花火だったが、直ぐに対応してみせたのは流石である。これが他の花組隊員ではこうはいかなかっただろう。
ところが、相手の反応は予想を超えていた。
「メルシー、マドモアゼル。でも言わせたのに悪いけれど、人に指図されるのは好きじゃないの。私は自分の意志であなたの隣に座るわ。もちろん、あなたの許可もいらないから」
そう宣言して、ガブリエルは花火の返事も待たず優雅に腰を下ろした。鞄から煙草を取り出して悠然と吹かしたが、有言実行というべきか花火には一言の断りもない。
そんな勝手極まる女性に、少なくとも表面上は平静に花火が声を掛けた。
「・・・あの、シャノワールでお姿を拝見したことがあります。私に何かご用でしょうか」
そう問われた黒衣の女は、横目で花火の姿を一瞥すると、可視未満に唇を歪めた。
「・・・まあ、本当に手を上げるのは上品ではないわね」
「はい?」
「いいえ、こちらの話」
そう言うと、ガブリエルは煙草を指で弾き捨てる。その優雅な所作が、高らかな『独演会』開催の鐘となった。
「マドモアゼル、どうやらあなたはこの私のことを知らないみたい。私があなたを知らないのは許せても、その逆はいい気分がしないわね」
勝手な言い草に対して、花火は何故か申し訳ない気持ちになった。余りに自信満々に言うものだから、知らない自分が悪いように思えてしまったのだ。
「・・・はい、仰るとおりです。私はあなたのことを詳しく存じません。そのことで気分を害されたのであれば謝罪します」
すると、何故か謝られた方が一層不機嫌になった。
「どうして謝るの?あなたが私を知らないのはあなたの勝手でしょう。私はあなたのことを知らないけれど、絶対に謝らないわ」
「も、申し訳ありません・・・」
「・・・あなた、私の話をちゃんと聞いていて?」
呆れたガブリエルは新たな煙草に火をつけた。寒風が小さな火種を緋色に輝かせて、冬ざれの風景に僅かながらの彩りを添える。
「私とあなたは別の人間よ。私にできて、あなたにできないことがある。私が知っていて、あなたが知らないことも当然あるわ。つまり人それぞれということ」
決して逆の例えを持ち出さない黒衣の女は、一服ついてから再び口を開く。
「それなら他人と同じことをしてちゃ駄目よ。もしあなたが、あなただけの、かけがえのない人になりたいのならね。もっと自分に正直になりなさい」
「・・・」
花火は、この一見礼儀知らずな女性の話を黙って聞いていた。身勝手に思える言葉の欠片が、今の彼女の心に深く刺さったからだ。痛みはあるが、不思議と不快感は伴わなかった。
「自分に、正直に・・・」
しかしそれは、幼いころから父母に「大和撫子たれ」と育てられた花火にとって、決して簡単なことではなかった。躾の上でも、また性格の上でも、そして現在では彼女自身の葛藤の上でも、気持ちに正直になるには乗り越える心の壁が厚く高かった。その壁を前にした諦観の気持ちが、言の葉の形になって小さな唇から零れ落ちる。
「…私は、酷い女です。そんな私が、自分の気持ちに正直になることは、果たして許されるのでしょうか」
曖昧な呟きは、独白の形をした懺悔だった。優しい言葉に甘えて、心にフィリップの幻想を抱えたまま、大神を想ってしまう自分。彼に対する裏切り、はしたない女・・・
年齢の離れた女性の間を、冷たい風が音を立てて通り過ぎる。黒い帽子が飛ばないよう押さえていたガブリエルは、咥えた煙草を指に移すときっぱり言い切った。
「『酷くない女』なんて、童話の中か馬鹿な男の夢想にしか存在しないわ」
余りの極論に絶句する花火の隣で、ガブリエルは女優顔負けの所作で煙草を吹かした。
「私はね、誰からも命令されず、湯水のようにお金が使える贅沢な生活がしたいと思った。人から注目される特別な人間になりたいと願った。あなたの目からすれば『酷い女』ということになるでしょうけど、私はこの雪の一片ほどにも自分を卑下したことはない」
ガブリエルは降り始めた雪を掌に載せると、紫煙を吹き掛けて一気に溶かしてやった。
「私は女として生まれた。実際にどう生きたかは大した問題じゃない、大切なのはどんな人生を夢見たかということだけ」
正面を向いたまま語っていたガブリエルが、視線だけを花火の方に投げた。
「あなたも女でしょう?翼を持たずに生まれてきたことを嘆くより、翼を生やすために努めて、どんな壁も飛び越えてみせなさい。この私のように」
「・・・」
花火は目を見開いた。黒衣の女性の向こうに、かつての大神の姿が重なる。彼は「女性が未来を築いていく」と語った。そして自分も言ったではないか、「大神さんの未来も・・・・・・私の未来も・・・・・・いつか一つになるといいですね」と。心の中を覆っていた霧に、金色の陽光が差し込んだような心地だった。
そんな花火の前で、黒い女性は立ち上がった。放った煙草の放物線が、『独演会』はこれで終了だと告げた。
悠然と立ち去ろうするガブリエルの背中に、花火は思わず声を掛けていた。
「あ、あの!貴重なお言葉ありがとうございました。最後にひとつだけ教えて下さい、あなたはどうして黒い服に身を包んでいるのですか?」
かつて花火が黒服以外着ることがなかったのは、亡くなった婚約者の喪に服していたからである。黒は喪に服する色だった。あの女性も大切な誰かを失ったのだろうか?
