「オルゴール奇譚」巴里 はる様


「お姉ちゃん。ねえお姉ちゃん、お願いがあるの。」
メル・レゾンが道端にしゃがんでいる少女に声をかけられたのは、買い物で訪れたクリニャンクール蚤の市からシャノワールへ帰ろうとしていた、ある秋の日の午前だった。
癖のない、けぶるような淡い金髪が背中まで伸びた、紫色の光彩を放つ大きな瞳の、そして薄い空色のワンピースを着た少女は、さも大事そうに鉄製の円盤を抱えながらメイド服姿の女性を見上げていた。
「どうしたの?迷子になっちゃったのかしら?」
少女の真似をした訳ではないだろうが、籐製の買い物カゴを胸に抱えてしゃがみながらメルは問いかけた。少女は愛らしい顔を曇らせると首を左右に振る。
「違うの、大事な物を探していたの。でも、お家まで運べなくて…。」
最後は消え入るように呟くと、少女は胸の円盤を強く抱きしめた。その時、メルは気が付いた。少女が持っている物が、ミュージックボックス(オルゴール)のディスクであることを。
「…そっか、重くて運べないのね。それじゃ、お姉ちゃんと一緒にお家まで帰りましょうか。」
優しげにメルが言うと、まるで花が咲いたかのように少女の顔が輝いた。
「ありがとう!良かった…優しそうな人だから思い切って声を掛けたんだけど、お姉ちゃんにお願いして本当に良かった!」
少女の素直な賛辞の言葉に、うら若い紺色の髪の女性は内心大いに慌てた。どんな顔をしたらよいのか咄嗟に分からなかったのだ。
結局メルは、僅かな時間に散々迷った挙句、顔を真っ赤に染めながらぎこちなく微笑むことしか出来なかった。
蚤の市で購入した、紅茶の葉が入った籐のカゴにディスクを入れると、メルは少女の手を引きながら蒸気バス乗り場に向かった。
街路樹のマロニエは栗に似た実をつけ、その葉が柔らかな秋の陽を優しく陰る。落葉を踏みしめながら、メルは隣で歩きながら有名なワルツを口ずさむ少女に声をかける。
「私はメル・レゾンって言うのよ。あなたのお名前は何て言うの?」
少女は紫色の瞳でメルを見上げた。
「マリー。私の名前はマリーって言うの。」
素敵な名前ね、と答えたメイド服の女性は気が付かなかった。少女の格好が今の季節からすると少しずれていることに。そして、握った少女の手の儚さに。

ロジェ通りを歩くメルの後ろ姿を怪訝な顔で見ていた女性がいた。その時、近くのマルシェ(市)で、いささか人相の悪い店主が声を上げる。
「あれ、ここに置いてあったミュージックボックスのディスクは何処いったんだ?」
同じく買い物に来ていた女性―グラン・マはそちらに一瞥を投げた後、再びメルが歩いていった方を見て小首を傾げるのだった。

 

 蒸気バスとメトロを乗り継ぎ2人が辿り着いたのは、オペラ・ガルニエの近く、プティ・シャン通りを西に入ったパサージュ・ショワズールの入口だった。両側に立ち並ぶ時代から取り残されたかのような商店と、天井を覆っている苔のこびりついたガラス屋根から降り注ぐ薄海緑色の光がメルとマリーを迎える。
「このパサージュに、マリーちゃんのお家があるの?」
「うん、この商店街の外れにあるの。」
マリーはメルの手を引いて、彼女を前世紀の世界へと誘った。

