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まるで池に揺蕩う綿毛のように、秋晴れの空をひと千切りの雲が流れていた。
山の姿が見えない、見渡す限り平野の続く彼方から流れ来た雲は、知らぬ間に大きく蛇行した川の両岸に広がる、ベージュ色をした都市の上に辿り着いた。
だが風来人を気取る小さな雲は、川の中州に建つ厳かな大聖堂や、河岸近くにそびえる優美な鉄塔など気にした風もなく、美しい街の上をそのまま流れ過ぎようとする。
それに異を唱えたのは『もう一つの彼』だった。
柔らかな秋の陽光を小さな体で遮り、その結果生み出されたささやかな日陰は、気まぐれな雲に代わって花の都に降り立った。彼は装飾の施された橋や起伏のある大通りの石畳、そしてアパルトマンの屋上に並ぶ無数の小窓の上を物珍しそうに眺め過ぎる。
何時しか影は、平らかな街の中で僅かに隆起する場所へと差し掛かった。彼は楽しそうに、丘に刻まれた石階段を駆け上がる。
その時、石段の途中で日陰とすれ違った少女がいた。
どことなく亜細亜風の服を着た小柄な少女は不思議そうに栗色の瞳で空を見上げ、一瞬の後に姿を現した秋の陽に慌てて手をかざした。
そして丘の頂にそびえる白亜の聖堂を軽々と乗り越えた影と、空を流れる小さな雲をぼんやりと見送った少女はふと我に返り、彼女自身は慌てて階段を駆け下りていくのだった。
欧州は花の都、巴里市の北方18区。
「聖なる御心」という意味の名を持つサクレ・クール聖堂の鐘の音が響き渡るモンマルトル。
その丘の中腹には、多くのパリジャンたちに愛されている劇場シャノワールが建物の間から優美な姿を覗かせていた。
◇
劇場の楽屋に、シャノワールご自慢の女優(アクトリス)4人と給仕(ギャルソン)1人の姿があった。
休演日をくつろぐ彼らの前には、巴里でも老舗のチョコレート屋として知られている「ドゥボーヴ・エ・ガレ」のチョコレート菓子と温かい飲み物が入ったカップが並んでいる。
「―食卓にきのこ料理が並び始めると、この巴里にも秋が訪れたのだと実感するな。」
カフェを優雅に一口含んでグリシーヌ・ブルーメールが言った。
「そうですね!わたしもプリンが美味しいと秋だなあって思うんですよ。」
エリカ・フォンティーヌはショコラを美味しそうに飲みながら和やかに答えた。
「…いつも美味しいってプリンを食べてるじゃないか、オマエは。よく甘いものばかり平気で食べられるな。」
香りの良いグロッグ(ホットラム酒)だけを口に運びながら、呆れたようにロベリア・カルリーニは呟いた。
そんな彼女に、このお菓子を買ってきた張本人であるグリシーヌが冷たい視線を向ける。
「嫌なら別に来なくても良かったのだぞ。誰も招待などしていないのだからな。」
「アタシだって呼ばれた覚えは無いね。エリカに無理矢理連れてこられただけさ。」
銀髪の女性は挑むように金髪の少女を見返した。視線が空中で衝突し、見えない火花を楽屋の中空に散らす。
「は、初めて食べたけど、これはとても美味しいね。」
不穏な空気を察して、大神一郎はグラン・ダラビカ(煎ったコーヒー豆をチョコでくるんだお菓子)を口に放り込みながら、カフェ・クリームの入ったカップに手を伸ばして話題を変えた。
未然に発火を抑えた後の微妙なきな臭さに包まれた室内を、のんびりとした静かな声が揺蕩う。
「それにしても、コクリコさんはどちらに行かれたのでしょうか。」
そう言いながら、北大路花火は何ごとも無かったかのように緑茶の入ったカップをテーブルに置いた。
「そういえば、最近はよく何処かへ出掛けてるみたいですよ。昨日も、知らないご婦人と仲良く買物をしてました。」
「知らないマダム…一体誰なんだろう?」
クレーム・ブリュレ(焼きプリン)に手を伸ばしながら言ったエリカを横目に見つつ、大神は誰にともなく呟いた。
ちょうどその時、劇場通路を誰かが走ってくる軽い靴音が聞こえた。そして勢い良く開かれた扉から、小さな人影が楽屋に飛び込んで来る。
「まあ、コクリコさん。ちょうどお話をしていたところなんですよ。」
突然現われた栗色の髪の少女を見て、花火は微笑みと共に席を立とうとした。しかし、そんな黒髪の少女に目もくれず、コクリコは黒髪の青年の目の前に駆け寄る。
そして呆けた顔をしている青年に向かって、真剣な顔をした少女は開口一番こう言った。
「お願い、ボクの家族になって!」
突然の言葉に、室内は水を打ったような静寂に包まれた。
―西暦1926年、怪人カルマール公爵を倒して平和が訪れた10月。マロニエの葉が色付く、ある秋の日のことであった。
◇
現在のコクリコには、辞書上の意味での”家族”は存在しない。
ベトナム人の父親范文仁(ファム・ヴァン・ニャン)は先の欧州大戦にて戦死し、フランス人の母親スザンヌ・ベールは健在であったけれど、彼女は既に少女の”家族”ではなかった。コクリコの言葉を借りるならばシルク・ド・ユーロが家であり、そこで共に暮らす動物たちが”家族”だった。
その辺りの詳しい事情を花組で知っている者は誰もいない。精々”コクリコは天涯孤独である”という程度が共通の認識だった。
そう、『天涯孤独』。
その少女が、黒髪の青年に向かって言った”ボクの家族になって!”という言葉の意味は―。
暫しの間時が止まっていた室内の空気が、まるで氷が溶けるように動き始めた。
豪奢な金髪の少女は音高くカップを受け皿に置いた。
癖のある、豊な銀髪の女性は人の悪い笑みを口の端に浮かべた。
黒髪の少女は赤らめた頬を両手で押えた。
黒髪の青年は呆けた顔をしたまま頭をかいた。
そして明るい栗色の髪のシスターは、スプーンを口にくわえたまま新たなプリンに手を伸ばした。
「あー、コクリコ、家族になって欲しいというのは、つまり、その…。」
グリシーヌは一つ咳払いをすると、確認するような口調でコクリコに話しかけた。そんな金髪の少女に、銀髪の女性が意味深な笑みを向ける。
「ま、いいんじゃないの?直ぐには無理だとしても、コクリコにとって悪い話じゃないだろう。それに隊長だって、自分好みの色に染める楽しみがあるってもんじゃ―」
からかうロベリアの頭上にグリシーヌの戦斧が問答無用で振り下ろされた。彼女はそれを間一髪、両手で受け止める。
「こ、この悪党!何と言う低俗なことを!」
「冗談だろ、何顔を真っ赤にして怒ってるんだよ。…それから、今日こそこんな物を何処から取り出してるのか聞こうじゃないか。」
力と力の勝負が繰り広げられている直ぐ横で、花火は心ここにあらずの体だった。
「コクリコさんったら、何て大胆なのでしょう…。私も、もっと大神さんに対して…ぽっ。」
さて、どんな状況であろうとも空気が読めない人間はいるものである。実際ここにも2人程いた。
「今更何言ってるんだ。コクリコはもう俺たちと家族みたいなものじゃないか。」
「そうだよ、コクリコ。コクリコはわたしのお姉ちゃんじゃない。」
「…エリカくん、それは逆じゃないの?」
喧嘩漫談をしている一組、夫婦漫談を繰り広げる一組、頭の中で盛り上がっている1人。変に賑やかになった楽屋を見渡して、栗色の髪の少女は大きな溜息をついた。
「もう、何やってるの?ボクは皆に家族になって欲しいんだ!」
その意外な発言に、室内は再び静寂に包まれる。
「だから、コクリコと俺たちは家族―」
「隊長は少し黙ってろよ。」
空気の読めない大神を邪険に退けると、代わってロベリアがコクリコの前に立った。自分を見下ろしている女性に、少女は真剣な眼差しを向ける。
「…何か事情がありそうだな。先ずはそれを聞こうじゃないか。」
そう言ったロベリアに頷くと、コクリコは花火に譲られた席に座って語り始めた。
◇
巴里に住む市民たちにとって、マルシェ(市場)は家の台所の続きであり社交場でもある。
市内には屋根付きの常設市場と、週に2~3回程度開かれる露店式朝市が合わせて70ヶ所以上存在し、多くの人々に”人生の楽しみ”の一つを提供していた。