黒衣の女性は前を向いたまま、はっきりと言った。
「黒が個性を引き出す強い色だから。最も無難で、もっとも粋で、永遠に流行の最先端になれる色だから」
そして、ガブリエルは優雅に振り返る。
「あなたは黒がよく似合うでしょうね。それを喪服とするか、それともモードにするのかはあなた次第よ」
そう告げると、彼女は今度こそ立ち去った。振り返ることなく、我が道を悠然と。
その細く小さな背中に向かい、花火は深々と頭を垂れるのだった。
Ⅲ
その日の夕刻、開店準備に追われるテアトル・シャノワールの楽屋に北大路花火が姿を現すと、その場にいた踊り子たちは息を呑んだ。彼女が最近は着ることのなかった、かつて見慣れた黒い服をまとっていたからだ。
慌てて駆け寄った面々に古拙の微笑を向けると、花火は何気ない口調で無形の爆弾を投下した。
「先ほど、ラシェルさんにお会いしてきました」
言葉の意味を理解した面々は、再び息を呑んだ。
◇
時計技師の卵だったアンドレ・フロンの妻ラシェルは、この時『涙を忘れた女優』に成り果てていた。
いつまでも帰らぬ夫を心配して眠れぬ夜を過ごした末、彼がオペラ・ガルニエ前で蒸気自動車の事故に巻き込まれて亡くなったことを巴里市警から知らされた時、新妻から未亡人へと望まぬ配役替えを強いられた彼女は涙を見せなかった。事実が余りに突然過ぎて、現実感が喪失していたからだ。
車や人通りが大変多い場所で起こった事故だったが、我が身を省みず周囲の人々を助けたアンドレの行動により、犠牲者は彼一人に留まった。新聞は彼の勇気を褒め称えたし、巴里市警も豪華な感謝状を贈った。だが、それが一体何だというのか。どうしてその他の人々が無事で、彼一人が全ての不条理を背負わなければならないのか―アンドレの妻になったばかりであり、また未亡人にもなったばかりのラシェルは心の奥底で独白した。その言葉すら、空洞だらけの心を通り抜けるばかりだった。
事故が新聞紙上を賑わせた途端、夫の虚像が彼女の元から離れて華麗に踊る様を唖然と眺めることになった。それは夫だけに留まらず、彼女にも新たな役が世間から割り振られた瞬間だった。新たな役名は『悲劇の妻』といい、当人に何の断りもなく金ぴかの仮面を被せた人々は、呆然とするばかりの彼女に代わって涙を流してみせた。
だが、それも僅かな間でしかなかった。巴里には日々刺激的な話題が生まれ、平凡な事故の話題などあっという間に流行と記された屑かごに放り捨てられる。熱狂が冷めた灰の中で、ラシェルはようやく自分が独りになってしまった事実を突きつけられた。
寄方ない彼女の心に空いた穴を埋めるものは、時間という漠としたものしかない。しかしその空間が少しずつ埋まってゆく様を、独り悲しい現実と向き合ったまま耐えられる程には、人は強くなどなかった。ラシェルの逃避行為は、彼が唯一残した懐中時計を胸に抱き、唯ひたすらに『悲劇の妻』という望まない役を演じ続けることだった。役を演じている間は、虚構の世界に身を置いて事実から目を逸らすことができたからだ。
その一方で、夫がいない現実を補うために、彼女は過去へ想いを馳せ、懐中時計越しに亡き夫と語り合った。それがどれだけ虚しく、またどれだけ救いのない行為であろうとも、そうしなければ彼女は正気を保てなかったのだ。
虚構と現実の狭間が音を立てて裂け広がり、そこに昏い影が芽生えたことにラシェル自身は気がつかなかった。或いは夫の死と同様、気がつくことから頑なに目を逸らし続けていたのかもしれない。
しかし、幾ら気がつかない振りをしても、そこに影は厳然と存在した。それは少しずつ、黒いインクの染みが広がるように黒衣の未亡人の行動に影響を及ぼしていった。
喪服に身を包んだラシェルは、アンドレが事故に遭った場所を、事故が起こったその時間に日参するようになった。それが『悲劇の妻』という役を演じる上で必要な行動であると信じ、一方で夫に少しでも近づく行為であると思い、その果てに彼が彼女の手を取って苦しみの現世から救い出してくれると願って。
ラシェルは誘惑に駆られる。彼が事故にあった時間、その場所に、一歩足を踏み出す。そうすれば彼の元に行けるのではないか。その誘惑は、日々彼女の心の中でゆっくりと拡大していった。
その日も、ラシェルはオペラ・ガルニエ前の通りに佇んでいた。当時、あれだけ夫婦のために涙を流した人々も、今では彼女に目を向ける者などいない。彼女だけが虚構と現実の狭間で哀れな舞踏を披露し続けている。観客のいない舞台で、現実に背を向けて泣くこともできず、危うい足取りで踊り続ける黒衣の女優。
「…もういい、もういいの。デデ、早く私を迎えに来て」
懐中時計を掲げて、その向こうにいる夫を呼んだ。無彩色の世界が、鮮やかで暖かな過去へと遡っていく―
身寄りのない少女ラシェルが巴里に流れてきたのは、単純に仕事を求めてのことだった。人口と雇用が比例するなら、少なくとも田舎町より大都市の方が職の口があると思うのは理に適っており、実際伝手や特別な技術もなく、また人より特段容姿に恵まれている訳でもなかった彼女でも、下町のビストロで掃除や皿洗いなどの方便(たずき)を得ることができた。
