「言わぬが花」巴里 はる様


「へえ!日本(ジャポン)にはそんな諺(ことわざ)があるんだ!」
栗色の髪の少女は目を見開いた。その大きな瞳には興味が光彩となって踊っている。
「はい、似たようなものでは『知らぬが仏』というのもあります。仏語だと『Toute verite n’est pas bonne a dire.(真実を話すことが賢明とは限らない)』となりますね。」
黒髪の少女が優しく語る。その様子は母のような慈愛に満ちていた。
そんな微笑ましい遣り取りを、豪奢な金髪の少女が優しげな眼差しで眺めている。彼女はカフェの香気と共に平和を楽しんでいた。
その時、クレーム・ブリュレ(焼きプリン)を美味しそうに食べていた赤い修道服の少女が唐突に口を開いた。
「諺といえば、ロベリアさんの眼鏡ってヒビが入っていますよね。」

―それは季節が秋へと移ろう頃の、よく晴れたある日の午後のことだった。

唐突過ぎるシスター見習いの発言に、カフェで同席していた三人の少女は目を瞬かせた。発言に前後の整合性がないから―ではない。彼女の会話が『交通事故』を起こすのはいつものことだからだ。
「…改めて言われてみると、確かにそうだったような気がするな。」
豪奢な金髪の少女は、顎に手を添えた。
「鎖とか首輪とか、他の印象が強いもんね。なかなか気がつかないよ。」
届かない足をぶらつかせながら、小柄な少女はしっかりとしたことを言う。
「…私は気がついていました。けれど、あれはロベリアさんのこだわりだと思っていました。」
落ち着いた声音で言ったのは、一同の中では最年長である黒髪の少女である。

彼女たちは、この芸術薫る花の都巴里で活躍する女優たちだった。モンマルトルの劇場シャノワールの幕が上がるのは陽が落ちてからなので、揃ってカフェへと繰り出したのだ。
ちなみに、現在話のタネとなっているもう一人の女優は、所用があるとかでモギリの青年と出掛けて不在だった。

「ですから、私たちで新しい眼鏡を贈ったらいいんじゃないかな、って思うんですよ。」
「なぜだ、ロベリアの誕生日はまだ先であろう。」
シスター見習い―エリカ・フォンティーヌの提案に、金髪の少女―グリシーヌ・ブルーメールは不機嫌そうな声を上げた。それだけで、彼女がロベリアを快く思っていないことが分かる。
「だって、ロベリアさん『副隊長』として頑張ったじゃないですか。その気持を形に表したら、きっと喜んでくれますよ。」

彼女たちには女優の他に『巴里華撃団』としての顔を持ち、ロベリア・カルリーニが先日のシテ島での戦いに際して副隊長に任命された。彼女はその重責を見事に果たし、巴里の平和を守ったのである。

「しかし、ロベリアさんは喜んでくれるでしょうか?もしも、今の眼鏡がとても大切な品だとしたら、かえってご迷惑になるのではないですか?」
黒髪の少女―北大路花火が控え目に声を上げた。
「そうだよね、ロベリアってお金に困ってないと思うんだ。眼鏡を直さないのだって意味があるのかも。」
花火の言葉に頷いたのは、栗色の髪の小柄な少女―コクリコである。花組では一番の年少だが、他の面々より余程しっかりしていると評判の子どもだ。
「大切な眼鏡ですかぁ。ひょっとしたら、こんなことがあったのかもしれませんね。」
エリカは想像の翼を羽ばたかせた。

【エリカの妄想】
往年の大女優『黒猫(シャノワール)』は巴里で余生を送っている。そんな彼女の元には、東洋のサムライ大神と演出家の迫水が度々訪れていた。彼らは『黒猫』から許可を得て、彼女自慢の踊りを大帝国劇場で上演しようと目論んでいたのである。
しかし、大女優は自分が認めた人物にしか踊ることは許さないと、決して首を縦に振らなかった。
そんな時、『黒猫』はモンマルトルで一人の少女―ロベリアと出会う。
巴里で暮らすロベリアは、実の母親からさえ『何の取り柄もない』と嘆かせる平凡な少女だった。
しかし彼女には、芝居の台詞や役者の所作を、一度目にしただけで正確に記憶し、役の本質を理解して演じることが出来るという素晴らしい才能があったのだ。
その才能を見抜いた『黒猫』は、公園で子ども相手に演じる少女ロベリアの手を取り叫んだ。
「私の『ジプシーの娘(ラ・ボヘミエンヌ)』を演じられるのは、あなたしかいない!」
それからロベリアは、後に好敵手となる芸能界の星ブルーアイと『ジプシーの娘』を巡って壮絶な戦いを繰り広げることになるのだった―