小説家であるエミール・ゾラが『巴里の胃袋』と読んだ、ルーブル美術館の近くにある『レ・アール』が巴里最大の常設市場であったが、それに比べればずっと小さい規模とはいえ、モンマルトルの市場も立派な常設のマルシェだった。
そんなモンマルトルの市場で、何時ものように野菜クズをもらっていたコクリコの目に1人の婦人の姿が映ったのは、そろそろ暑さも和らごうかという8月末頃である。
いくら人で賑わうとはいえ、この辺りのマルシェはほとんどの客が顔馴染だった。近所のマダムたちは新鮮な食材と共に新鮮な話のネタを求めて集まるのであり、わざわざ遠いところから買い物に訪れるような物好きはほとんどいない。
だから、普段見慣れないその婦人が周囲から浮いて見えたのはある意味当然なのだが、少女の目が引っ掛かったのはまた別の理由からだった。
彼女の足取りは何とも覚束無く、例えるならば人波を縫うというよりも人波に溺れているという表現の方が適切な有様だった。
『大丈夫かな?』
と心配したコクリコの不安は直後に的中した。店先に並ぶ食材に手を伸ばしていた女性は、恰幅の良いマダムのお尻に突き飛ばされて見事にひっくり返ってしまったのだ。
慌てて駆け寄ったコクリコは、その時初めて婦人の目が見えないことに気が付いた。
彼女―マダム・マリアンヌの話によると、普段利用していた近所の朝市が区画整理の関係で長期間閉鎖されてしまい、人づてにマルシェの場所を聞きながら歩いていたら、区をまたいでここまで来てしまったのだという。
結局、コクリコは婦人の買い物に付き合った後、隣の区にある彼女の自宅まで送ってあげることになった。
それから週に3回程市場を訪れるようになったマリアンヌとコクリコは急速に親しくなった。自宅にも招かれるようになった少女の話を、婦人は大層喜んで聞いてくれた。
だから、コクリコはその婦人にもっともっと喜んでもらおうと思った―。
◇
「―それで、思わず偽りの家族の話をしてしまったのだな。」
納得顔のグリシーヌに、コクリコは申し訳なさそうに頷く。
「つまり…コクリコさんは私たちに家族を演じて欲しいということですね。」
花火が確認すると、コクリコは縋るような目を向けた。
「一度だけでいいんだ。一度だけ、マリアンヌさんの前でボクの家族になって欲しいんだよ。」
懇願する少女を前にして、花組の面々は顔を見合わせた。
「しかし、いくら目が見えないからといっても、すぐに皆が家族ではないと分かってしまうのではないか?」
グリシーヌが代表して述べた疑問は当然のものだった。
巴里花組は確かに年の差があるけれど、それは家族という程には離れていない。最年長の大神一郎が現在23歳、最年少のコクリコが11歳だから、最大でも12歳差しかないのである。その年齢差や男女の別に気が付かないなどということがあるとは思えなかった。
「あー、それは大丈夫…だと思う。」
コクリコは、何故か少し言いづらそうだった。
「マリアンヌさんって、何というか、その…大らかな人なんだ。細かいことは気にしないというか、気が付かないというか…。」
再び皆は顔を見合わせた。『それにしても…』とそれぞれの顔には書いてある。
栗色の髪の少女はチラリ、とスプーンをくわえたままの見習いシスターに視線を送った。
「…例えるなら、エリカみたいな人なんだ。」
「「あー…」」
異口同音に言った大神、グリシーヌ、花火を、エリカは不思議そうな顔で眺めた。
「何が”あー“なんですか?」
エリカの発言をごく自然に流して、大神はその場にいた花組の面々を見渡した。
「俺はコクリコの優しい気持ちを大切にしてあげたい。だからぜひ協力したいと思っているんだけど、皆はどうだろうか。」
「そのようなこと、聞くまでもない。」
「私も、協力させていただきます…。」
「あ、わたしももちろんオッケーです!それで、何が”あー”なんですか?」
次々と賛同の声が上がったけれど、ただ1人異なる意見があった。
「アタシは行かないからな。」
突き放すような口調で言ったのはロベリアだった。彼女はコクリコの話を聞いた時から、不機嫌な沈黙を保っていたのである。
「貴様何故だ!やはり悪党にはコクリコの優しい心根が理解出来ないのか!」
食ってかかったグリシーヌだが、ロベリアは彼女の相手をせずにコクリコを見下ろした。
「チビ、今の話は本を正せばオマエが嘘をついたのが悪いんじゃないか。」
その言葉に栗色の髪の少女は俯いてしまった。しかし、銀髪の女性は容赦しない。
「一つ嘘をつけば、それを取り繕うためにまた嘘をつかなくちゃならなくなるんだ。バレたら人を傷付けるような嘘はついた奴が悪いのさ。その尻拭いを何でアタシがしなくちゃならないんだよ。」
厳しいながらも、ロベリアが言ったことは確かに正論ではある。しかし、この場にいる人間の、少なくとも過半数は何か釈然としないものがあった。
そんな時、例外の側に属する少女が正論を述べた女性を賞賛した。
「さすが巴里で一番嘘つきなロベリアさん!嘘について語らせたら右に出る人はいませんね!」
「「あー…」」
異口同音に言った大神、グリシーヌ、花火、そして発言者のエリカを、ロベリアは危険過ぎる瞳で睨みつける。
「何が”あー”なんだ、あん?それから、オマエは意味が分かって言ってるんだろうな。」
普通の人ならば恐怖の余り卒倒しそうな視線だったけれど、大らかな(空気の読めない)見習いシスターは無邪気に頷いてみせた。
「はい!ロベリアさんは『嘘つき博士』ということですよね!」
「勝手に『博士』とか付けてるんじゃねえ!」
そう言うが早いか、ロベリアはエリカの口を思い切り左右に広げた。
半泣きでジタバタする見習いシスターに軽く同情しつつ、大神一郎はロベリアの肩を叩く。
「ロベリア、確かにコクリコは嘘をついたけれど、それは相手を騙そうとしたわけじゃなく、相手を思ってのことだろう?そんな嘘は許されるべきじゃないかと俺は思うんだ。」
「ふうん、随分と物分りが良くなったじゃないか。それじゃ、今度からアタシも大っぴらに嘘をついていいんだな?」
「いや、それは―」
答えに窮した黒髪の青年に、銀髪の女性は勝ち誇ったような顔を露骨に向けた。
すると、あさっての方からぼそりと声がする。
「博士の嘘は、騙す方だから良くないですよね…。」
「…おい花火、今度博士とか言ったら燃やすぞ。」
そんなどすを利かせたロベリアに向かって、つい今まで赤く腫れた頬を押えていたエリカがポンと手を叩いた。
「あ、そうか!ロベリアさんはこう言いたいんですね。つまり、『家族になるからその分の見返りをよこせ』と。」
「…は?」
笑顔のエリカに向かって、ロベリアは彼女らしくない惚けたような顔を向けた。
何故ならば、唐突に見習いシスターが言ったことは、確かに彼女が最終的に言いたかったことの一つだったからだ。
ロベリア・カルリーニは聡い女性である。今までの話の流れを読み、彼女は自分に有益な二通りの結末を用意していた。
一つは、家族ごっこに参加しないパターン。
先程コクリコに言った理由もあったが、何よりも面倒くさいことはしたくない。出来ればこちらに流れが来るよう調整したいところである。
残りは、嫌々ながらもおままごとに参加するパターン。
コクリコの話を聞いた瞬間から、目の前に並ぶお人好しな連中は参加するだろうと直感していた。個人的に参加する気はさらさら無かったけれど、それを公言すればうるさいことを言う人間が数人いる。特に、黒髪の男と赤服のシスターはうざったいことこの上ない。
しかし、だからといって素直に参加を表明するのは性に合わないこと甚だしい。
それならば、最終的に参加することになろうとも、請われて仕方が無くという形にしたかった。出来れば何かしらの交換条件(例えば「大神一郎を一日自由に出来る権利」とか)を引き出すよう話を持って行くのが最善である。
そのための計算式は既に彼女の頭に構築されており、そしてそれを実践するだけの交渉術にも自信があった。
けれども、そんなロベリアの鉄壁な思惑を、まるで薄紙のように易々と破ってしまう人間が身近にいたことが彼女の不運だった。
