1
朝日の第一閃が、ノルマンディー地方の砂州にそびえる「山」を鮮やかに切り裂いた。
沖から吹いてくる風は涼気の衣をまとっているが、その下からは春の気配が顔をのぞかせている。これから太陽が姿を現すにつれて、辺りを優しい陽光が満たしていくだろう。
西暦1926年春。ノルマンディーの海に浮かぶモン・サン・ミシェルが、荘厳な姿を地上に現し始めていた。
ヴィクトル・ユゴーが「海上のピラミッド」と称え、モーパッサンが「夢の宮殿の如く驚異的で、信じがたいほど美しい」と記した、大聖堂の尖塔に黄金のミカエル像をいただく聖なる山。
だが、ローマカトリックが聖ミカエルの本山と認めた、そのけがれなく尊い舞台で演じられているのは、とても残念な事に聖史劇ではなく、喜劇の色合いが甚だ濃かった。
海抜約150mの頂に立つ大天使ミカエルの像。その崇高な姿の上に、あろうことか二つの人影が見える。
その内の一つの影が、像と同じく右腕を高々と掲げて、下々の者に向かって高らかに宣うた。
「少しくらいの失敗を咎めてぇ、日々の楽しみであるおやつを抜きにするとはぁ、一体どういう事でしょうかぁ!私たちはそのグコウに断固抗議をすると共にぃ、このモン・サン・ミシェルを、独立国とする事を高らかに宣言しますぅ!国名は【カプリス・ホンティーヌ連合王国】でぇ、国の基本方針は【好きなだけお菓子食べ放題!】ですぅ!」
「はうでふはうでふぅ(そうですそうですぅ)!」
もう一つの人影が、巨大なガレットを頬張りながら続くと、遥か下方で抗議の声が上がる。
「エリカっ!怪人に操られているとはいえ、食べ物を口に入れたまま喋るとは何とはしたない!」
「…ねえ、グリシーヌ。それってなんかズレてない?」
西のテラスと呼ばれている広場で、尖塔を見上げる金髪の少女に向かい、栗色の髪の少女が疑問を呈した。
「―ああ、そうだな。私としたことが少々混乱しているようだ。では改めて…エリカ!怪人に操られるとは何たる失態!こうなれば、仲間である私自らの手で成敗してくれる!」
「ええっ!?ちょ、ちょっとグリシーヌってば。」
「…いけないわ、グリシーヌ。」
その時、傍らにたたずむ黒髪の少女がグリシーヌの手を止めた。
『やっぱり花火だ。グリシーヌの友達だもんね、こういう時はちゃんと止めて―』
しかし、コクリコの淡い期待はあっという間に霧散することになる。
「その戦斧では届かないわ。離れた所を狙うには、この弓を使わなくては。」
「…グリシーヌもそうだけどさ、花火も一体何処からそんなの出したの?」
コクリコの的確な指摘も、しかし、尖塔の少女を凝視している黒髪の青年の耳には届いていなかった。青年は声に焦りを滲ませて叫ぶ。
「エリカくん!話は良く判らないけど判った!判ったから、とりあえず足をそこからどけるんだ!」
「え~っ!?そんな、突然『可愛いね』何て言われたら、エリカ照れちゃいますよ~。」
そう言いながら、エリカはミカエル像の頭の上で飛び跳ねた。気のせいか、像の頭が少し傾いたような気がする。
「ああっ!ごめんなさい、あやめさんごめんなさい!だからデコツンは勘弁してください!」
頭を抱えながら意味不明なことを言う大神に、藍色の髪の少女が声をかける。
「大神さん、しっかりして下さい!怪人に操られているシーとエリカさんを、少しでも早く助けなくては。」
「…うーん、ボクには二人共ただ酔っ払ってるようにしか見えないんだけどなあ。」
コクリコの素直すぎる意見は、残念ながら誰の耳にも届かなかった。
その様子を、はるか下方の海岸沿いにそびえる城壁から眺めている女性がいた。外から見え難いよう城壁に身を隠し、癖のある銀髪を撫で付けている。
「…なんだいアレは。何とかと煙は高いところが好きっていうから、あそこで騒いでいるのは、きっと飛切りのバカどもなんだろうな。」