青年アンドレ・フロンはその店の常連だった。彼が巴里に身を置いている理由もラシェルと全く同じであったが、運命の悪戯というより同じ訳を抱える男女が市内にごまんといたからだろう。当初彼が職としたのは商品の仲買人であったが、優秀か劣等かでいえば限りなく後者だった。独りビストロで安ワインを舐めながら肩を落としていたが、ラシェルから見てすら能力云々以前に性格が商売人に向いていなかった。良く言えば優しく、悪く言えば押しが弱いアンドレは、生き馬の目を抜く世界で生きることは不向きなように彼女には思えた。
そんなある日のこと、ビストロの掛け時計が動かなくなってしまった。随分な年代物で、おまけにちゃんとした手入れもしていなかったから、ラシェルからすれば「遂に」とか「とうとう」とかいう単語が言葉の頭についたものだった。ところが、偶々その場にいたアンドレが、「ちょっと失礼します」と断って時計をいじると、驚いたことに再び針が動き始めたのである。
ビストロの主人が修理の駄賃として用意した安ワインを卓に運んだラシェルは、彼に驚きの顔を向けた。
「ビックリした、あなたって意外に器用だったのね!」
思えば随分と失礼な発言なのだが、言われた方は困ったような笑みを浮かべて枯草色の頭を掻いた。
「昔から、手先だけは器用だったから。少しはお役に立てて良かった」
特に偉ぶるでもなく、相変わらず控えめな青年を、彼女は応援したくなった。別な表現をすれば、頼りない背中を思い切り押したくなったのだ。
「それなら、商売人なんか辞めて職人になりなさいよ。ウチのお客さんに時計技師のお爺さんがいるから、アタシ紹介してあげる!」
突然のことに困ったような笑みを浮かべるばかりのアンドレを余所に、結局あれよあれよという間にラシェルが話を進めてしまった。青年が気づいた時には、次の日から時計技師の爺さんの家に通うことになっていたのである。実のところ、彼自身も商売人が向いていないことは分かっていて、彼女の話が良い切っ掛けだと思ったのかもしれない。
特に深い考えがあってラシェルは時計技師を勧めた訳ではなかったが、少なくとも商売人よりはずっと適性があったらしい。手先が器用なのはもちろん、ひとつの事にじっくりと向き合う職人気質が彼の性に合ったのだ。師に筋がいいと褒められれば、アンドレはビストロまで足を運んでラシェルに報告した。彼女の方も彼が生き生きとしている様子を我がことのように嬉しがった。
いつの間にか、アンドレは彼女のことを名前で、ラシェルは彼のことを愛称で呼び合うようになっていた。
時が過ぎて、秋から冬の間を季節が行きつ戻りつしていたある日、ビストロにアンドレがやってきた。しかし普段と異なり緊張しきりの彼を、ラシェルは店近くの小さな公園に誘った。少しだけ時間が欲しいと彼が言ったからだ。
「ラ、ラシェル、その、これを受け取って欲しいんだ」
震える手で彼が差し出したのは、飾り気のない小箱と、たった一輪の小さな黄色い薔薇だった。
意味が分からないままラシェルが箱を開けると、その中には銀色に鈍く輝く懐中時計が時を刻んでいた。
「デデ、これは何?」
「・・・懐中時計だよ」
彼女が問うたのは意味であり、物が分からなかった訳ではない。しかし緊張の極みにあるアンドレは、その程度のことすら理解できなかったのだ。呆れたラシェルが改めて口を開こうとした時、それに先んじて彼が言葉を紡いだ。
「・・・初めて、僕だけの力で作ったんだ。師匠も褒めてくれたよ、「お前はワシなんかよりもずっとイイ腕をしてる」って」
「・・・そう、よかったわね、デデ」
「うん、やっと時計技師としてやっていける自信が持てた。だから、この道に誘ってくれた君に感謝というか、その・・・、今後についても、君と、だから、苦労を掛けるだろうけれど、あの、ええと・・・」
もはや滑稽と思える程に緊張の極に達している男を前にして、女は正確にその意図を察した。自分の心臓が跳ね上がる音を彼女は聞いた。
「ごめん、自分でも訳が分からなくなってきた。つまり、つまりは・・・一緒になって欲しいんだ」
自分自身の弱気を蹴り飛ばしたというより、混乱に乗じて諸共に結論へと転がり込んだアンドレは、急上昇した体温を下げるかのように大きく息を吐いた。
目の前を通り過ぎる天使を唖然と見送っていたラシェルは、ゆっくりと視線を手元に落とした。彼女の瞳に銀色の懐中時計と、小さな黄色い薔薇が一輪映る。あることに気がついて、唇に笑みの花が咲いた。
「・・・ねえ、デデ。黄色い薔薇の花言葉って知ってる?」
先程の告白で精根尽き果てた時計技師の卵は、黙って首を左右に振った。求婚には花が要るだろうと花屋に飛び込んだものの、手持ちのお金がほとんどなく、買える中から綺麗と思ったものを選んだだけである。花言葉なんて考えたこともなかった。
「・・・ええと、あまり縁起がよくないのかな?」
「ええ、とっても」
小さな黄色い薔薇だと『笑って別れましょう』だったかしら、そうラシェルが告げると、アンドレは可哀想なくらい情けない顔をした。それを見て、彼女は笑った―目尻の涙を拭いながら。