「パサージュ」とはガラス屋根で覆われた商店街のことである。これらが主にセーヌ川右岸、それもグラン・プールヴァール周辺に幾つも集まっているのは、今から約100年前にパレ・ロワイヤルからここに盛り場の主流が移ったことと関係があった。王宮だった建物を商店街に改造したパレ・ロワイヤルは天候が悪い時でも買い物や散策が出来たが、ただの吹きさらしだったグラン・プールヴァールではそれが無理だったのである。
そこに目をつけた投機業者がプールヴァール・モンマルトルに最初のパサージュである「パサージュ・デ・パノラマ」を作ったのが西暦1799年のこと。入口の両側に2つの円形建造物があり、その内部に名前通り全周囲の風景画が描かれていたこのパサージュは大ヒットして多くの客を集めた。その成功に刺激されたのか、これ以降幾つものガラス屋根付き商店街が周辺に誕生することになる。2人が訪れたパサージュ・ショワズールが生まれたのは西暦1827年のことで、これは7月革命が起こるより3年も前の話だった。
時代の最先端をゆくショッピング街としてわが世の春を謳歌していたパサージュだったが、19世紀半ばを過ぎ、オスマン県知事による巴里大改造が行われた頃から急激に廃れ始める。
その理由は幾つかあったが、その最たるものはグランマガザン(デパート)という新しい商業形態が登場したことである。これにより、パサージュそれ自体が一気に過去のものとなってしまったのだ。世界最古のグランマガザン「ル・ボン・マルシェ」が西暦1852年の創業だから、パサージュの栄華は約半世紀程度だった。これ以降どのパサージュも店舗が頻繁に入れ替わり、遂には骨董屋や古着屋、古本屋といった店舗ばかりとなってしまう。
そしてメルが訪れた頃にもなると、パサージュ自体が過去の遺物と言っても過言ではないような状態となってしまったのである。

下町の雰囲気を漂わせる商店街を通り抜け、もう少しでパサージュが途切れそうなその片隅に、時代から取り残されたような印象を与える店舗がひっそりと存在していた。表から見ただけでは何の店舗なのかも、果たして現在営業しているのかも分からないそのお店の前に立って、メルはマリーに声をかける。
「ここが、マリーちゃんのお家?」
「うん、お父さんのお店なの。」
嬉しさの中に微かな寂しさを滲ませた表情でマリーは頷いた。それを少しだけ不思議に思いながらも、メルは古びたガラス戸を押し開いてお店の中へと入っていった。

前世紀の空気が漂っているかのような錯覚を起こさせる古びた店内は、店舗としてはまるで機能していないように見えた。入口から差し込む陽の光に照らされたお店の中には空の棚ばかりが目に付き、まるで引越し前のように荷物が山積みとなっている。棚に一つだけ残された小箱をよく見ると、それが古いメーカー製のシリンダー・ミュージックボックスだと分かった。
「お父さんはミュージックボックス屋さんなのね…あら、マリーちゃん?何処にいるの?」
先程までずっと手を握っていた少女の姿が何時の間にか見えなくなっていた。困惑して辺りを見回すメルの目に、お店の奥から現われた老人の姿が映る。
「先程から随分と騒がしいが、お嬢さんはお客さんなのかな?それならばあいにくじゃが、ここは昨日で閉店したんじゃよ。お売りするような物は何も無いんじゃがな。」
豊かだが真っ白になった頭髪を無造作に伸ばしている老人は、薄汚れた作業着姿のままメルに声を掛けた。老成しているのか、それとも生来の無頓着なのか、場違いな来訪者にも動揺した素振りを見せていない。
逆に慌てたのは来訪者の方だった。これでは一歩間違えればただの不審者であると気が付いたのだ。
「あの、いえ、そうではなくてですね、私は娘さんと一緒に荷物を持ってきただけなんですよ。」
どうにか答えたメルだったが、老店主の言葉を聞いて更に混乱した。
「娘?何言っているのかね、ワシはこの時代から取り残されたパサージュで、時代遅れのミュージックボックスを作って1人暮らしてきたんじゃよ。」
「えっ!?でも、本当にこれを届けて欲しいと頼まれて…。」
そう言いながら、メルはカゴから鋼鉄製のディスクを取り出した。
それを目にして、初めて老人は表情を動かした。震える手でそのディスクを受け取る。
「これは盗まれて行方知れずになっていたディスクじゃ!これを一体どこで…い、いや、今となってはそんなことはどうでもいい。ささ、お嬢さんも奥の工房へいらっしゃい。」
「あの、困ります!わたしは頼まれてこの荷物を運んだだけで…。」
事態を飲み込めないメルだったが、老人に背中を押されて店の奥へ連れて行かれてしまった。
工房となっていた奥の部屋で老職人と彼女を待っていた物。それは家具と見紛うほど大きなミュージックボックスだった。

 