そう言いながら、しかし自分も相当に間が抜けていることを、いやいやながら自覚していた。
「もうしばらくは、こうして身を隠していないとな。…まったく、どうしてこんなことになっちまったんだ。」
同じ頃、偶然にも、大神一郎も同じようなことを思って天を仰いでいた。
『嗚呼、一体どうしてこんなことに…。』
彼の記憶は、現実から逃避するように数日前へと遡った。
2
マロニエの花が咲く季節、巴里のモンマルトルにあるテアトル・シャノワールは平和な午後を迎えていた。
巴里を騒がせていた「連続貴族失踪事件」も先日無事に解決し、秘書室でお茶を楽しむ人々の顔も自然と明るくなる。
「ねえねえ大神さん、このマカロン美味しいでしょう!ガルニエの近くへお使いに行った時、少し足をのばしてマドレーヌ教会の近くにあるラデュレで買ってきたんですよぅ。今度は、エディアールのチョコレートケーキにしましょうね!」
「もう、シーったら。お使いの途中なのに寄り道したら駄目じゃない。大神さんからも何とか言って下さい。」
「えーっ、ちゃんと用事は済ませたもん。それに、メルもマカロン美味しそうに食べてるじゃない。」
「それは、だって、買ってきちゃったら仕方が無いじゃない…。」
花の都巴里に赴任してから約ひと月、やっとこちらの生活にも慣れてきた大神一郎は、ひと時の平和を満喫していた。
『ああ、こんな平和がずっと続けばいいのにな。』
だが、運命の女神はその時ご機嫌ななめだったようである。
そう思っていた黒髪の青年の耳に届いたのは、玉を転がすような秘書たちの声ではなく、体に響く低い爆発音だった。
「厨房の方から聞こえたみたいだ!」
急いで駆けつけた3人がそこで見たものは、粉々になった厨房の真ん中で、頭を掻いている見習いシスターの姿だった。彼女は煤で真っ黒になった顔に照れ笑いを浮かべている。
「てへへ、やっちゃいました…。」
「…エリカくん、何をやっちゃったんだい?」
「それがですね、おやつの時間なので、皆さんに食べてもらおうとしてプリンを作っていたんですよ。それが、なぜか途中で急に爆発しちゃって。まったくもってミステリーですね!」
「何が『まったくもってミステリーですね!』だ。どこをどう作ったらプリンが爆発するというのだ!」
大神たちに遅れて現場に到着したグリシーヌが開口一番に追及すると、続いて入ってきたグラン・マが困り入った顔でつぶやいた。
「やれやれ、これじゃあしばらく厨房が使えないじゃないか。今夜のレビューに出す料理をどうするつもりだい?」
「…厨房の修繕が済むまで、近くのレストランから注文を取りましょうか?」
「メル、馬鹿なことをお言いでないよ。うちはレビューと共に料理も楽しんでもらってるんだ。『厨房が使えないから他から料理を注文しました。』何てお客様に言うくらいなら―」
一つため息をつくと、オーナーは決心したように皆に言った。
「仕方が無いね、シャノワールは数日間臨時休業。修繕が済むまで、お店を休みにする方が余程増しだからね。ああ、もちろんその間は従業員も休みだよ。」
原因はともかく結果は喜ばしいことだったので、一同の顔には笑顔が浮かんだ。
ところが、続くグラン・マの一言により事態はおかしな方向へと流れ始める。
「ああ、悪いけどムッシュには任務があるからね。明日の朝一で、モン・サン・ミシェルへ行っておくれ。」
この言葉に素早く反応したのは、言われた大神ではなく、側で聞いていたグリシーヌとシーだった。
「何、モン・サン・ミシェル!それならば私も行かねばなるまい!」
「ええっ!大神さんモン・サン・ミシェルへ行くんですかぁ!それならお供しますよぅ!」
「…ねえねえグリシーヌさん、どうしてグリシーヌさんが行かなくちゃいけないんですか?」