ノエルの日に、二人は結婚した。
時計技師の卵と、小さなビストロの従業員である。小さな小さなアパルトマンの一室で、自然と膝をつき合わせるような暮らしだった。
「将来は瑞西(スイス)のラ・ショー・ド・フォンで暮らそう。時計技師が集まって暮らす町だそうだよ」
「デデ、あなた寒いの苦手じゃなかった?山国なんだから、きっと巴里より寒いわよ」
「それは困った、毎日君にポトフを作ってもらわなくっちゃ」
それでも、そんな他愛のないことを話しているだけで、二人は充分に幸せだったのだ。
―彼女の世界で、アンドレは笑顔で手を差し伸べていた。その手を掴もうと一歩足を踏み出した時、ラシェルの手を引いた者がいた。
虚構の舞台を邪魔された女優は厳しい顔で振り返り、そして表情を固まらせた。そこには全身黒尽くめの少女が微笑を浮かべていたからだ。
「あなたがラシェルさんですね、事故で亡くなられたアンドレ・フロンさんの令夫人…」
静かな、抑揚のない声で黒衣の少女は言った。それは、事故後に何度となく聞いた言葉である。その後は決まって慰めとか励ましの言葉が続くのだ。もう沢山と思う一方で、『悲劇の妻』という役を切望してもいるラシェルだった。
だがしかし、少女が発したのは、女優が期待していたどの台詞でもなかった。
「私には、あなたのことが分かります。あなたが何を考えて、何を望んでいるのかも、全て・・・」
少女は微笑を浮かべたまま、静かに言葉を紡いでいく。
「最初は『あの人が死ぬなんて』と悲しんだ。その次は『どうしてあの人が死ななければならないのか』と訝しんだ。そして『彼の代わりに別の人が死ねばよかったのに』と世間を恨み、そして今は『私も彼のところに行きたい』と思い詰めている」
淡々と語る言葉は、雷鳴となって黒衣の女優の心に響いた。
「その一方で、あなたは自分自身を欺くために、別の役割を演じようと―」
「止めて!」
ラシェルは大声を上げたつもりだったが、実際には辛うじて少女に届く程度の弱々しさだった。それは黒衣の少女の言葉に図星を指されたことの証左に他ならなかった。
それでもなお微笑を貼りつかせている黒衣の少女に、ラシェルは初めて恐怖を抱いた。
「…あなたは、誰なの?」
やはり少女は表情を変えることなく、どこまでも穏やかな声音だった。
「私のことは、どう呼んでいただいても結構です。人によっては『魔女(ソルシエール)』とか『死神(ラ・モール)』とか呼ぶ方もいるでしょうか。そうそう、昨年などは『怪人(ル・ファントーム)』とも呼ばれました」
ラシェルは絶句した。何を馬鹿なことを、私をからかっているのね、という声が喉まで出かかっていたが、それが言葉になることはなかった。
世間の口に戸は立てられない。昨年巴里で起こった騒動の数々は、人外の怪人たちの仕業であるとの噂がまことしやかに流れていた。内面が一切読めない微笑を前にして、心の何処かで『もしかしたら、本当にこの子が』と肯定する声がする。それ程までに、黒衣の少女が浮かべる微笑は深く、それ故に底の知れない恐怖を感じるのだ。
そんな女性の葛藤など全てお見通しという瞳の少女はラシェルに告げた。密やかに、そして相手の心を籠絡する魔女のような声音で。
「あなたが心に抱いている願いを、私が叶えて差し上げましょう」
二度三度と瞬きをしたラシェルは声を絞り出す。自分の声とは思えないそれを、他人事のように耳にしながら。
「…本当に?本当なの?」
「明後日、アンドレさんが事故に遭われた時間に、この場所へいらして下さい。願い通り、あなたを苦しみから解放して差し上げます」
そう告げると、黒衣の少女は底の知れない微笑を残して人混みの中に溶けて消えた。
ラシェルは懐中時計を握りしめたまま、呆然とその場にしゃがみ込んだ。
◇
「―それでは、励ますどころか追い詰めただけではないか!」
グリシーヌ・ブルーメールは悲鳴にも似た声を上げた。
「それに、自分のことを「魔女」とか「怪人」なんて。一体どうしちゃったんです?」
心配そうな顔で、エリカ・フォンティーヌが顔を寄せる。
「どうして明後日なんて言ったの?もっと後にすれば、その間に気が変わるかもしれないよ?」
コクリコが年齢に似合わない思案顔をする。
その隣で、ロベリア・カルリーニは自らの顎に指を添えた。
「・・・いや、二日後というのは悪くない。こういう場合は明確に日付を、それも先過ぎない日を指定すれば、存外人間てヤツは我慢できるもんだ。怪人を名乗ったのだって、言葉の信憑性を裏づける意味では有効だろうが・・・それはそれとして、確かにどういうつもりなんだ?」
巴里の悪魔と異名をとる彼女は、正直なところ未亡人に対して淡泊―或いは冷淡だった。古今東西どこにでも転がっている類の悲劇であったし、本人が夫の元へ行きたいと願っているなら、それを邪魔するのは余計なお節介であろうとまで考えていた。 もっとも、現在彼女の回りにいる者たちが揃いも揃ってお節介であることは重々承知していたから、余計に花火の真意が掴めなかったのだ。
ロベリアの問い掛けに、北大路花火は静かに目を伏せた。
「・・・私では、ラシェルさんをお救いすることはできないでしょう」