「…今の話、眼鏡は全然関係ないよね。」
突っ込んだのはコクリコだけで、グリシーヌは呆れ顔、花火は困ったような微笑を浮かべるだけだった。エリカの話が素っ頓狂なのは今に始まったことではない。
「ま、まあ、それは一先ず置くとしてもだ。」
グリシーヌは咳ばらいをひとつ入れた。
「確かに、先の戦で活躍したことは認めよう。しかしだ、あの捻くれ者が素直に受け取るとは思えん。」
「そんなことないですよ、ロベリアさんはいい人なんですから!」
エリカは抗言したが、コクリコはグリシーヌの意見に賛成だった。
「うーん、普通には喜ばないんじゃないかなあ。ロベリアって素直じゃないからさ。」
とそこに、花火が控えめな微笑を浮かべて言葉を挟む。
「ですが、私たちの感謝の気持ちを形で表すというのは素晴らしいと思いますよ。後はロベリアさんに気に入ってもらえるような品を考えればよいのではないでしょうか。」
年長者の、文字通り『的を射た』発言だった。グリシーヌも友人の言葉を認めざるを得ない。
「…まあ、花火がそう言うのであれば、私としても異論はない。だが、どんな品物であればロベリアは喜ぶのであろうか?」
コクリコと花火が自らの考えを披露する。
「そうだ!皆で絵を描いたらいいんじゃないかな。真心がこもっているから、きっと喜んでくれるよ!」
「やはり、ロベリアさんがお好きなものが良いと思います。ワインなどはいかがでしょうか。」
とその時、エリカが勢いよく手を挙げた。
「はい、はい、はーいっ!エリカは、やっぱり眼鏡がいいと思いますっ!」
グリシーヌが呆れた視線を発言者に注ぐ。
「…どうしてそこまで眼鏡にこだわるのだ。」
「それはやっぱり、『神さまのお導き』というやつですよ!」
コクリコは一応聞いてみた。
「…神さまが、『ロベリアの贈り物は眼鏡がいいぞ』って言ったの?」
「いいえ?でも、お会いしたら絶対そう言ってくれますよ!」
エリカは自信満々で言い切った。
その様子に三人中二人が『神さまと友達なのか!』と心の中で突っ込みを入れたが、残る一人は年長者の貫禄を見せた。
「確かに、実用品を贈るというのは悪くないと思います。」
花火の一言は大きな発言力を持っている。コクリコが二度三度と頷いた。
「そう言われるとそうだよね。どうせならいつも使ってもらえる物の方が、ボクたちも嬉しいかも。」
「…うむ、まあ皆がそれでよいというのであれば、私としても異存はない。」
「それじゃあ、眼鏡に決定ですね!」
それではどんな眼鏡を贈れば喜ぶだろうか、と話を進めようとした時、教会の鐘の音がモンマルトルの丘に響き渡った。
その澄んだ音色に肩を叩かれて、コクリコが慌てて席を立つ。
「いけない、サーカスの手伝いに行く時間だ。」
それに続いて、花火もゆっくりと腰を上げた。
「申し訳ありません。私も所用があって出掛けなくては…」
「そうか、二人とも予定があったのだな。それでは、後は私とエリカで詰めるとしよう。」
「大船に乗ったつもりでドーンと任せちゃって下さい!」
そう言ったグリシーヌとエリカに、退席する二人は微妙な表情を返した。強いて例えるならば、『子どもに留守番を頼まなくてはいけなくなった母親の顔』だろうか。
しかし二人とも『大人』だったから、口に出しては「それじゃあ、後はヨロシクね。」「それでは、宜しくお願いします。」とだけ言い残してカフェを去ったのである。