いつの間にか顔を洗ってお茶まで飲んでいるエリカがグリシーヌに問うと、待っていましたとばかりに彼女は胸を張って答えた。
「それは我がブルーメール家が、ノルマンディー公爵家の血を継ぐ家柄だからだ!」
実はノルマンディー公爵家とモン・サン・ミシェルには浅からぬ縁がある。
公爵家が成立する以前、ノルマン・ヴァイキングの酋長ロロが配下を率いて巴里に近づいたことがあった。その時は郊外のシャルトル攻防戦で辛うじて撃退したものの、時のシャルル単純王はその武力に恐怖した。そして西暦911年、ロロにノルマンディーの領有を認め、王の妹姫を与え、更に王室の公爵位を授与している。このロロこそが初代ノルマンディー公となる。王はこの際、一つの条件を提示した。
それが基督教への帰依である。
領地を統治するためには、住民が信仰する基督教への帰依が必要であることを賢明なロロは理解し、彼は躊躇なく信仰を変えた。それは子孫に受け継がれ、ノルマンディーの民が信仰する聖地モン・サン・ミシェルを手厚く保護している。
中でもロロの孫にあたり、第3代ノルマンディー公でもある無敵公リチャード1世は、当時荒れていた聖堂の修復と共に聖職者の刷新に取り組んだ。西暦966年、リチャード1世は乱れていた聖職者たちを追放し、あらたに厳格敬虔なベネディクト派の修道僧を入れている。
この後も、ロロの子孫たちはこの地で挙式し、様々な物や土地を寄進し、そして兄弟同士で争った。
様々な意味で、歴代のノルマンディー公とモン・サン・ミシェルは関係が深いのである。
「…グリシーヌの家とモン・サン・ミシェルって所が関係あるのは分かったけどさ、それってグリシーヌが行かなくちゃいけないのと関係あるの?」
いつからいたのか、ひょっこりと大神の横から顔を出したコクリコが聞くと、一拍置いた後にあらぬ方を見ながら高貴な貴族はひとりごちた。
「そうだ、花火も誘うとしよう。確か一度も訪れた事が無いはずだからな。うん、これは良い機会だ。」
「あ、グリシーヌごまかしてる。ひょっとして、イチローが行くからじゃないの?」
顔を真っ赤にしたグリシーヌとコクリコが、余り高等とはいえない口論を始めた横で、シーはエリカに声をかけていた。
「ねえねえ、エリカさんも行きましょうよぅ。」
「え?わたしは駄目ですよ。だって、教会のお勤めとか休めませんし。」
見習いとはいえ敬虔なシスターであるエリカは当然のように断った。
ところが、シーが耳打ちをした直後、見事に前言を撤回する。
「それは絶対に行かないといけません!基督教の聖地なら私の聖地も同然ですよ。そんなところに行ったら、きっとお勤め数日分ですね!」
喧騒に満ちた厨房(半壊)で再びため息をつくと、グラン・マは要領を得ない顔で立ち尽くしている大神を手招きした。
「これじゃあ落ち着いて話も出来やしないよ。ちょっと支配人室へおいで。」
「…『聖遺物』の探索、ですか?」
先程とは打って変わり静かな支配人室に大神の声が響いた。その言葉には、わずかだが不審の要素が含まれている。
「そう、『聖遺物』。ムッシュは知らないのかい?」
「いえ、『聖人の遺骸や遺品』ですよね。それを探してくるのが今回の任務ですか?」
「ああそうさ。物は『オーベル司教の頭蓋骨』。初めてモン・サン・ミシェルに聖堂を建てた聖人の骨だ。―別に、今回の件が無くてもムッシュには出張をしてもらおうと思っていたけれど、まあうまい具合に休みと重なったね。」
グラン・マの話によると、賢人機関に属している占星術師の占いによるそうである。
曰く、『―モン・サン・ミシェルに眠るオーベル司教の頭蓋骨を見付けるべし。さすれば巴里を守る新たな力が得られるだろう―』
「…その占いを信じてるんですか?」
「ああもちろん。どんなに眉唾物なことだって、それが巴里の平和のためになるなら、私はなんだってするつもりだよ。…どうやらムッシュは、余り乗り気じゃないみたいだね。」