言葉を失う面々の前で、花火は淡々と告げた。確かに同じような境遇で、私は大神さんに救われた。けれどラシェルは花火でなく、花火も大神ではない。気持ちが分かるからといって、同じ説得が通じるかどうかは別の話である、と。
「それじゃあ、本当にラシェルさんを見放しちゃうんですか!?エリカそんなの嫌です!」
更に顔を寄せるシスター見習いに、黒衣の少女は古拙の微笑を向けた。そして、一同を見渡すと深々と頭を垂れた。
「皆さんにお願いがあります。どうか私の我儘を聞いて下さい」
Ⅳ
オペラ・ガルニエは通りという名の川に浮かぶ中州である、そう例えることができるかもしれない。歌劇場の周囲は複数の通りで完全に囲まれていたからだ。
豪壮華麗なファサードから見ると、目の前にはオペラ大通りが伸び、左右をカプシーヌ大通りが走っている。そんな大通りを均等に分断するように、斜めに向かってペ通りと九月四日通りが貫かれている。交通網は地上だけではない。地下にはオペラ駅が設置されており、三号線、七号線、八号線と三路線も乗り入れており、出入口からは大量の人々が吐き出されたり吸い込まれたりしていた。ここは巴里の中でも有数の人通り、交通の要所なのである。
そんな煩雑極まる交通を整理するために、オペラ・ガルニエの正面には三つの円形地帯(交通島)が設けられている。
その日―北大路花火がラシェルと約束した二日後。
巴里の天気を司る女神は不機嫌だった。朝から雪雲が垂れ込めて、気紛れに雪を振りまいたかと思えば雲間から陽光を差すこともあって、外出着をどうするかで人々を悩ませていた。
巴里は高緯度に位置する都市なので、季節によって日の出と日の入りの時刻が大きく変化する。一月ともなれば午後三時を過ぎた頃から夕方の気配が漂い始め、五時頃には太陽は頼りなげな姿をアパルトマンの向こうに隠してしまう。午後四時前、天候不順ということもあって、気の早い街灯にはポツポツと灯りが灯り始めていた。
そんな中、喪服に身を包んだラシェル未亡人は指定された場所に佇んでいた。オペラ・ガルニエの正面前、放射状に伸びる四本の通りと三つの交通島を見はるかす地点。そこが、善良で優しい夫が遭難した所であり、黒衣の少女に指定された場所でもあった。
ラシェルにとって、彼女が何者であるのかはどうでもよかった。例え本物の悪魔であろうが怪人であろうが、この苦しみに満ちた舞台から退場させてくれるのならば演出家は誰でもいい。
アンドレ・フロンが事故に遭ったのは午後四時ちょうど。ラシェルは肌身離さず持っている懐中時計を胸元から取り出した。規則正しい運針が、その時間まで後一分であることを創造主の愛妻に告げる。
そして文字盤から顔を上げた未亡人は、見た。
雪催いの乏しい色彩の中、彼方の交通島に黒衣の少女が立っている。通り過ぎる蒸気自動車、交通島を経由して通りを渡る人々、その気紛れに生じる隙間から、少女が真っ直ぐに自分を見詰めている。既に夕刻の階に一歩を踏み出した頃合いであり、また距離にして百メートル強も離れているので表情ははっきりと分からないけれど、あの内心が読み取れない、空恐ろしいような微笑を浮かべているに相違ないとラシェルは確信していた。
あのように離れた場所から、黒衣の少女がどのような手段で苦しみから解き放ってくれるのかは分からない。それはラシェルにとってはどうでもいいことであり、彼女が求めるのは結果だけだった。
黒衣の未亡人は銀色に鈍く輝く懐中時計に口吻すると、それを夫に向けて掲げた。
「デデ、私をあなたの元に連れて行って…」
オペラ・ガルニエから数えて三つ目の交通島に、北大路花火は佇んでいた。黒いワンピースの上に同色のコートを羽織り、足下には二メートルを超える長大な袋が横たえられている。時折、歩行者や運転手から興味と好奇心のない交ざった視線を投げかけられたが、黒衣の少女は静かに瞑目して他者の視線を受け流していた。
精神を研ぎ澄ませていた花火が、静かに瞼を開く。時を同じくして、二つ目の交通島で騒ぎが起きた。深緑色のコートに銀髪で長身の女性が、その腕から炎を放ちながら叫ぶ。
「炎を見るたび思い出せ!フィアンマ・ウンギア!」
一瞬の空白の後、辺りは大混乱となった。彼方此方から「巴里の悪魔だ!」だの「逃げろ!早くしろ!」だのと悲鳴が上がる。当然、人々の注意は災厄の発生地点に集中し、交通島に佇む黒い少女が長大な弓を構えたことなど誰も気がつかなかった。
少女は弽(ゆがけ)を装着した右手に矢を持ち、両拳をゆっくりと持ち上げる。そこから左右に開きつつ手を引き下ろすと、後は放たれるばかりの弓矢は、ただ真っ直ぐにオペラ・ガルニエを、その前に佇立する女性を捉えていた。二人の間には、地には無数の蒸気自動車と人々、空にははらはらと舞う雪の結晶が、無数の障壁となって隔たっている。
そして、午後四時を告げる鐘の音が、巴里の街に響き渡った。
刹那、気紛れな雲間から差し込んだ金色の陽光が歌劇場の周辺を一閃した。石造りの単調な色彩が一変し、未だ舞う粉雪が星々の瞬きとなってその街区を彩る。