後になって振り返ると、ここでコクリコと花火が退席してしまったのが最初のつまずきだった。四人の中で冷静な判断を下せる二人がいなくなってしまったのである。

追加の飲み物を注文して、グリシーヌは改めて口を開いた。
「それでは、どのような眼鏡であればロベリアは喜ぶのであろうか。」
エリカは腕を組んで唸る。
「うーん、そうですねぇ、ロベリアさんは恥ずかしがりやさんなところもありますからねぇ。」
「何が『恥ずかしがりやさん』だ。捻くれ者で強欲なだけではないか。」
「確かに、少しだけお金にこだわるところがあるかなぁ、とは私も思いますけど。」
「そうとも、アイツは金銭だけではなく芸術品にも欲が…おお、そうだ!」
グリシーヌは優雅に手を打ち合わせた。
「芸術品として価値のある眼鏡であれば、ロベリアも文句はないであろう!」
エリカは大きく目を見開いた。それだけでは足りないと思ったのか、盛大な拍手つきである。
「さっすがグリシーヌさん、バッチグーですよ!それなら捻くれ者で強欲で欲深いロベリアさんも大満足です!」
「…いや、私はそこまでは言ってないが。」
その後、二人の話はとんとん拍子に進んだ。コクリコの案も取り入れて、エリカが下絵を作成し、グリシーヌが高名な芸術家に依頼することになった。
『えー?エリカが下絵を描くの?大丈夫?』
と言ってくれる子どもや、
『余り芸術品にこだわらなくてもいいのではないかしら。』
と諭してくれる友人がこの場にはいなかったので、その提案はすんなりと通過してしまったのである。

その夜、エリカははりきって『ロベリアの眼鏡』の素案を描いた。『エリカが張り切っている』と聞けば色を失ったレノ神父が飛んで来るのが常だが、幸か不幸か神父の耳には届かなかったので、見習いシスターは誰にも邪魔をされることなく思う存分張り切った。
貫徹の末に完成した素案は、少女の気合を示すかのように蝋封まで施されていた。結果的に、その内容を他者が確認出来なくなっていた。
それを受け取ったグリシーヌは、どの芸術家に依頼するのかで大いに悩んでいた。
当初は眼鏡を作成するのだからと、少しでも関連のありそうな彫刻家や宝飾工芸家を選んでいたのだが、『どうせならばより高名な芸術家の方が良いであろう。』と次第に枠を広げていったため、遂には膨大な数の人名が紙束となって躍ることになった。最早グリシーヌ自身でも誰が適任なのか訳が分からなくなっていたのである。
今日も今日とて深夜に至るまで悩んでいたある時、少女はふと我に返った。
自分は何をしているのだ、私のなすべきことは『ロベリアの贈り物を決めること』ではない筈だ。ブルーメール家のこと、そして巴里華撃団のこと、他にやらねばならぬことは山ほどあるのだ!
そう自分自身で理由づけたグリシーヌは、メイド長のタレブーを呼ぶと紙束から適当に引き抜いた芸術家とエリカが作成した素案を手渡し、後の事務を全て託してしまったのである。その際、自分が渡した紙に誰の名前が書いてあったのかさえ確認しなかった。
面倒ごとは全て片づいたと思ったグリシーヌは、頭の中から『眼鏡』に関することを綺麗さっぱり抹消して寝台に倒れこんだ。

それから暫くして、誰もが眼鏡のことを忘れていた頃、シャノワールに小さな包みが届いた。
たまたま先の四人が揃っていた中で、コクリコが小箱を開けると、その中には『何か』が入っていた。
それは非常に珍妙な代物だった。どんなに言葉を尽くしても、それがどんな物なのかを正確に言い表すことが出来ない。
比較的事実に近い表現となったのは、箱を開けた少女の一言だった。
「…何コレ?魔除け?」
いぶかしげな三人の中で、一人歓喜の声を上げたのは、いつも明るいシスター見習いである。
「キャーッ!遂に完成したんですね、ロベリアさんへの贈り物が!」
「…え!?まさかこれって『眼鏡』なの!?」
「もっちろん、そうに決まってるじゃないですか!私が描いた絵を見事に芸術してくれちゃいましたね!」
意味不明な得意満面のエリカに、コクリコは一応確認してみることにした。
「右と左のレンズの形が全然違うのは?」
「芸術だからです!」
「色も違うよね?」
「芸術だからです!」
「…『つけ鼻』と『つけヒゲ』がついてるのも芸術なの?」
「それは私の思いつきです!」
そんな遣り取りをしている横では、花火が空箱を手に取っていた。そこには書きなぐったような直筆で『Picasso』と書かれている。
かの天才『パブロ・ピカソ』のことである。

この年四十五歳のパブロ・ピカソは、既に高名な芸術家として名を知られていた。美術史の視点で見ると、作風が『新古典主義』時代から『シユルレアリスム』時代へと移行した頃である。
彼は画家であり、またバレエの舞台装置や衣装も製作し、後には彫刻まで手掛けている。その生涯に渡り十万点を優に超える作品を生み出しており、その多才・多作振りはつとに有名だ。余談となるが、本名が異様に長いこと、女性関係の多彩さでも特に名高い。
彼が天才であることは疑いようもない事実である。しかし、時に天才と普遍性が相容れない関係を築くように、この偉大過ぎる芸術家も年を経るごとに一般人の感性とは大きく乖離していった。
大多数の凡人の目には、ピカソの作品は『凄いけれどよく分からない』ものなのである。