気持ちが表情に表れていると知り、大神は軽く狼狽したが、意を決して自らの意見を述べる。
「はい、その通りです。過去の遺産とか魔力がこもった物に頼るのは反対です。そんな物を使うより、今を生きる人々の力で、この巴里を守るべきだと思います。」
その時、大神一郎の脳裏を過ぎったのは、多くの人々の運命を狂わせた「魔神器」と、命を落とした憧れの女性の姿だった。
その真摯な姿勢を見て取ったグラン・マだったが、口に出してはこう言った。
「ムッシュ、これは命令だよ。拒否は許さないからね。」
「…分かりました。巴里華撃団花組隊長大神一郎、任務遂行のため翌朝モン・サン・ミシェルへ向かいます!」
心中を抑えつけて大神は敬礼をした。何といっても彼は軍人であるから、上官の命令を拒否することは出来ない。
「すまないね、ムッシュ。期待しているよ。」
「はっ!…ところで、少し質問があるのですが。」
「なんだい?私に答えられることなら何でもお言い。」
「あの…『モン・サン・ミシェル』って何ですか?それと、何処にあるんでしょうか。」
何とも気まずい沈黙が、上官と部下の上に降り注いだ。
「ノルマンディー地方にある小さな島、か。巴里から結構離れているな。帝都から名古屋くらいの距離がある。」
グラン・マから手渡された資料をパラパラとめくりながらロビーまで戻ると、そこには先程厨房(半壊)にいた面々が大神を待っていた。
「話は決まったぞ。ここいる全員と花火で行くことになった。すでに現地での馬車とホテルの手続きも済ませたからな。」
「いいっ!?全員って、花組にメルくんシーくんまでシャノワールを留守にしたら、何かあった時にまずいよ。」
「―まあいいさ、何てったって休暇なんだから。それに、助っ人の心当たりもあるから、心配しないで楽しんでおいで。」
すぐ後から来た支配人の言葉に、皆は顔をほころばせた。そして明日の旅行の用意をするため、足早にシャノワールを後にする。
グラン・マと2人ロビーに残された大神は天を仰ぎ、そして手元にある資料に目を移した。これから彼もアパルトマンに戻り、旅の準備と共に資料に目を通さなければいけないのである。
「…と、言う訳なんだよ、ムッシュ迫水。」
「なるほど、それで私を呼ばれたのですか。」
大神たちがシャノワールを後にしてから数刻後、貴賓室にはグラン・マと仏蘭西国駐在大使迫水典通の姿があった。つまり、彼が『心当たりのある助っ人』である。
「ああ、大神隊長たちが留守にする数日間、ムッシュの力を借りたいんだよ。引き受けてくれるかい?」
「申し訳ありません、マダム。私としてもぜひお力になりたいのですが、ここ最近大使館の仕事が滞っておりまして。秘書の目もあり、現在は大使館を抜け出すことも容易ではないのですよ。私は巴里華撃団凱旋門支部長であると同時に、在仏日本大使でもあるのです。その点をご理解していただければ幸いです。」
「…そうかい、それなら仕方が無いねえ。」
そう言いながら、何気ない動作でポケットから1枚の古ぼけた写真を取り出すと、それをテーブルの上に置いた。その写真を一目見た大使の顔色が変わる。
「こっ、この写真を一体どこで…。」
「あの人から聞いたのだけれど、ムッシュも若い頃は随分とやんちゃだったそうじゃないか。まあ、誰だって無茶の一つや二つはしているもんだが、さすがは後に『鉄壁の迫水』と異名をとるだけのことはある。やることのスケールが違うねえ。しかもご丁寧に写真まで撮っておくなんてさ。」
「わ、若気の至りというやつですかな、ははは…。」
乾いた笑いを顔に張り付かせている迫水に対し、かって友誼を結んだ友の夫人は余裕たっぷりだった。
「それで、さっきの件についてなんだけどね…。」