瞬間、弓矢を構えていた花火は目を見開いた。しかし直ぐに表情を和らげると、優しげな微笑さえ浮かべる。僅かに揺れていた矢尻が、金色の世界で静かに動きを止めた。
「―」
何ごとかを呟いたと同時に、黒衣の少女は自らの右手を解放した。周囲に弓音を響かせて放たれた矢は、金色の光跡を中空に刻んで飛んだ。
紳士の帽子を掠め、
婦人の傘の下を抜け、
子どもが振り上げた絵本の残像を貫き、
交差する蒸気自動車の前面を衝突寸前に通り、
瞬く雪の結晶を黄金の粒子に変換して、
光の流星と化した矢は一直線に飛んだ。
通りかかったバスが障壁と化して立ち塞がる。たが、車内の栗色の髪の少女が驚くべき軽捷さで両側の窓を開くと、矢はその僅かな隙間を切り裂いて通過した。
そして、花火が行動を起こしてから正確に二秒後、矢はガルニエ前に佇むラシェルに吸い込まれるように飛び込み―彼女が掲げていた懐中時計を文字通り粉砕した。
◇
「・・・お前、気は確かか?」
花火から一連の計画を聞いた時、ロベリアが最初に発した言葉はこれだった。
「形見の懐中時計が想いを留める象徴となり、結果として『魔』も彼女の内側に留まっている。だからこれを取り除いた瞬間に『魔』も外に出てくる。そこまでの話は分かった。だが、どうしてそのような超長距離から狙わなければならないのだ」
グリシーヌは腕を組んで唸った。
「・・・あの方は、懐中時計を肌身離さず持っている。身体から離すのは、その向こうのアンドレさんと会話する、ガルニエ前のあの瞬間だけなの」
花火の答えに、ロベリアは呆れ顔で肩をすくめた。敢えて口にするまでもないが、懐中時計を手に入れるくらい彼女に掛かれば呼吸をするよりも容易だった。深夜に忍び込んで盗むもよし、街中でスるもよし、方法は両手足でも数えきれない程ある。
その言外の意味を察して、花火は静かに首を振った。ただ壊したり盗まれたりしただけでは余計に想いが募り逆効果となってしまう。大切な品である懐中時計は、彼女が生きたいと願う切っ掛けとなるような前向きな理由で失われなければならない、と。
「でもさ、本当にできるの?だってこんなに遠いし、間には車や人がタクサン走ってるんだよ?」
用意されたガルニエ前の地図に小さな指を這わせながら、コクリコが疑問を呈した。花火が地図上で指し示した場所からラシェルが立っている位置まで、距離にして一〇〇メートル以上はある。通常、弓道場での的までの距離は近的場で二八メートル、遠的場でも六〇メートルである。その上、狙うべき的の大きさは十センチにも満たないのだ。ロベリアではないが正気の沙汰どころの話ではない。神技、いやそれすらも超越した奇跡を起こそうというのだから。
「もちろん、とても難しいことだと分かっています。でも皆さんの協力があれば、不可能ではないと信じています」
「信じるだって?ハン!一体何を信じるって言うのさ」
呆れた口調で吐き捨てたロベリアに、花火は微笑を向ける。
「皆さんのお力と、私の力を信じています」
まじまじと発言者を見返した銀髪の女性は、声にならない声を上げて天を仰いだ。理性ではない別の何かによって、叛意が不可能であることを悟ったのだ。
◇
その瞬間、ラシェルは一体何が起こったのか理解できなかった。突然の衝撃に目を開くと、その瞳に映ったのは自らの体内を流れる血潮ではなく、金色の陽光に瞬く、粉々に砕け散る懐中時計の部品だった。思考が交通渋滞を起こし、視界が漂白する。
刹那、彼女の身体から黒い影が浮かび上がった。象徴たる時計を失った衝撃で、ラシェルの内に留まっていた『魔』が体外に現れたのだ。それはほんの一瞬だったが、精神を集中して待機していたグリシーヌには充分過ぎる時間だった。強く踏み込んで一閃した戦斧が、ラシェルの数本の頭髪と共に見事影を両断する。真っ二つになった『魔』の芽は、黄金色の夕日に照らされて蒸発するように霧散した。
糸が切れた操り人形のように崩れ落ちるラシェルをグリシーヌが抱きかかえる。続いて駆け寄ったエリカが、未亡人の胸に自らの掌を当てて霊力を込めた。温かな光を感じて、彼女はゆっくりと瞼を開いた。
「大丈夫ですか?って言うの、これで二度目ですね」
呆然としているラシェルに、エリカは慈愛に満ちた笑みを向けた。
未だに事態が呑み込めない未亡人が頭を巡らせると、揺れる視界の遥か向こうに黒衣の少女が立っている。彼女の姿を蒸気自動車が遮り、その車が通り過ぎた後には、少女は幻の如くその姿を消していた。
「・・・そんな、願いを叶えるって、なのに、彼の懐中時計が、粉々に」
混乱するラシェルの手を取ると、エリカは明るく、優しく、暖かな声で言った。
「この懐中時計があなたのことを守ったんですよ」
「・・・」
「この時計は身代わりになったんです。あなたに怪我がなくて、時計も、作った方も喜んでいます」
二度三度瞬きをしたラシェルは、自嘲気味に呟いた。
「・・・あなたに、何が分かる―」
「分かりますよ!」
言葉を被せたシスター見習いは、石畳に転がる懐中時計の部品を手に取ると、大切な物を押し抱くようにして瞑目した。