「…とても立派なディスク・ミュージックボックスですね。」
まだ訳が分からないままだったけれど、メルはその大きなミュージックボックスから目を離せなかった。
「ほ!よくこれがディスク・ミュージックボックスだと判ったの、お嬢さん。ワシが作った自慢の品じゃよ。職業を抜きにすると、大抵の者はただの珍しい家具としか思わなかったものじゃがな。」
老職人がミュージックボックスの下段の扉を開くと、そこには既に取り付けられている2枚の鋼鉄製ディスクと空になっている設置場所が一つ現れた。そこにメルから受け取ったディスクを手際良く取り付けると、脇にある2つのハンドルをそれぞれ巻き始める。
「実家にもこんなミュージックボックスがあって、よく家族で聴いていましたから。確か独逸製で、それも同じ位の大きさのディスクを3枚使っていました。」
「14インチ径のディスクを3枚…恐らくシンフォニオン・エロイカじゃろう。3枚のディスクを同調させて演奏する銘機じゃよ。―さてと、これでよし。ささ、お嬢さんはそこの椅子に座ってお聴きなさい。」
メルに椅子を勧めると、自身はミュージックボックスのスイッチを入れた。
広くも無い工房の中に、まるで夜空に輝く星の瞬きを音色にしたかのような、澄み切った音が奏でるチャイコフスキーの「花のワルツ」が響き渡った。いや、聴こえるのは櫛歯を弾く音だけではない。その他にも流れる曲と連動して澄んだ高音が幾つも鳴り響き、曲に深みと厚みをもたらしている。恐らく複数のベルが付いているのだろう。ミュージックボックスとは思えない程大きくて迫力がある演奏なのは、大きなケースそのものを反響板としているからに違いない。
その美しくも懐かしい音色を聴いて、メルは少女の頃を思い出していた。
―リヨンの実家の居間で大きなミュージックボックスのハンドルを回す父。椅子に座って待っている母と姉と私。そしてスイッチを入れた父が急いで家族の元に戻ると同時に、ミュージックボックスが澄んだ音色を奏で始める。家族に囲まれてミュージックボックスを聴いている団欒の時―。
暫しの間過去に飛んでいたメルの瞳に、ミュージックボックス中央部にある幕が上がり、楽しげな曲に合わせて踊り始めた自動人形の姿が映る。
「!」
余りのことに声も出ないメルに代わって、曲が演奏し終わってから老職人が説明する。
「このミュージックボックスは、今まで培われてきた技術をワシなりに集めて作った物じゃよ。シリンダーからディスクへと続いた創意工夫の結晶じゃ…。そして、ミュージックボックス職人であるワシの最後の意地の結晶でもある。」
老人のその言葉に我に返ったメルが椅子から立ち上がった。
「先程も仰っていましたが、ミュージックボックスの製作を辞めてしまうのですか?これほど素晴らしい物だったら、きっと世界でも通用します。」
その言葉を聞いて、老職人は寂しげに笑った。
「ありがとう、お嬢さん。そうじゃな…単純にミュージックボックスの性能だけを比べたならば、シンフォニオンなどの最高級品にも負けない自信はあるつもりじゃ。しかしな、お嬢さん。もうミュージックボックスが人の欲求を満たす時代ではないんじゃよ。このパサージュと同じで、時代の役目を終えたものなんじゃ。」
メルは何か言おうとして失敗した。老職人が言ったことは紛れもない事実だったからだ。

ミュージックボックスなどの自動演奏楽器の歴史は純粋な人間の欲求から始まった。
それは、『いつでも何処にいても好きな音楽を聴きたい!』という当たり前の夢。
その夢をかなえる元となったのは、西暦1381年ブリュッセルのニコラス・カーク塔に付けられた、短いメロディを時報替わりに鳴らしていた鐘(カリヨン)だった言われている。以降、このカリヨンは置時計に組み込まれ、18世紀末にもなると時計の付属品としてミュージックボックスの原型となるものがスイスのジュネーブで産声を上げた。それからの100年間に、自動演奏装置の技術は爆発的といっても過言ではないほどの進歩を遂げる。シングル・ティースからセパレート・ティース、2つの異なる性質の櫛歯を持ち美しいハーモニーを奏でるピアノ・フォルテ・ボックス、打楽器の演奏を加えたオーケストラル・ボックス…。更に長時間演奏や複数曲演奏への挑戦を経て、19世紀も終わりが近づく頃にディスク・ミュージックボックスが誕生する。栄光の19世紀を越えて20世紀に入り、正に技術的な爛熟期を迎えたその時―突然かき消すようにミュージックボックスは歴史の表舞台から消滅していったのである。
19世紀に君臨した自動演奏装置の、その余りに呆気ない末路には、実は明確な原因が存在した。
それはエジソンの蓄音機が登場したことや、レコードの録音の忠実度が改良されたことなどにより、原音により忠実に、そしてより手軽に音楽を楽しめるようになったからである。
どれほどミュージックボックスの音色が素晴らしいとはいえ、そしてディスク・ミュージックボックスがシリンダー・ミュージックボックスと比較して安価であったとしても、それでも誰もが気軽に楽しむには費用が掛かり過ぎたのだ。ポリフォンやレジーナ、シンフォニオンというミュージックボックス市場の9割を占めていた三大企業は、この10年から15年の間に社業を閉じている。
誰の目から見ても、ミュージックボックスが時代の主流から外れたことは明白だった。