今に始まったことではないが、エリカ・フォンティーヌの思考というものは余人には理解し難いものがある。先程の発言からして一連の会話の流れから導き出される筈がないものだった。でも、だからと言ってエリカという少女が深い洞察力を有している訳でもないのは平生の言動を見れば一目瞭然である。それは例えるならば、『風が吹けば桶屋が儲かる』という類と同列の、言わば”まぐれ当たり””言った者勝ち”の世界だった。
当の本人は至って真面目である。だが、そんな少女の発言が意図しないところで混乱を巻き起こすこともよくあり、今回もその数多くの例の一つとなった。
頭の中で構築していた計算式が脆くも崩れ去り、ロベリアは内心で頭を抱えた。
『あー、全く!コイツの頭ん中はどうなってんだよ!結論が出ちまったらそこに持っていきようがないじゃないか。第一、今更タネがばれた手品を披露するようなマネが出来るか!』
そんな彼女の内心など露知らず、エリカは笑顔を湛えながら新たな提案をする。
「分かりました!そんなロベリアさんには、私がステキな見返りを用意します。一ヶ月間、私お手製のプリ―」
「いらないよ。」
銀髪の女性は見習いシスターの提案を言下に拒否した。
「えー?まだ何かも聞いてないじゃないですか。」
「…聞かないでも分かるだろ。」
ふて腐れた顔で言い捨てたロベリアに、大神は笑顔を向けた。
「それじゃ、ロベリア―」
その声に答える代わりに、期待を込めた瞳で彼女を見上げるコクリコの額を軽く指で弾いた。
「全く、今度だけだからな。」
「ありがとう、ロベリア!」
満面の笑みを浮かべたコクリコから照れ隠しのように顔を背けたロベリアは、その視線の先に今にも飛び掛りそうなエリカを発見した。彼女は無言で見習いシスターに歩み寄ると、再びその口を大きく左右に広げるのだった。
「何ででふか~?」
◇
改めてコクリコも加わり、テーブルを6人で囲むことになった。そのテーブルの中央には、代表して大神が書いた『コクリコ一家の家族構成』が置かれている。
そこには次の6人家族が記されていた。
・ お父さん
・ お母さん
・ コクリコ(本人)
・ お兄ちゃん
・ 可愛い妹
・ お婆ちゃん
その紙を、コクリコを除く5人が無言で見詰めていた。
何といってもこの中の誰かを自分が演じなければならないのである。お互い自分なりの思惑が胸中に渦巻いても仕方の無い状況ではあった。
その中でも、恐らく一番熟考を重ねていたのは大神一郎だろう。
彼は確かに空気が読めないことがある青年だけれど、周囲への気配りという点では正に世界で戦える男だった。大神はその腕(?)で、帝國及び巴里華撃団という荒波を乗り越えてきたのである。
この時も、黒髪の青年は類まれな頭脳を全力回転させていた。
『―男役は父親と兄しかいないから、順当に考えるなら俺が担当するのはこのどちらかだろう。でも、仮に父親に決まった場合、相手の母親を誰が演じるかでひと騒動起きるような気がする…。』
大神一郎は腕を組んで天井を見上げる。
『それじゃあ兄はどうかな?そうなると誰が父母を演じるかだけど…グリシーヌとロベリアとか、エリカくんとロベリアみたいな組み合わせになった場合揉めるだろうなあ。グリシーヌと花火くんが父親と母親なら問題無―いやいや、辛い過去がある花火くんに母親を演じてもらうのは少し酷ではないだろうか…。』
青年は一つ唸ると、再び沈思黙考に入る。結論は容易に出そうにはなかった。
―彼は確かに気配りが出来る男である。しかし、こと複数の女性が絡むと優柔不断な一面を見せることもある男だった。
長い沈黙を破ったのは、一同の中で唯一担当する役柄が確定している少女だった。
「…中々決まらないみたいだからさ、いっそのことくじ引きで決めない?」
コクリコにしても役が決まらないのが一番困るのである。そこでひと悶着した挙句、始まる前から家庭崩壊などということになっては目も当てられない。
最年少の少女の言葉に一同は顔を見合わせた。確かにこのままでは、いつまでも三すくみならぬ五すくみのままである。
「そうだね、くじ引きなら公平に決まるし。」
大神の言葉に、一同はそれぞれの表情で頷いた。希望通りにはいかないかもしれないが、取り敢えずこの方法ならばすんなりと役が決まる。
くじは公平を期すためにコクリコが作ることになった。最初はロベリアが立候補したのだが、それは全員の総意で否決された。
5本の棒先に役柄を書いた簡単なくじは、軽くかき回されて一同に差し出された。それを早いもの勝ちで1本ずつ掴む。
僅かに緊張をはらんだ刹那の後、ほぼ同時に棒は引き抜かれた。そして全員同じ動作で結果を確認する。
―一瞬の静寂の後、楽屋に悲喜こもごもの声が響き渡った。
2
数日後の良く晴れた日曜日、花組の面々は巴里市北東19区の石畳の上を歩いていた。
ビュット・ショーモン公園近くの緩やかな坂道が続く両脇には、市内には珍しいテラスハウス(長屋形式の低層住宅)が並んでいる。何でも地下に石膏の採掘場跡があるらしく、高い建物を建てると地盤が崩壊する可能性があったため、この辺りだけ低い建物しか建てられなかったらしい―とは、豊富な知識を有しているロベリア・カルリーニの語るところである。
仮にシャノワールがある18区を『巴里の下町』と称するならば、お隣の19区は『巴里の郊外』と言えるだろう。
文字通り巴里市の外縁という位置や家賃相場の安さという点でもそうだが、中心区では見られないレンガ屋根のテラスハウスや、その前庭から伸びる豊な緑の色彩が余計にそう思わせるのかもしれない。
余談となるが、世界的に有名な歌手であるモーリス・シュヴァリエや、後に世界中に名を轟かせるようになるエディット・ピアフが生まれたベルヴィルは正にこの近辺である。2人が”巴里の貧民街生まれ”と言われるところからも、この辺りの雰囲気を想像出来るだろう。
坂道を先頭切って駆け上がるコクリコは満面の笑顔だったが、残りの一同の顔は何とも悲喜こもごもであった。くじに対しての不満は無いけれど、やはり選ばれたそれぞれの役柄については各人思うところに差があったのである。
「それじゃ、マダム・マリアンヌの自宅に着く前に、もう一度それぞれの役割を確認しておこう。」
一体何度目になるのか、大神一郎の声に巴里花組が集まった。そしてその青年自身が右手を挙げる。
「先ず、コクリコの父親は…俺、大神一郎だ。」
「…コクリコさんのお母さま役は、私、北大路花火が務めます。大神さんとの夫婦役なんて私…ぽっ。」
赤く染めた頬を押えながらも、しっかりと片手を挙げて花火は自己主張をした。立ち位置も何気なく大神の左隣を占めている。
「はーい!わたしがコクリコの可愛い妹でーす。エリカ、一生懸命頑張ります!」
満面の笑みでエリカ・フォンティーヌは両手を挙げた。
その隣で、ロベリア・カルリーニは不服そうな表情を崩さない。
「何でアタシが、選りにも選ってチビやエリカの兄貴役なんだよ。…まあ、どっかの誰かさんよりはマシだけどさ。」
そんな銀髪の女性が向けた視線の先には、更に渋い表情をした金髪の少女の姿があった。
「…私が、コクリコの祖母を担当することについては何の不満も無い。これも市民のための、言わば貴族としての勤めなのだからな。」
グリシーヌ・ブルーメールの言葉は、ロベリアにというよりは自分自身に対してのように聞こえた。
「…ところで、今更ですけれど、名前は本名のままで良いのでしょうか?」
花火が呈した疑問についても、花組の間で何度となく話し合われたことの一つだった。
『幾ら大らかなご婦人とはいっても、家族の名前がおかしいことには気が付くのではないか?』
この問題については偽名を名乗ることも真剣に考慮されたけれど、ボロが出る危険を鑑みて、結局本名で通すことに決めたのだ。
“コクリコは外国人だから、その家族の名前が多少変でも分からないだろう”という滅茶苦茶な理屈だったが、それは『エリカと似ているご婦人である』という少女の証言に賭けた部分も大きかった。