「私、分かっちゃうんです。物とか場所とか、そこに宿った人の気持ちが。この時計は、あなたを守れて良かった、あなたが怪我をしなくて良かったって、とっても喜んでます」
唖然として、否定しようとして、でも、ラシェルにはできなかった。心の何処かで、そうあって欲しいと強く願っていた。そして、そう思っている自分に気がついていた。今の今まで心を覆っていた霧が晴れて、見えなかった光景が目の前に広がったような気分だった。
思わず、赤い服の修道女に声を掛けていた。
「・・・あの、私の夫は、そこで事故に遭ったんです。あなたには、夫の姿は見えますか?」
エリカはラシェルが指さした方に目を向けて、そして黙って頷いた。
「優しそうな男の人が、あなたのことを見詰めています。でも、悲しそうな、心配そうな顔をしています」
「えっ!?何を、デデは何と言っているの」
「ごめんなさい、声は聞こえないんです。でも、伝わってくる想いは分かりますよ。胸が張り裂けそうなくらい、あなたのことを心配しています。悲しみに沈んでいるあなたを見て、同じくらい悲しんでいる」
「そんな、デデ、あなた・・・」
エリカは、笑みを浮かべた。慈愛に満ちた、雪を溶かす春のような、暖かな笑みを。
「デデさんは、あなたが悲しんだり苦しんだりすることなんて望んでいません。そういう人なのを、あなたが一番よくご存じですよね」
「・・・はい、はいっ!」
それだけ言って、ラシェルは声を上げて泣いた。『悲劇の未亡人』という役ではなく、唯一人の『アンドレの妻』として、ようやく泣くことができた。
オペラ・ガルニエに面したアパルトマンの屋根に、花火を抱えたロベリアの姿があった。人目を引きつける役目を終えた大泥棒は、最後の勤めとして隙を見て花火を連れ去ったのだ。
「ったく、演出過剰だって」
「すみません、こういうことは徹底した方がよいと思いましたので」
微笑む花火の視界の中で、ラシェルが声を上げて泣いている。ロベリアが鼻を鳴らした。
「説得をエリカに任せてよかったのかよ?」
「はい、エリカさんの優しさと暖かさが、あの方にとっては一番の力になると思いました。どうやら、上手くいったみたいですね」
花火の言葉には賛同しても、エリカのことを褒めるには心理的抵抗を感じたらしい。ロベリアは曖昧な表情を浮かべた。
「エリカのヤツ、本当は見えてもいないし分かってもいないんだろ?」
「今のラシェルさんには、事実かどうかは重要ではありませんから」
「まあな。後はあいつ次第だろうさ」
「そうですね。でも、多分大丈夫だと思います」
「フン、その心は?」
花火は古拙の微笑を浮かべた。
「女性って、とても強いですから」
驚いた顔で腕の中の少女を見詰めたロベリアは、愉快そうに笑った。
◇
その日の夜、花火はグリシーヌの部屋を訪ねていた。親友を招き入れた屋敷の主は、彼女のために温かい飲み物を用意した。
暖炉の薪が爆ぜる心地好い音を聞きながら、グリシーヌは芳香が立ち上る茶碗を置いた。
「それにしても、今思い返しても嫌な緊張が蘇るぞ。よくもまあ上手くいったものだ」
彼女の心配は当然だったろう、一歩間違えれば通行人や未亡人に矢が当たるところだったのだ。矢尻を鉄製からゴム製に替えてあったが、それでも当たれば大怪我は免れなかったであろう。グリシーヌがあの場に控えていたのは魔を退治するためばかりではなく、飛来する矢が逸れてラシェルに当たりそうになったら、飛び出して彼女を守る役割もあったのだ。
今回は、皆がそれぞれの役割をよく果たしてくれた。最初にロベリアが騒ぎを起こして人目を引く。その隙をついて花火が矢を放つ。ちょうどその時間に通りかかるバスの窓をコクリコが開ける。グリシーヌが魔を退治する。そしてエリカがラシェルの心を救う。花組全員の特徴や人となりを考慮して、花火が各人の役割を決めた。その上で明後日と指定した次の日、同じ時刻に現場を下見して準備を整えたのである。
「私もね、本当は不安だったの」
花火は、伏し目がちに告白した。親友である彼女にだけ、彼女は本心を明かした。
「皆にも自分にも大丈夫と言い聞かせたけれど、交通島で独りになって目を閉じると、足下から弱気の虫がじわじわと這い上がってきた。でもね、矢を放とうとした瞬間、世界が金色に染まって、そこにフィリップが立っているのが見えたの」
「・・・」
「不思議ね、水面のように気持ちが静まった。そして心から想ったの、『ありがとう』って」
「・・・そうか」
グリシーヌは頷いた。目の前の親友は、ようやく自分の気持ちにひとつのけじめをつけたのだろう。それがどのような形のものなのかは分からないが、花火の表情にその答えが表れていた。
実はこの時、花火は本心の全てを明かした訳ではなかった。
自分では今回の方法以外を思いつかなかったのは確かなのだが、詳細に検討をすればもっと危険の少ない代案があったかもしれないとは思っていた。だが、ラシェルにとって非常に大切な品である懐中時計を壊すからには、それ相応の危険を背負わなければ失礼ではないかと彼女は考えたのだ。これは理性ではなく感情での話だったから、ロベリアが聞けば失笑したことだろう。