つまるところ、この珍妙極まる代物は、エリカ・フォンティーヌ原案、パブロ・ピカソ制作ということになる。彼が眼鏡を作成した記録は後世に残されていないが、恐らくエリカの『芸術的な』素案に刺激を受けて、勢いで作り上げてしまったのだろう。
様々な意味で史上稀に見る品であるといえたが、受け取った側が喜ぶかどうかは全くの別問題である。
「―グリシーヌ。」
花火の声は普段と変わりなく落ち着いている。しかし、こんな時ほど怖いことを、友人である彼女はよく知っていた。
「どうしてピカソさんに依頼したの?工芸品としてなら、宝飾図案家でもあるルネ・ラリックさんでもよかったのではなくて?」
「言うな!考えあってのことだ!」
グリシーヌは抗弁したが、視線を逸らせたことが事実を雄弁に物語っていた。まさか『適当に選んだらピカソだった』とは、ブルーメール公爵家の名誉にかけて口に出来ない。
迷走する事態の中、コクリコが声を上げた。
「…ねえ、『コレ』をロベリアに贈るの?」
一番根本的で重大な問い掛けである。賛成派は二名だった。
「もっちろんじゃないですか!こんな芸術してる眼鏡だったら、ロベリアさんも大喜びですよ!」
エリカは確信をもって言った。当然裏づけなどないが、強いていえば『神さまのお導き』なのだろうか。
「『芸術品』として見れば、世界に二つとない品なのは間違いない。贈らぬ理由などないではないか。」
グリシーヌの場合は自分が『丸投げ』してしまった手前、引くに引けないのである。
残った二人は一応反対派だった。
「ボクは止めた方がいいと思うなあ。」
コクリコは控えめに言ったし、花火も困ったような微笑を浮かべている。しかし『大人』な二人は、最早何を言ってもエリカとグリシーヌは引かないだろうと悟っていたのだ。
結局、賛成派に押し切られる形で例の『眼鏡』を贈ることになった。ロベリアに手渡すという重大な任務は、満場一致でエリカが担当することになった。

その日、シャノワールの楽屋に現れたロベリア・カルリーニは何故か上機嫌だった。普段ならエリカが突然現れたら憎まれ口の一つも叩くのだが、今日は笑顔で「よお、いい天気だな。」と声を掛けている。
『他人が嬉しいと自分も嬉しい』エリカは、贈り物を手渡そうと笑顔でロベリアの顔を見上げた。そして、彼女はあることに気がついたのである。
「…あれ、ロベリアさんの眼鏡、ひびが入ってないです!」
「ああ、これか?アタシは別に構わなかったんだけれどね、隊長がどうしてもって言うから新しく作ってもらったのさ。まあ、ご機嫌をとるのも副隊長の任務の内ってね。」
口ではそんなことを言っているが、満更でもないのは機嫌が証明している。
その様子に、エリカはこちらも負けていられませんとばかりに声を上げようとした。
「それじゃあ、私たちからもロベリアさんに…モガモガ!」
何時の間にか現れて、背後からエリカを羽交い絞めにした花組の三人は、笑顔を浮かべて口々に副隊長を誉めそやした。
「そうかそうか、中々似合うではないか。」
「ええ、とても素敵だと思います。」
「うん、ロベリアにピッタリだよ。」
怪訝な顔をするロベリアの前で、笑顔の三人はエリカを引きずるようにして楽屋から退室していった。扉の向こうで、シスター見習いが上げる抗議の呻き声が少しずつ遠ざかっていく。
何も知らないロベリアは首を捻るばかりだったが、そこにひょっこりと花火が戻ってきた。楽屋の中で探し物をする彼女の様子は普段と全く変わらなかったが、その手には何故か縄とか猿ぐつわが握られている。
「おい花火、さっきのは何だ?それと今手に持っているのも何だ。」
「…ロベリアさん、『言わぬが花』という日本の諺をご存知ですか?」
「ハア?そんなの知るわけないだろ。」
「はい、そうですね。そういうことです。」
そう告げると、花火は「古拙の微笑」を浮かべて部屋を後にした。その日、エリカの姿を見た者はいなかったという。
「…何なんだ、一体?」
一人残されたロベリアは、ぽつりと呟くのだった。

それから、件の眼鏡が花組の話題に上がることはなかった。
その行方はようとして知れないが、某公爵家の物置で見たとか、巴里のとある劇場の屋根裏部屋に隠してあるとか、幾つかの都市伝説が残されているという。

(了)

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