互いの顔を見合わせた一同は等しく頷いた。そして、石畳の緩やかな坂道を再び上り始めるのだった。
◇
「ここだよ、マリアンヌさんの家は。」
コクリコが指し示した先には、一軒の小さなテラスハウスが建っていた。
植物の豊な緑に溢れた前庭の先には、まるで色を合わせたかのような緑色の扉が見える。秋の穏やかな陽光に照らされたそこは、住人の人柄が分かるような、温かさを感じさせる家だった。
「こんにちわー!コクリコですけど。」
門扉を押し開いて、栗色の髪の少女は家主を呼んだ。
その直後、屋内からバタバタという足音が近付いてくる。そして緑色をした木製の扉が勢い良く開かれた。
中から現われたのは、質素な洋服に薄緑色のエプロンを着けた女性だった。
年齢はグラン・マと同じくらいだと思われるけれど、体の幅はその半分といったところだろうか。クリーム色の豊な髪をうなじの後ろで1本にまとめており、両の瞼は閉じたままだが、その顔には春の陽のような優しい微笑みがあった。
「こんにちは、マリアンヌさん。今日は約束通り家族を連れて―。」
「あらあらまあまあ!ようこそいらっしゃいましたぁ!」
コクリコの言葉を聞いていないのか、マダム・マリアンヌは両手を広げて駆け寄り―そして自らの右足に左足を引っ掛けた。
「危ない!」
咄嗟に走り出た大神が、飛び込む様に中空へと浮いたマリアンヌを間一髪抱き止める。
「まあまあ、どうもありがとうございます…あら?」
婦人は大神の腕から肩、そして顔へと手を触れていった。そして感心したように呟く。
「あらあら、コクリコちゃんチョッと会わない間に随分大きくなったわねぇ。やっぱり育ち盛りの子は成長が早いわぁ。」
「…。」
黙って頭を撫でられている大神と玄関で立ち尽くしていた花組は等しくエリカを見た。そして内心、異口同音に呟く。
『た、確かにこれなら大丈夫かも!』
―しかし、いやそれ故に、事態は思いも寄らない方向へと流れていくのであるが、この時それを予見した人間は誰もいなかった。
【コクリコ家の一族】
窓からさんさんと陽が差し込む台所兼食堂は、コクリコ一家に扮した花組とマリアンヌが座ったら一杯になってしまう狭さだった。清潔そうな白いテーブル掛の上には、きのこやクルミ、そしてジビエ(猪や鹿、兎などの狩猟鳥獣)の料理が所狭しと並んでいる。
「ごめんなさいねぇ。本当なら自分が料理を作ってお持て成しをしたかったのですけれど、近所のお店から注文してしまって。」
「そんなこと気にしないでよ。それより、ボクの家族を紹介するね。」
マリアンヌの隣に座ったコクリコが、向かって左側に座っている大神に頷いた。
「今日は家族をお招きいただき有難うございます。コクリコの父の一郎です。」
その左隣に座っている花火が続く。
「…母の花火と申します。いつも娘がお世話になっております。」
2人とも言葉の調子は平静だったけれど、端から見ればそれが精一杯の演技であることがよく分かった。大神は顔が早くも一杯一杯だったし、花火も頬を真っ赤に染めながらの言葉だった。
「イチローさんと、ハナビさん?」
マリアンヌは怪訝そうに呟いた。その言葉に思わず大神と花火は顔を見合わせる。
『やはり名前は無理があったか!?』
不安そうな顔の夫婦に、婦人は深刻そうな顔を向ける。
「…まあ、やっぱり越南(ベトナム)の人の名前は不思議な響きなのねえ。」
婦人の言葉に一同は無言で安堵のため息をついた。そしてこれ以上この話題に触れさせないため、大神は向かい側の中央に座っているロベリアに目線で合図を送る。
「アタシが、コクリコの兄貴のロベリアだ。そして―」
ロベリアは左隣で料理を凝視していたエリカを肘で突っついた。
「あ、はいは~い!私がコクリコの可愛い妹役―」
「―焼く菓子で好きなものはプリンのエリカだ。今年でちょうど10歳になる。」
エリカが滑らせた口を慌てて塞いでから、ロベリアが上手に(?)補った。
「さ、最後に、私がコクリコの祖母であるグリシーヌだ。いつも孫がお世話になっている。」
聞こえないような咳払いをしてから、マダムとコクリコの正面に座るグリシーヌはぎこちないながらも懸命の演技で自己紹介を済ませた。
その時、一同はマリアンヌが再び怪訝そうにしていることに気がついた。
「何だかお兄ちゃんのお名前って、どこかで聞いたことがあるような気が…。」
『しまった!懲役1000年以上を科せられた巴里の大悪党の名前は、いくらマリアンヌさんでも気が付くか!』
何故そのことに考え及ばなかったのか、せめて彼女だけでも偽名を使うべきではなかったのかと、大神はほぞを噛んだ。
緊迫した食卓の中で、この家の主人は自らが至った考えに驚いていた。
「まあ!ロベリアと言えば…。」
「ロ、ロベリアと言えば?」
一家は息を呑んで婦人の言葉を待った。
「―名前の由来はフランドルの植物学者ロベルさんにちなんで付けられたのよねぇ。花言葉は『謙虚』とか『貞淑』だったかしら?」
「…は?」
「あたし、来月お庭に種を蒔こうと思っているんですよぉ。お兄ちゃんのお名前が同じなんて凄い偶然ねぇ!」
「マリアンヌさん、お花のことに詳しいんですね!エリカ感心しちゃいました!」
そう答えたのは1人を除いて、他の一同は無言で食卓に突っ伏していた。
『これは…思っていたのとは別の意味で大変かもしれない。』
エリカ以外の花組は等しく胸中に同じ思いを抱いた。
しかし、今更逃げ出す訳にもいかない我が身をかえりみて、女主人と妹を除いた一同は暗い気分になるのだった。
【巴里怪談】
「そう言えば!」
食卓に並ぶ旬の料理を楽しんでいたコクリコ一家は、マリアンヌの突然の言葉に緊張した顔を向けた。
「コクリコちゃんから聞いたんですけど、何でもお父さんとお母さんはとっても仲が良いんですってねぇ。まるで亡くなって主人とわたしみたいに。」
「え?ええ、まあ、そうですね。」
婦人の隣で頷いているコクリコを見て、大神は曖昧に答えた。何せそこまで家族の設定を詰めていなかったので、とりあえず少女の指示に従うしかない。
「でも、一度だけ夫婦喧嘩をした時があったそうですねぇ。それは一体何があったのですか?」
「ふ、夫婦喧嘩ですか?」
そもそもが即席の偽り夫婦なのだから、過去の仲違いなどありようが無い。本当の大神と花火も仲は悪くないから余計にそんな話はしようが無かった。
「貴公…いや一郎、夫婦間のことを他の方に話すのはどうかと思うが。」
困惑している大神を見かねてグリシーヌが助け舟を出した。その言葉に一瞬安堵の表情を浮かべた青年の耳に、思わぬ方向から異議の声が上がる。
「えー?お父さんとお母さんが喧嘩した話、わたしも聞きたいでーす!」
コクリコ一家が一斉に向けた視線の先には、無邪気な笑顔で片手を挙げている妹の姿があった。
『こ、こいつ状況を理解していない…。』
一同それぞれの仕草で頭を抱えた様子を見て、エリカは初めてことの重大さを理解したらしい。やってしまいましたと言う顔をした少女は、何とか事態の解決を図ろうと試みた。
「ほ、ほら、前に話してくれたじゃないですか。あの、お兄ちゃんがお腹にいた時のことじゃないですか?」
エリカはもちろん事態を好転させようとしている。しかし、これで”一郎と花火の結婚後、長男ロベリアの出生前”と更に時期が限定されてしまった。
「―ああ、そうだね。あの話か…。」
とりあえずそう応じたものの、大神の頭は完全に真っ白だった。
『男女の修羅場話ならいざ知らず、仲の良い夫婦の一度だけの仲違い話なんて、逆さに振っても出てこない…。』
横で白くなっている大神の様子を見て、花火は心に期するところがあった。
『夫の危機をさり気なくお助けすることも妻の務め。ここは私が何とかしなければ…。』
そう思った花火は、記憶の中から”夫婦が仲違いするお話(しかも子供が生まれる前)”を大急ぎで検索した。
そして、見事1本のお話を探し出す。
「…アナタ、ここは私が。」
そう言うと、花火は静かに語り始めた。