「喜んで引き受けますとも、マダムグラン・マ。私にとっては大使館の職務より、巴里の平和の方が万倍も尊いものなのですから。」
「ありがとう、ムッシュ迫水。ムッシュならそう言ってくれると信じてたよ。」
グラン・マと迫水は何事も無かったかのように笑った。
二人とも、立派な紳士淑女なのである―色々な意味で。
3
翌朝、花組とメル、シー、そしてグリシーヌの友人である北大路花火の姿がモンパルナス駅のホームにあった。この駅はボルドーやブルターニュ地方など大西洋沿岸地帯と巴里を結ぶ汽車のターミナルとなっている。
大神を初めとする花組と花火は普段と変わらない服装をしているが、メルとシーの2人は、そろって活動的なパンツスタイルだった。もっとも、メルは落ち着いた、シーはかわいらしいとデザインは異なっている。
どの顔にも多少の差こそあれ、これから旅行に出かる喜びが浮かんでいるが、その中にただ1人例外がいた。
大きなあくびをしつつ、浮かない顔で小さな旅行かばんの上に腰掛けたのは大神一郎である。
昨日、グラン・マにはあのように答えたものの、やはり彼の本心としては今回の任務に乗り気ではなかったのだ。そのためか、資料を読むことにも集中できず、理解度としては正直「ななめに読んだ程度」でしかない。
「どうしたのだ隊長、ずいぶんと暗い顔をしているではないか。それほどまでに難しい任務ならば、私がいつでも力になるぞ。」
「ああ、いや、大丈夫だよ。少し考えごとをしていただけなんだ。」
大神は愛想笑いを浮かべながら答えたが、その内容からも分かるように、彼は同行者たちの誰にも今回の任務について話していなかった。
やはり、大神の脳裏からは魔神器よる悲劇が離れない。
『皆には、破邪の血で苦しんださくらくんのような目にはあわせたくない―。』
自然と表情が厳しくなる大神に、グリシーヌはそれ以上何も言えなかった。
ホームから離れた汽車は、鉄路巴里の西方ノルマンディーに向かった。途中、レンヌ駅で乗り換えて、ポントルソン駅からは馬車を使う予定となっている。
向かい合わせの席を、通路を挟んで2つ確保した一同は、大神、コクリコ、メルと、エリカ、シー、グリシーヌ、花火に別れた。
この組み合わせには、実はささやかながら理由が存在する。
今回の旅行中、何故かエリカとシーはいつも以上に仲が良かった。朝に出会ってから今まで、何か楽しそうに話をしている。グリシーヌと花火は親友なので、当然のように隣同士。
そしてメルは、大神に請われて、目的地までの道中、モン・サン・ミシェルについての講義をすることになっていた。
メル・レゾンは17歳の頃、両親の反対を押し切って巴里第四大学(ソルボンヌ)に入学している。その際の専攻は経済学部だったが、その他にも仏蘭西国の歴史を学んでいた。当然、モン・サン・ミシェルについての知識も、大神などよりは遥かに有している。それを知った大神は、資料で理解できなかった分の知識を得るため、彼女に教えを請うたのである。
ちなみに、コクリコが大神の隣に座っているのは、ただ「イチローが心配だから」だ。
「―モン・サン・ミシェルの歴史は、伝説によると、西暦708年にアヴランシュの町に住んでいたオーベル司教の夢に、大天使ミカエル様が現れたところから始まります。」
講義を始めたメルの言葉に、2人並んで座っている大神とコクリコはうなずいた。端から見ると、物知りの従姉が兄妹―コクリコが聞いたら不満に思うかもしれないが―に昔話を話しているようでもある。
―その時、ミカエルは司教の額に触れながら「沖の岩山に我を祭る聖堂を建てよ。」と命じたという。だが、どうやらこのオーベルという司教は相当にずぼらだったらしい。
『あんな砂州の、しかも潮が満ちれば海の中に孤立するような岩山に、どうやって聖堂なんか建てるんだ?変な夢を見たものだなあ。』