それとは別の極めて個人的な、ある心に秘めた事情もあった。花火は今回の一件を、自分が壁を乗り越えるための、黒衣の女性―ガブリエルの言葉を借りれば自らの背に翼を生やすための試練に擬したのだ。この試練を超えた先に、『いつか一つになる、二人の未来』があると信じて―。
「―ところで、本当に勘違いされたままでよいのか?」
話題を変えたグリシーヌの声が、花火の意識を現実の水面に引き上げた。
「あの婦人にとって、花火は今でも『怪人』ということになっているのだぞ」
「・・・以前、エビヤン警部に言われたわ、『日本人の顔は、皆同じに見える』って。だから、大丈夫よ」
控えめに花火は笑って、グリシーヌも笑ったが、その言葉が本心からのものではないこともまた分かっていた。黒髪の少女はラシェルが生きる希望を持てるのならば自分がどう思われようが構わないのだということを。
少し席を立ったグリシーヌは、戻ってくると手に持った紙片を卓上に並べた。
「つい今し方タレブーが来てな、頼まれていた物の用意が整ったぞ」
それは北駅発の列車の切符から始まり、日本の橫濱まで続く行路全ての切符だった。北大路花火がグリシーヌに頼んでいたものである。
「・・・遂に行くのだな、隊長を追って」
「グリシーヌ、我儘を言ってごめんなさい。でも私、どうしても・・・」
「言うな!」
グリシーヌは強く言って、そして柔らかな笑みを黒髪の親友に向けた。
「我儘だのと、そのようなこと言うな。私は嬉しいのだ、やっと花火が、自分の意志を話してくれたと。やっと私を頼ってくれたと。花組の皆も同じ気持ちだ」
「グリシーヌ・・・」
「巴里華撃団のことは我らに任せろ。そなたはトーキョーに赴き、隊長に会ってこい。忘れるな、私たちは常に、そなたたちと共にある」
二人は互いの手を取って、ただ頷いた。それだけで充分だった。
【finalement】
テアトル・シャノワールの貴賓室に、グラン・マとガブリエルの姿があった。
「・・・そう、あの子ジャポンに行ったの」
「つい昨日のことさ。愛する男を追って、自分の足で汽車に乗ったよ」
そう語った女主人に、黒衣の女は嘆くような所作をしてみせた。
「男なんて、追いかけるものではないわ。向こうが追ってくるものよ」
女優さながらのガブリエルに、グラン・マが意地の悪い顔を向ける。
「そんなこと言ってるから、未だに結婚できないのさ」
「できないんじゃなくて、しないのよ!」
牙を剥かんばかりの勢いで叫んだスティリストは、自分が上品でないことに気がついて慌てて表情を繕う。普段は外れることのない仮面の紐が、グラン・マを相手にした途端に緩くなってしまうらしい。
その様子を面白そうに眺めていたグラン・マは、表情に柔らかさを一滴だけ加えた。
「花火、旅立つ前に言ってたよ、あの方に宜しく伝えて欲しいとさ。『貴重なお言葉ありがとうございました』ってね」
「・・・それ、前の別れ際にも聞いたわ。言葉の価値は繰り返すと下がるものよ」
優雅に煙草を燻らせながらの台詞だったが、照れ隠しとしては不発に終わった。女主人が卓上に視線を移すと、スティリストは自らの失敗を悟って表情をしかめた。そこには花火のために持参してきた手土産が置かれていたのだ。理由を問われてもいないのに「別に、ただの気紛れで持ってきただけよ」と答えるガブリエルに、グラン・マは優しい苦笑を漏らした。
「あの子、黒い服で旅立ったよ。あんたが勧めたのかい?」
「まさか、そんな野暮なことする筈ないでしょ。自分で決めたのよ」
「いい子だろう?」
「・・・礼儀正しくて素直な子を、嫌いになる理由が見当たらないわ」
不承不承という体ではあったが、実に彼女らしい言葉で、黒衣のスティリストは女主人の言葉を肯定した。
グラン・マは改めてガブリエルが持参した土産に視線を向ける。
「そいつは無駄足になってしまったね」
「いいわ、あの子が帰ってきて、その時に気が向いたら、また持ってくるから」
それはガブリエルの店で販売している香水だった。
「それにしても、あの花火が香水をつけるかねぇ」
グラン・マが小首を傾げたのは、北大路花火はそういう面でも自己を主張するような女性ではなかったからだ。
煙草を咥えたガブリエルは、先程の失地回復とばかりに挑むような視線を向けた。
「私、『香水の趣味が悪い女性に未来はない』と言い切った詩人のヴァレリーに賛成よ。優雅は服だけでは成立しない、香りをつけてこそモードは完成するの。その点、あの子はまだまだね」
そして優雅に紫煙を吐くと、きっぱりと言い切った。
「まあ、下品な人たちといるなら香水は必要ないでしょうけれどね。私ならそんな不幸なこと、死んだ方がマシだけど」
彼女らしい言い草に、女主人は苦笑するしかなかった。
「でもまあ、せっかく持ってきたんだから、これはアタシが貰っておこうかね」
グラン・マが伸ばした手の甲を、ガブリエルがぴしりと引っ叩いた。
「ウチのお店にいらっしゃい、イザベル。あなたには幾らでも売って上げるから。もちろん、定価でね」
そう勝ち誇った顔で告げると、黒衣の女―ガブリエル・ボヌール・シャネルは、「CHANEL N°5」と書かれた香水瓶を自らの鞄へと優雅に放った。
(了)