「あれは、ロベリアさんがまだお腹の中にいた時のお話です。まだ夫が仕事に就いていない頃だったので生活は苦しかったのですが、臨月を迎えた私は幸せに包まれていました―。」
―しかし、夫の一郎にとっては心が塞いで楽しくない日々だった。一刻も早く仕事に就きたい一郎は、花火の出産費用を持ち出しては、仕官の口を世話してくれるという喜兵衛さんの屋敷に赴いていた―
『…仕官?喜兵衛?屋敷?』
真剣に耳を傾けているマリアンヌとエリカ以外の人は、話の節々に現われる不可解な単語に疑問を抱いていた。
しかし、花火の話振りにはいよいよ熱が入り始める。
―家庭を顧みない一郎の行状を花火は嘆き悲しんだ。それでも、彼が家に置いていく「滋養の薬」を唯一の愛のすがり所として、妻はそれを毎晩あおり飲んだ―
「ううっ…花火さんかわいそうですぅ。」
「お父さんヒドイです!血も涙もないとはこのことですよ!」
花火の話にすっかりと引き込まれたマリアンヌとエリカは口々に大神を責め立てた。だが、当の大神は別に気に掛かることがあった。
『何か、どこかで聞いたことがある話だな…。』
そう思った夫の耳に、再び彼の妻の声が響く。
―そんな花火を不憫に思い、そして一郎の様子に不信感を募らせたのは、彼女の実父である左門だった。今日も身重の妻を置いて出掛けてゆく娘婿を呼び止め諭す左門だったが、仕官の影に別の女性がいるのではと一郎を問い詰めると、何と逆上した彼は義父を一刀のもとに切り捨てたのだった!左門は今わの際に叫ぶ、「…おのれ、一郎…!」―
「きゃーっ!」
「お父さんヒド過ぎます!ハンザイです!お父さんのお父さんとお父さんのお母さんは泣いてますよ!」
大騒ぎをしている2人をよそに、大神は顎に手を当てて考え込んでいた。
『左門?それはひょっとして四谷左門のこと…って、これ四谷怪談じゃないのか!?そうなると、この後は俺が花火くんとロベリアも手にかけて、そして化けて出られることに…。』
この話は確かに”夫婦が仲違いするお話”ではあるし、更に上手いことに”子供が生まれる前”でもある。
しかし”仲違い”というには余りにもことが大きな話だった。それにこのまま話が進んでしまえば、ここにいる母と兄はお化けということになってしまう。
どうやら余りに急ぎ過ぎたため、結末を良く吟味する間もなかったようである。
「は、花火くん!それは違う話じゃないか?」
大神は慌てて隣に座っている花火の肩を揺らしたけれど、すっかり熱の入った彼女は心ここにあらずの体だった。
その様子を見たグリシーヌが声をかける。
「一郎、この話は―違うのか?」
「違うんだ!」
そして目で会話をする。
『このままだとマズイのだな?』
『非常にマズイんだ!』
心得たとばかりに頷いたグリシーヌは、何処からかそっと戦斧を取り出すとくるりと持ち替えて、無言のまま柄の部分で親友の頭を軽く叩いた。
室内に響くゴンという重い音と、「あうっ」という短い悲鳴の後、食堂は暫し無音に包まれた。
「…えー、マダム・マリアンヌ。今までのお話は妻の作り話でして、本当の仲違いの話は夫婦だけの秘密にさせて下さい。」
横で伸びてしまった花火を介抱しながら、大神は婦人に取り繕った。
「まあまあ、それは当然のことですよねぇ。わたしの方こそ失礼しました。それにしても、奥さまはお話が上手なんですねぇ、わたしビックリしちゃいました!」
どうやら当の奥さまが気絶していることには気が付いていないようである。ホッと胸を撫で下ろした大神は、これ以上余計なことを言わないようロベリアに口を塞がれているエリカを見て、これからはマリアンヌさん以外にも注意しなければいけないと心に誓うのだった。
【コクリコ家の犬】
突然、マリアンヌは両手を耳に当てて辺りの音を探り始めた。
「ねぇコクリコちゃん、ワンちゃんは随分お行儀がいいのねぇ。まるでここにいないみたい。」
「え!?…あ、ワンコもちゃんといるよ!今大人しくしてるだけだから。」
婦人の発言に、一家は一斉にコクリコへと視線を向けた。当の本人は申し訳無さそうに両手を合わせて頭を下げている。
『コクリコ一家には犬もいたのか…。』
どうやら言い忘れていたらしい新たな『家族』の出現に、一同は大いに困惑した。何といっても担当を決めていないのである。
顔を見合わせてしまった一家の中で、勇気ある立候補者が手をあげた。それは本来歓迎すべき事態の筈だったが、一同の表情は絶妙に微妙だった。
『エリカくんか…。』
心意気が十二分にあるのは理解しているけれど、何といっても彼女はあのエリカ・フォンティーヌである。『犬』だと言っているのに『猫』の鳴き真似をするくらいなら可愛いもので、『同じ4本足』という関連で『机』の模倣をしかねない少女だった。そんなことをされては、いくら相手がマダム・マリアンヌでも誤魔化しようがない。
大神はテーブルを囲む人々を見渡した。期待して待っているマリアンヌとエリカは別として、他に新たな家族を担当する適格者はいないだろうか?
グリシーヌとロベリアは難しいだろう。
2人共犬は飼っていなかったし、何より『犬の役を演じて欲しい』などと伝えたら、後でどんな目に遭うのかと想像するだけで避けたい選択だった。
花火も別の意味で難しい。
彼女は大神の願いであれば犬の鳴き真似くらいはしてくれるだろう。しかし、如何せん性格や声質からいって花火は犬に向いていなかった。
そう考えるとコクリコが一番の適役かもしれないが、今回に限って問題があった。
少女はサーカスで多くの動物と接しているから、鳴き真似くらいはお手のものだろう。でも、今現在コクリコが座っているのは聞かせたい人間の直ぐ隣なのである。突然横で犬が鳴いたら、いくらマダム・マリアンヌといえども不審に思う可能性は否定出来ない。
思案を巡らせていた大神は、家族の視線が自分に集中していることに気が付いた。期待がこもったエリカはともかく、その他の面々には何かを訴えかけるものがある。
もしかして、と青年は自分のことを指差してみた。そして等しく頷く一同を見て、彼は天を仰ぐことになる。
よくよく考えれば、確かに彼は適役といえた。声質から選んでも青年以外ではロベリアくらいしか候補者はいないだろうし、以前暮らしていた帝都の大帝國劇場では中庭に犬を飼ってもいた。更に、基本的に真面目な人間だから、誰かのように机の真似をする心配も無い。
しかし…と青年は二の足を踏んだ。
彼の苗字である『大神』は『狼』に通じていると言われている。そんな自分が犬の真似をするのはどうも…と、少々大袈裟かもしれないけれど、青年の自尊心が決断を躊躇わせた。
「…オヤジ、ここはコクリコのために犬を起こしてくれないか?」
大神の心中を察したロベリアの声を聞いて、青年はコクリコが縋るような目で自分を見ていることに気が付いた。
『俺は何を躊躇っていたんだ。コクリコのためなら犬の真似の1回や2回くらい…』
そこで、彼ははたと思い付いた。
『…そうだ、犬ではなく狼の鳴き声なら大丈夫じゃないか?』
流石は幾多の窮地を乗り越えてきた男である。彼はこの土壇場で全てが丸く収まる方法を捻り出した。
しかし、花組隊長としてではなく1人の男としては、何処か抜けているところもある青年でもあったのだ。
『あれ…狼の鳴き声ってどんなだっけ?』
大神が知らないのも無理からぬことだった。日本狼が最後に存在を確認されたのは西暦1905年(明治38年)だから、西暦1903年(明治36年)生まれの青年が直に狼と会う機会自体が皆無に等しかったのだ。ロベリアあたりに言わせると『そんなもの、どっちでもいいじゃないか。』となるのだろうが、彼はとても生真面目なところもある青年だったのである。
再び考え込んでしまった大神を一同は不安な表情で見守った。そんな中で、ロベリア・カルリーニは彼の心の動きが手に取るように分かっていた。
『バカが…そんなもの、どっちでもいいじゃないか。』
そう面と向かって言えれば簡単な話だったが、残念ながら状況がそれを許さなかった。
今は大神を信じるしかない。怪人との戦いであればそれで問題はないが、しかし、この場では一応保険をかけておく必要があった。