あろうことか、大天使ミカエルのお告げを、ものの見事に無視してしまったのである。
その後、再び同じ夢を見たが、『しつこいなあ、ミカエル様は。』と再び神託をないがしろにしてしまう。
「…どうしたんですか大神さん、突然笑ったりして。」
話の途中で吹き出した大神に、メルが不思議そうな顔をする。
「あ、ごめん。少し昔のことを思い出してしまって。メルくん、続きを教えて。」
その時、黒髪の青年の脳裏に映ったのは、かつて彼が憧れていた女性の姿だった。
『そういえば、あやめさんには何度も額に指を当ててもらったっけ。それって、昔からだったんだなあ…。』
大神一郎が憧れていた女性―藤枝あやめ帝國華撃団前副指令が、実は大天使ミカエルと同一存在であったことを知るのは、華撃団の中でもごくわずかの人間だけである。公文書には『藤枝あやめ特務中尉―太正十三年三月ニ勃発シタ銀座迎撃戦ノ際行方不明。以後消息不明。』としか記されていない。
その件について、大神は巴里華撃団の誰にも話していなかった。
仏蘭西国は国民の8割以上がカトリックの信者という国である。冗談に紛らわせても、『実は大天使ミカエルと知り合いなんだ』などと口が裂けても言えたものではなかった。
―しばし過去に飛んでいた大神の意識を、強制的に現実へと引き戻したのは、話の続きを語りだしたメルの次の一言である。
「3度目に現れたミカエル様は、いつまでも信じないオーベル司教の額に触れると、今度は光のほとばしる指で司教の頭を貫きました。すると、翌朝目が覚めた司教の頭には、何と本当に穴が空いていたということです。」
「何ーっ!?」
突然大声を上げた大神に皆の視線が集まる。だが、当の本人はそんなことには気付きもせず、ただメルに内容の確認をするだけだった。その顔色は蒼白で、先程浮かべた笑みのかけらも残っていない。
「メ、メルくん!その話は本当なのかい?デコツンで、頭に穴が空いたというその話は!」
「落ち着いてください、大神さん!一体どうしたんですか。その話はあくまで伝説として伝わっているだけですよ。」
それを聞いて少しだけ落ち着きを取り戻した大神だが、その後に続いた言葉で再び生色を失うことになる。
「あ、でも、アヴランシュのサン・ヴェルジェ教会には、オーベル司教のものと伝えられる頭蓋骨が保存されています。それにはちゃんと穴が空いているそうですよ。」
「…イチロー、ブルブル震えてるよ。体の具合が良くないの?」
「貴公、大丈夫か?もしサン・ヴェルジェ教会に用があるのなら、モン・サン・ミシェルへ行く前にそちらへ寄るが。」
「…うん、大丈夫だよ、コクリコ。具合は悪くないから。そうだね、グリシーヌ。済まないけど、お願いするよ。」
一応答えは返ってきたが、彼が意思能力を欠く状態にあるのは誰の目にも明らかだった。
「そうか、穴かぁ。怒って、デコツンで頭に穴がねえ…。」
自分の額に手を当て、ここではない、どこか遠くを眺めながら大神はつぶやいている。
そんな彼を、皆は薄気味悪そうに遠くから眺めていた。
「―全く、隣の車両は騒がしいねえ。アタシは眠いんだからさ、少しは静かにして欲しいよ。」
大神たちが乗車している隣りの車両で、向かい合わせの席を一人で占領している銀髪の女性がひとりごちた。
彼女こそ誰あろう、欧州中に名を轟かせている「巴里の悪魔」ことロベリア・カルリーニその人である。
そんなロベリアが活動の中心である巴里を離れて向かう先は、大神たちと同じくモン・サン・ミシェルだった。
『あのジイさんが言った通りなら、あそこにはとんでもないお宝が眠っている筈だ。アタシがわざわざ出張るだけの価値があるってもんさ。』