これから、このパサージュに新たな価値を見出すような人が登場するかもしれない。ミュージックボックスの美しい音色を愛好する者もきっと存在し続けるだろう。
しかし、これらが再び時代の寵児に返り咲くことは有り得ないとメルは知っていた。いや、メルだけではなく誰もが感じていることだった。そこにあるのは「過去」であり、決して「現在」ではないことを。
沈黙してしまったメルの耳に、老人の穏やかな声が届いた。
「そんな哀しそうな顔をせんでおくれ。寂しくないと言えば嘘になるが、これも時代の流れというものじゃろう。ワシは納得してこの巴里を去るんじゃよ。」
そして、老人は孫に向けるような慈愛の瞳を、自らが手がけたミュージックボックスへと移す。
「…明日にでも故郷に帰るつもりなんじゃ。その前に、盗まれて行方知れずになっていたディスクが見付かったのも何かの縁じゃろう。巴里での最後の演奏会、もう一度聴いていくかな?」
「…はい!喜んで。」
メルの返事を聞いて嬉しそうに頷くと、老職人は再びハンドルを巻き始めた。その背中に向かって彼女は問い掛ける。
「そういえば、このミュージックボックスには名前はあるのですか?メーカー製の物にはよく名前が付いていましたけれど。」
その言葉に、一瞬老人は手を止めた。そして振り向きもせずに独白する。
「…昔、本当に昔じゃな。このパサージュが希望と活気に満ち溢れ、ミュージックボックスの前途が明るく輝いていた頃…若かったワシら一家がこの巴里に来て、そして直ぐに亡くなってしまった娘の名前を付けたんじゃよ。名前は―」
メルにはその名前に心当たりがあった。
「―マリー、ですか?」
老職人は驚いて振り向く。
「お嬢さん、どうしてそれを?」
「…いえ、何となく、です。きっと、お父さん想いの優しい娘さんだったのですね。」
再びミュージックボックスの演奏が始まった。豊かな美しい音色のワルツを聴きながら、メルはその中で踊る自動人形を見詰めて微笑む。

ミュージックボックスの中で楽しそうに舞っている人形。それは先程まで手を繋いでいた少女の姿に瓜二つだった。

 

秋の陽が早くも傾き始めた頃、メル・レゾンはモンマルトルのテアトル・シャノワールへと戻ってきた。心ここにあらずの体だった彼女だが、穏やかな日差しに照らされた白い劇場を目にして、自分が「現在」に帰ってきたことを実感した。
そんなメルに向かって、彼女のもう一つの「今」がシャノワールのポーチから勢い良く駆け寄って来る。
「メル、メルぅ、大丈夫?働き過ぎじゃない?それとも何か食べ過ぎたの?」
「…ちょっとシー、失礼なこと言わないでよ。突然どうしたの?私は見ての通り元気よ…もちろん、食べ過ぎてもいないわ。」
そう答えたメルだったが、言われた方は心配な顔をして今にも泣き出しそうな様子だった。
「だってだって、さっきオーナーが独り言を言いながら歩いていくメルを蚤の市で見かけたって言ってたんだもん!」
「独り言…。」
その言葉を聞いて、メルは自分の掌を見詰めた。淡い金髪で、紫色の光彩を放つ大きな瞳の、薄い空色のワンピースを着た心優しい少女。その手には儚げな感触が僅かに残っていた。
『…夢じゃない、よね。』
「ん?メル、何か言った?」
心配そうに顔を覗き込むシーに、メルは笑顔を向ける。
「ううん、大丈夫よ、シー。そうだ、いい紅茶の葉が手に入ったの。大神さんも誘って、皆でお茶にしましょう。聞いてもらいたい、少し不思議な話があるのよ。」
抜ける様に高い秋空の元でメルはシーの手を握ると、驚いた顔の少女の手を引いてシャノワールへと歩みだした。
その手に、少女の手の確かな感触と暖かさを感じながら―。

(了)

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