『花火!』
ロベリアは目線で花火の注意を引くと、身振りを交えて彼女に指示を送り始めた。
その間も大神一郎は考え続けていた。というのも、彼は確かに狼と会ったことはなかったけれど、何処かで姿を見たり鳴き声を聞いたりしたことがあるように思えてならなかったのだ。
なお、何時の間にか『犬の振りをする』から『狼の鳴き声を披露する』と目的が変わってしまったことに、当の本人は全く気が付いていない。
彼は記憶の棚を一つ一つ開けて確認した。そして遂に、青年は”狼の姿”を見付け出したのである。
『そうだ、確かあの瞬間に狼の声が聞こえた筈だ!』
そう胸中に呟いた青年はやおら立ち上がると、テーブルの上に置いてあるナイフを両手に持った。そして不安そうな家族の視線が集中する中、精悍な顔つきでナイフを構えながら叫ぶ。
「狼虎滅却…おう!紫電―」
霊力を漂わせながらそこまで叫んだところで、大神は突然崩れ落ちた。その背後には、彼の首筋に手刀を叩き込んだ花火が申し訳無さそうに立っている。
「イチローさん、今の掛け声は一体…?」
「悪りいな、ウチの犬は一度寝たら中々起きないんだ。鳴き声はまた次の機会にしてくれ。」
伸びてしまった大神を支えている花火に良くやったと頷きながら、ロベリアは何気ない様子でマリアンヌに嘘を付いた。
「まあまあ、オネムなワンちゃんを無理に起こすのは可哀相ですからねぇ。」
良く考えれば先の質問に対する答えとしては的外れなのだが、当のマリアンヌは気が付かなかったようである。
とりあえず一息ついたロベリアは、隊長さえも(或いは隊長だからこそ)こんな調子になってしまう今の状況を目の当たりにして、一刻も早くこの場から立ち去りたいという衝動に駆られるのだった。
【小公子】
「ロベリア、そこのラディッシュを取ってくれないか?」
「あん?手を伸ばせば届くだろ。いちいちアタシを使うんじゃないよ。」
祖母の頼みを、孫が無下に断った。途端に狭い食堂の空気が緊迫する。
グリシーヌが舌戦の口火を切ろうとした正にその時、気勢をそぐような柔らかい声が流れた。
「あらあらまあまあ!ロベリアさん、お婆さまにそんな言葉遣いはいけませんよ。」
マリアンヌの声で、ロベリアとグリシーヌは改めてここがシャノワールではないことに気が付いた。つい何時もの癖で応じてしまったが、よく考えなくても無用心な対応だと言わざるを得ない。
「確かにその通りだ。アタシの不注意―」
「そうだ、あたし良い考えがあります!」
軌道修正を図ったロベリアだったが、まるで聞いていないかのようにマリアンヌが言葉を遮った。
「お互いにそれぞれの良いところを言い合うんですよ!そうすればきっと、2人はもっと仲良しさんになりますよね。」
「お互いの…」
「良いところだって?」
グリシーヌとロベリアは顔を見合わせ―そして直ぐに背けた。互いの顔には『冗談じゃない!』と極太の仏蘭西語で書いてある。
ところが、家族の方はその話に乗り気満々だった。
「それは良い考えです!私も常々仲良くなって欲しいなって思ってたんですよ。」
「…私もエリカさんと同じです。マリアンヌさんのお考えは素晴らしいことだと思います。」
笑顔で裏切った妹と母をひと睨みした兄は、何とか言ってくれという視線を父に向けた。
しかし、ここでも家族は彼女の味方ではなかった。大神は鷹揚な笑顔で頷く。
「ああ、俺もいい考えだと思うよ。」
『この裏切り者め!』
内心で毒付いたロベリアは拳を振り上げたけれど、それを食卓の上に振り下ろされることはなかった。大人の理性で自制した―訳ではなく、食事が所狭しと並ぶ卓上に拳分の隙間が無かったのである。
ふと隣を見ると、グリシーヌも自らの手の下ろし場所に困っているところだった。まるで示し合わせたかのように交錯した視線が、お互い逃げ道のない身の上であることを物語っていた。
何時ものロベリアであれば『やってられるか!』と叫んで立ち去ればよかった。しかし、彼女はコクリコに対して”家族”を引き受けた責任がある。ロベリアは確かに悪党だったが、だからこそ義理を重んじるのである。
グリシーヌにしても事情はそう変わらない。役割や境遇に関しては不満だらけだったけれど、困っているコクリコのためということであれば、拒否することは彼女の矜持が許さなかった。
反発しあいながらも何処か似ていた二人は、諦めたかのように同時にため息をついた。
最初に切り出したのはグリシーヌだった。
「ロベリアの良いところは…一歩引いた所で物事を見ることが出来るところだ。良く言えば冷静なのだろうな。」
「婆さんが上等なのは…危険を前にしても決して逃げたりしないところかな。その気概だけは認めてやるよ。」
互いの言葉に顔を見合わせた後、2人は気恥ずかしそうに外向を向いた。
暖かな空気が食卓の上を流れかけた時、その雰囲気を読めない人物が分かったという風に手を叩いた。
「なるほど!つまり、『ロベリアさんは集団行動が出来ないひねくれ者。』で、『お婆ちゃんは引くことを知らない荒くれ者。』ということですね!」
“場が凍り付く”とは正にあれを指して言うのだ―と後に多くの者が語った沈黙が食堂を包み込んだ。
「…なるほど。」
「…ふうん。」
祖母と兄の口から漏れた言葉は冷え切っていた。それは余りに低温過ぎて、触れたら凍傷になりそうな一言だった。
そしてこれから起こるであろう騒動を予見した一家は、視線を自らの足へと深く深く落とした。
「ロベリアの良いところは、余人には想像出来ない程金銭に執着するところだ。悪徳商人も裸足で逃げ出す欲深さはこの巴里でも一番であろうな。」
「婆さんが上等なのは、とても普通の女が扱えないような獲物を振り回せる怪力だな。並の男じゃ持ち上げることも出来ない代物をよくもまあ軽々と扱えるもんだ。」
「ロベリアの良いところは、言葉遣いの男らしさだ。もしも女性であったならばとても許されない下品さだが、これが男であって本当に幸いだった。」
「婆さんが上等なのは、育ちの良さだな。全く、融通って言葉が辞書に無いのかって程真直ぐに育っちまって周りが大変なくらいさ。」
「…なるほど。」
「…ふうん。」
「ロベリアの良いところは―」
「婆さんが上等なのは―」
「ロベリアの良いところは―」
「婆さんが上等なのは―」
◇
どれ程の時が経ったのだろうか、食堂に嬉しそうな声が流れる。
「まあまあ、お兄さんもお婆さまもすっかり仲良くなりましたねぇ。」
「ああ、全くだ。これもマダムのお蔭だぜ。」
「そうだな、マダム・マリアンヌには感謝の言葉も無い。」
あははは、と楽しげな祖母と孫の笑い声が食卓の上に溢れた。
しかし、マリアンヌには見えていなかった。笑いながらグリシーヌが振り下ろした戦斧を、同じく笑ったままのロベリアが白刃取りで受け止めている様子を。
その様を声音から感じさせなかった2人の演技力は大したものだったけれど、花組のこれからを思うと素直に賞賛出来ない大神だった。
【積木崩し】
「アナタ、お茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ、ありがとう。花火くんこの料理を取ってあげようか?」
「はい、よろしくお願いします。」
大神一郎と北大路花火は初めの緊張も解けたのか、自然な様子で夫婦の役を演じられるようになっていた。
それはこの場の主旨を考えれば何よりなことである―筈なのだが、何故か心穏やかではない人間が少なからず存在していた。
『…ふん、何だかイイ雰囲気じゃないか。』
鴨肉にナイフを突き立てながら、ロベリアは内心面白くもなさそうに呟いた。
『隊長は目的を忘れているのではないか?もう少し慎重に行動してもらわねば困るのだが…。』
ジビエを口に運びながら、グリシーヌは内心嘆息した。
『大神さんはエリカ専用なのに…。』
カヌレを頬張りながら、エリカはジト目で大神を睨んだ。
『…イチローってばデレデレしちゃってさ。』
コクリコは不機嫌そうに、フレーズ(イチゴ)を口へ放り込んだ。
だが、皆が不穏な感情を抱くのも無理は無かったかもしれない。
互いに東洋系の顔立ちで、髪も瞳も同じ色、更に何気なく互いを気遣う様子などは、日本の夫婦とはこのようなものであろうかと思わせる程、大神と花火の夫婦役は実にお似合いだったのである。
このように一見平穏な空気が流れる食卓だったけれど、その陰では不平不満の水位が確実に上昇していた。
さて、中国には『千丈の堤も螻蟻の穴を以って潰ゆ』という諺がある。その意味は他の書籍に譲るとして、諺の内容自体は読んだ通りである。
そして今、諺が言うところの”螻蟻の穴”が、呑気そうな声と共に理性という名の堤防に穿たれようとしていた。
「あらあらまあまあ、お父さんとお母さんは本当に仲がよろしいのですねぇ。こういうのを東洋では”オシドリ夫婦”って言うんですよね。まるで昔の主人とあたしみたいですってヤダあたしったら一体何言ってるのかしらもぉこんなこと言わせないで下さいよぉ!」
1人で盛り上がっているマリアンヌの話後半を、夫婦を除いた一家は誰も聞いていなかった。
“本当に仲が良い””オシドリ夫婦”という単語に表情を引きつらせた一同は、そろって飲み物が入ったカップに手を伸ばす。
普段ならば不穏な気配に敏感である筈の大神と花火であったけれど、この時に限ってはその能力が発揮されることはなかった。やはり”オシドリ夫婦”と評されたことで何処か気持ちが浮ついていたのかもしれない。
だから知らず知らずの内に、小さく開いた”螻蟻の穴”を広げてしまうような真似をしてしまうのである。
「そう言われると何だか恥ずかしいな。」
「…はい。ですが、奥様からそのように仰ってもらえるのはとても嬉しいことです。ね、アナタ。」
「うん、まあ…そうだね。」
互いに頬を染めながら、仲睦まじく語らう夫婦。
その様子に、家族の理性の堤防は音も無く決壊した。
まるで示し合わせたかのように一斉に音高くカップをテーブルに置くと、先ずコクリコが先陣を切った。
「…パパ、デレデレして格好悪い。」
その冷たい一言が呼び水となって、父と母に対する不満が噴出する。
「コクリコの言う通りだぞ、貴公…いや一郎も花火も、少しは時と場所をわきまえるべきではないのか。」
「全く、オヤジがバカなのは知ってたが、オフクロまでとは思わなかったぜ。」
そして当然、妹もプンプンだった。
「お父さんもお母さんもそうですけど、特にお父さんがダメダメです!そんなことなら、エリカにも考えがありますよ!」
「か、考えって?」
突然巻き起こった家庭崩壊の危機に面喰いながらも、取り敢えず父は娘に問い掛けた。
「お父さんとお母さんがそういうつもりなら…エリカ不良になります!グレちゃいます!」
「いいっ!?」
娘の突然の非行化宣言に慌てた父親だったけれど、何と後に続く者が現われた。
「あっはっは!そりゃいいな。それじゃアタシもそうするとしようかね。」
妹に続いて兄までも突如の不良化表明である。
と、その時、今までオロオロと成り行きを見守っていた母がぽつりと呟いた。
「ロベリアさんは、既にグレているのでは…。」
「何か言ったか、オフクロ?」
早くも険悪な雰囲気漂う母と兄の間に妹が割って入る。
「違いますよ、ロベリアさんはもっとグレちゃうんです!言うなれば”不良大臣”に昇格です!」
「だから勝手に”大臣”とか付けてんじゃねえよ!」
不良化なんだか兄妹漫才化なんだかよく分からない騒動を繰り広げる2人を、コクリコとグリシーヌは特に止めようとはしなかった。彼女たちは非行に走る気は更々なかったけれど、さりとて進んで仲裁するような気分でもなかったのだ。
かくして、『親に相手にされないからと非行に走ろうとする兄妹』、『無関心を装う娘と祖母』、『事態に対処出来ない父母』という家庭崩壊の方程式が見事に成立して、コクリコ一家の命運も正に風前の灯火といった有様になってしまった。
その時、一家の前に救いの神―と本人が勝手に思っている人―が降臨した。
「分かりました!あたしが皆さんを仲良くするためにお力になりましょう!」
「…いや、誰も頼んでいないのだが。」
「そもそもマダムが余計なことを言ったのも原因の一つじゃないか。」
グリシーヌとロベリアは疑問の声を上げたけれど、当のマリアンヌは全く気にした風もなく、食卓の下から何かを取り出した。
「じゃーん、王さま遊びー!」
一家の胡散臭そうな視線の先にあるそれは、筒の中に7本の棒が入っている代物だった。
「この中の棒には、1から6まで数字と、王さまの印が付いています。そして王さま棒を引き当てた人が、何と選んだ番号の人に好きなことをさせられるんです。主人とあたしが考えた遊びなんですよ!」
「…それって2人でやって面白いのかな?」
「…余り多彩な結果にはならないだろうね。」
コクリコの素朴な意見に答えたのは大神だけだった。他の者はその遊びの意味を理解して目の色を変えていたのである。例えば、王さまに選ばれた人が特定の番号2人の接吻を指示して、それが大神と自分であったなら―そう思い至った時、彼女たちは四者四様の態度でマリアンヌの提案を了承した。
「やっぱり家族に大事なのは触れ合いですからねぇ。遊びを通じてもっともっと仲良くなれるんですよぉ。」
そう説明するマリアンヌの言葉を、少なくとも祖母と母、それに兄と妹は聞いていなかった。彼女たちは瞳の奥に殺気にも似た光を宿しながら棒を選び、そして一斉に引き抜いた。
「さあさあ、誰が王さまですかー?」
残った棒を自ら掲げながらマリアンヌが問う。
暫し互いの印を確認しあう静寂が流れた後、コクリコが声を上げた。
「あ、マリアンヌさんが王さまだよ!」
「あらあら、あたしが王さまですかぁ!それでは、王さまが命令しちゃいますよぉ。」
ごくり、と息を呑む気配が食卓を包む。
「それでは、デロデロデロデロ~ジャーン!2番の人が4番の人の頬に口付けしちゃってくださーい!さあさあ、誰と誰ですかぁ?」
能天気な声を上げたマリアンヌは、場の空気が真冬に進んでしまったことに全く気が付かなかった。
家族の冷たい三白眼の先には、恐る恐るといった様子で2番の棒を掲げる大神と、頬に手を添えつつもしっかりと4番の棒を挙げる花火の姿があった。
マリアンヌの”努力”により、コクリコ一家の未来には更なる暗雲が立ち込めたようである。
【エリカ、幸せのレシピ】
「そうだ、エリカちゃんはお料理も出来るんですってねぇ。コクリコちゃんよりも小さいのに偉いわねぇ。」
「はい!エリカは料理が得意なんですよ。」
家族が顔を強張らせたのは、果たしてそんなことを言ったマリアンヌに対してなのか、それとも当然といった顔で肯定してみせたエリカに対してなのか。
大神だけは過去に少女の手料理を食したことがあり、その何とも複雑骨折した味の数々にフランス人の味覚を真剣に疑ったものだった。エリカの作った料理を食べたことのない花組の面々にしても、普段の様子から彼女が料理上手だとは全く思っていなかったのである。
そんな家族の胸中などお構いなしに、呑気な女主人と可愛い妹の会話は続いていた。
「エリカちゃんはどんなお料理が得意なの?」
「そうですねえ、今の時期なら『鴨のコンフィ(コンフィ ド カナール)』なんか美味しいですよね!」
「まあまあ、そんなお料理まで出来るんですか!」
『違う、エリカは”美味しい”と言ったのであって”料理が出来る”とは言っていない!』
悲鳴にも似た家族共通の叫びは、言葉にはならなかったので2人には届かなかった。
「実はちょうど、お隣さんから今朝頂いたばかりの鴨肉があるんですよ!それじゃこのお肉をエリカちゃんにお任せしちゃおうかしら?」
「はい、エリカにバシーッと任せちゃってください!ビックリするような料理を作ってみせますからね。」
『…確かに”ビックリ”はするだろうなぁ、違う意味で。』
そう胸中に呟いた大神は、更にその先を想像して顔から血の気を失った。
“巴里19区で1人暮らしの婦人が重体!原因はシスター見習いの少女Eの手による謎の料理?現場には有名テアトルCの女優数名も同席か!”
新聞の一面を踊る文字を振り払った父は、これは何とかしなければと不安顔の家族を手招きするのだった。
◇
鼻唄交じりで台所に立つエリカの背を、心配そうな家族の視線が見詰める。しかし、その瞳の中に母親のそれは無かった。花火は現在席を外しており、この場にはいなかったのである。
要はエリカの手料理をマリアンヌが食べなければ良いのだ。それには代わりの『鴨のコンフィ』を用意して、それをエリカが作った物だとして供すれば万事丸く収まる筈である。
そう考えた大神は次のような作戦を立案した。
先ずは心当たりがあるという花火が『所用があるので』との理由で席を外し、近所で鴨肉を買(か)ってくる。
次にその食材を急いで料理する。
最後にエリカの作った鴨肉料理を処分し、その代わりに家族が作った物をマリアンヌに差し出す。
この作戦の成否は、先行するエリカに追い付くための迅速さにかかっていた。少しでも早く食材を仕入れ、一刻も早く料理に入らなければ、その過ぎ去った一秒毎に分が悪くなる勝負だった。
そんな焦る気持ちを貧乏揺すりや食卓を指で叩くことで表現していた一同の耳に、玄関の扉が開く音が福音のように届いた。
一斉に集まる視線の先で、希望の女神が食堂の扉から現われる。
「遅くなりました。ただいま戻りました。」
予想していたよりもずっと速く帰って来た花火の左手には、一羽の鴨がしっかりと握られていた。
「お帰り、早か―」
大神を始めとして、家族の口から出かかった言葉は途中で立ち消えてしまった。何故なら古拙の微笑を浮かべる花火の頭上からは、後ろ手に握られた、少女の身長を遥かに越える愛用の弓が覗いていたからだ。
『…狩(か)ってきたのか?』
確か近所にあるビュット・ショーモン公園には大きな池があり、そこには当然鴨も泳いでいた筈である。その事実に思い至りごくりと唾を飲み込んだ家族はしかし、疑問も一緒に飲み込んだ。
経過はどうであれ、必要とされる鴨肉は無事に届いたのである。余計なことを追究するような余裕は一刻たりとて無かったのだ。
マリアンヌの気を逸らせるために話し相手となっているコクリコを除き、父と母、それに祖母と兄が顔を寄せる。
「取り敢えず食材は用意出来たが、捌くための刃物はどうするのだ?」
「そんなの、婆さんの戦斧しかないだろうが。」
「何っ!?貴様この武器を何だと―」
「…それでは、その後はロベリアさんの炎で調理ということで。」
「何だって!?アタシの力は台所道具じゃ―」
「うーん、味付けはそこらの果物から適当にするしかないな。」
台所からは料理をしているは思えない不可思議な音が漏れ、食堂の片隅に集まる家族の隙間からは小声と共に戦斧やら炎やらが豪快な姿を覗かせる。
マリアンヌと話をしながらもその様子を見渡したコクリコは、我知らず顔を引きつらせるのだった。
◇
「さあ、出来ましたー!」
「よし、完成だ!」
家族の努力が実り、声が上がったのはほぼ同時だった。
事前の打ち合わせに従い、グリシーヌが笑顔でエリカに歩み寄る。
「あ、お婆ちゃん!今回は自信作ですよ~!」
孫が笑顔で差し出されたそれは、一見して食物には見えなかった。例えるならば、油で焦げた粘土の塊に木の枝を突き刺し、乱雑に切った黒紙を添え物とした『何か』だった。
見てはいけないもの目撃してしまった金髪の少女は、気を取り直して見習いシスターに固い笑顔を作る。
「そ、そうか、ご苦労であったな。では、その料理をもう少しよく見せて欲しいのだが。」
「はい!」
お皿に盛られた『鴨のコンフィ(と調理者が主張するモノ)』を受け取った祖母は、孫と息子に視線を向ける。
「ロベリア、エリカを頼む。一郎、口を開けろ。」
「あいよ!」「おう!」
そう答えると、先ずはロベリアがエリカの口を手で塞いだ。同時にグリシーヌは、勢い良く開いた大神の口に、『鴨のコンフィ(には決して見えないモノ)』を放り込む。
『『む~!』』
エリカの苦情も大神の苦悶も、自他の努力によりどうにか口外に漏れることはなかった。苦しみ悶える黒髪の青年からそっと視線を外した金髪の女性は、黒髪の少女に向かって頷く。
「花火、料理を。」
「はい。」
花火の手により空いた皿に素早く盛り付けられたこちらの『鴨のコンフィ』は、洗練とは程遠いながらも充分に料理と言える出来栄えだった。
「さあ、マダム・マリアンヌ。こちらが孫のお手製『鴨のコンフィ』だ。」
「わぁ美味しそうな匂い!それでは、いっただっきまーす!ムグムグ…何だか野性的な味がしますねぇ!」
取り敢えず最悪の事態を回避して一安心した家族は、最後に自信作をマリアンヌに食してもらえずご機嫌斜めなエリカの説得に乗り出した。
『むーむー!』
「落ち着けって、エリカ。これには深い訳があるんだよ。」
いまだに口を塞いでいたロベリアが、耳元に向かって小声で話しかけた。
『むむー?』
「ああ、隊長がどうしてもエリカの手料理が食べたいってうるさくてさ。それで仕方無く、今回だけはこっちで用意した代わりの料理を使ったんだ。隊長の顔に免じて許してくれるよな。」
その途端、エリカはぴたりと暴れるのを止めた。そしてぷはっとロベリアの手を退けると、満面の笑顔で苦しんでいる大神に顔を寄せる。
「もう、大神さんたら、そんなにエリカの手料理が欲しかったんですか?分かりました!それじゃ明日から、大神さんの食事は全部エリカが作ってあげますね!」
小声で嬉しそうに言った言葉を聞いて、口に彼女の手料理を詰め込んだままの大神は白目を剥いてひっくり返った。
それが食事の味のせいなのか、それとも3食エリカの手料理を食べさせられる未来を幻視したからなのか―。
『―両方だろうな、やっぱり。』
気絶した大神と彼にしがみ付くエリカから視線を逸らしながら、家族は同様の結論に達していた。そして彼の健康を祈りつつも、その不幸が自分の身の上に起こらなかった幸運をそっと噛み締めるのだった。
4
夕刻に伸びる雲の影は、もはや大地に足を着けることはなかった。地平線の付近から当たる陽光は雲影を空に伸ばし、家々の上に広がる秋空に美しい陰影を描いている。
だから、画家の手によるような夕焼け空の下で、石畳の上に長く伸びているのは人が作る影だった。
緩やかな坂道に伸びる幾つもの影の中には、家路に急ぐ子供たちに交ざって、ゆるゆると石畳を下る花組の姿があった。
斜めから差し込む秋の陽に照らされた顔は、先頭を行く少女を除き皆一様に疲れきっていた。それは怪人との戦いでもこれだけ疲れたことは無かったであろうという程の疲労困憊振りだった。
「…全く、何でアイツだけあんなに元気なんだ。ガキだからか?」
スキップしながら先を行くコクリコを見て、疲れ果てた様子でロベリア・カルリーニは呟いた。その背には疲労からなのか、それとも美味しい物をお腹一杯食べて瞼が重くなったからなのか、エリカ・フォンティーヌが幸せそうな顔をして眠っている。
「…そうだね。コクリコは本当に元気だな。」
歴史の重みでくぼんでいる石畳に軽くけつまずきながら、感心したように大神一郎は答えた。彼の背中には、こちらは疲れた顔の北大路花火が背負われていた。やはり最後に披露させられた”お母さんの十八番”『忠臣蔵1人芝居』が相当堪えたに違いない。
赤穂四十七士や吉良上野介、果ては斬られるだけの端役まで全てを担当した花火の演技力は出色だったが、惜しむらくは大神以外の誰もがお話それ自体を完全に知らなかったという点であろうか。少女の熱演も空しく、意味がさっぱり伝わらなかったのである。
今日一日懸命に家族の要を務めた少女は心身共に疲れ切っていた。しかし、しっかりと大神の体に手を回している花火の頬が幸福そうに赤く染まっているのは、果たして夕陽に照らされているせいだけだろうか。
その様子を後ろから三白眼で眺めているグリシーヌ・ブルーメールもまた、自慢の戦斧を杖代わりにしてようやく歩いているような体たらくだった。その様子は本日演じた役柄に近いかもしれない。
「そんなことより、今宵もシャノワールのレビューがあるのだぞ。こんな有様で演目が勤まるのか?」
グリシーヌの言葉はもっともだった。看板女優たちが揃ってこんな調子では、とても普段通りの公演など出来そうにない。
「大丈夫だよ!」
坂道を跳ねるように駆け上がって来たコクリコが満面の笑みを皆に向けた。
「ママやお兄ちゃん、お婆ちゃん、それに可愛い妹はゆっくり休んでて!今夜はボクが1人で頑張るからさ!」
その言葉に一瞬ぽかんとした表情を浮かべた一同の中で、真っ先に異を唱えたのはやはりロベリアだった。
だがそれは、”お兄ちゃん云々”に対してのことではなかった。
「は!これだからお子さまは。シャノワールに来るような客に対して、ガキの手品だけを見せてハイごきげんよう何て言えるもんか。」
憎まれ口をたたいた後、彼女は一同を見渡した。
「…だがまあ、さすがにお袋は無理だろうな。こうなりゃ演目順を変更して、エリカの『黒猫のワルツ』、アタシの『ジプシーの娘』、それから婆さんの『海』といこう。まさか疲れて歌えない何て言わないよな、バアさん?」
孫からの挑戦的な視線と台詞に、祖母は今までの様子が嘘かのように胸を反らせてみせた。
「当然だ!この程度の疲れなど疲労の内にも入るものか。逆に私はひ弱な孫の方が心配だがな。」
祖母の言葉に不敵な笑みで答えた孫は、次に背負っている妹の頭を自らの頭部を使って小突いた。
「おい、聞いたな妹。お前もちゃんと出るんだぞ。」
「わーい、スパゲティだあ…ムグムグ。」
「おいこら、人の髪の毛を食べるんじゃねえ!」
寝ぼけている妹に強烈な頭突きを食らわせて、最後に兄は妹に向き直った。
「という訳だ。今夜の『取り』はコクリコに任せたからな。」
「他の兄姉がだらしないが、その分もしっかりと頼むぞ、私の孫よ(マ プティットフィーユ )。」
グリシーヌの一言に、皆は堪えきれずに笑い出した。
大神も、ロベリアも、グリシーヌも、それに背負われている花火や涙を浮かべて額を押えているエリカまで。
その様子に、コクリコも嬉しそうに笑い出す。
夕陽に照らされて、笑顔と共に坂道を下る『偽りの家族』。
しかし、石畳に伸びる影は仲良く身を寄せ合い、その幸せそうな団欒の様子は誰が見ても本当の家族だった。
了