それは、賭けの代価として、若い頃、かってモン・サン・ミシェルに『入っていた』という老人から得た情報だった。そのお宝がどんな物かまでは聞き出せなかったが、まんざら嘘とは言い切れないことを彼女は知っていた。あの島には、お宝がどこかに隠されていたとしても不思議ではないのである。
「どんなお宝があるのかねえ。美術品か、それとも金銀財宝か…。」
1人笑みを浮かべながら、ロベリアは車窓へと視線を向けた。
ポントルソン駅の小さな駅舎を出たロベリアの目に先ず飛び込んだのは、いかにも貴族が乗りそうな高級馬車だった。
「ふん、どこのお大尽さまだろうね、こんな田舎にわざわざさ来るなんてさ。よほど暇なんだろうな。」
皮肉たっぷりに言うと、自らは正に出発しようとしていた乗り合い馬車に飛び乗った。
ロベリアに遅れること数分の後、大神たちはやっとノルマンディーの地を踏む。
どうにか一時の混乱から立ち直った大神一郎だったが、彼を気遣ってか、コクリコが彼の手を引いていた。一同の先頭に立つグリシーヌは、何故かハンカチで口を拭っている。
「グリシーヌ、大丈夫?汽車が到着した途端にクシャミをしていたけれど…。」
「ああ、心配ない。風邪を引くほど軟弱ではないからな。きっと、誰かが私の噂をしていたのだろう。」
「えーっと、何でしたっけ?『何とかは風邪を引かない』ってカクゲンが確かあり…ムグムグ!」
グリシーヌが振り向くと、後ろからエリカの口をふさいでいるメルの姿があった。
「どうしたのだ、メル。エリカの口を押さえたりして。」
「い、いいえ、何でもありません、グリシーヌさま。お気になさらずに…。」
それを見ていたシーがしみじみと言う。
「メルって、心配性のお姉さんみたいだよねぇ。」
「…お願いだからあなたが言わないで。」
「何をしているのだ。サン・ヴェルジェ教会に向かうぞ!」
グリシーヌの声に、一同は慌てて馬車に乗り込こんだ。これこそ、先程ロベリアが毒付いていた馬車である。
「へえ…これがねえ。」
モン・サン・ミシェルにほど近い沿岸の町アヴランシュ。そこにあるサン・ヴェルジェ教会を訪れた一同は、宝物庫に保存されている硝子のケースを取り囲んだ。
その中にある頭蓋骨には、確かに穴が空いており、その周囲が若干盛り上がっている。だが、その場所は額ではなく、脳天に近い位置だった。
『これは…やっぱり偽物かな。穴の位置も違うし、それに占星術師の占いでは「―モン・サン・ミシェルに眠る―」となっていたし。第一、こんなところに穴が空いたら、人間生きていられないよなあ。』
正直、ものを見るまでは嫌な緊張感に包まれていた大神だったが、冷静になって考えると余りにも怪しいので、逆にすっかり落ち着きを取り戻していた。
それは大神だけに止まらない。多かれ少なかれ、他の面々も胸中に疑義を抱えていたのである。ただ、それを口にするには、やはり信仰と分別が邪魔をした。
このような時、「王様は裸だ!」と言えるのは、純粋無垢な心を持つ子供の特権である。そして、言うべき時と場所を選ばないのも、また子供の特徴だった。
「こんな風に穴が空いて、ピンピン生きていたら変ですよ。これは絶対に偽物ですね!」
「オマエが言うなっ!」
皆から異口同音に突っ込みを受けたエリカは口を尖らせる。
「えーっ、何でですか?正しいと思ったことは、ちゃんと言ってもいいんですよ。神様も仰っていたじゃないですか、『それでも地球は回っている』って。」
「…エリカさん、それは幾らなんでもまずいですよ。」
指摘したのはメルただ1人のみで、他の人は何も言わなかった。どうやら、聞かなかったことにしたようである。
同じ時刻、目的地に直行していたロベリアは、既に現地へ到着していた。見上げた遥か上方には、尖塔の先にミカエル像が輝いている。
それを見て、彼女の反骨心が刺激された。
「それにしても、司教に命じて聖堂を建てさせたり、ジヤンヌ・ダルクを唆したり、金ぴかの銅像になって飾られたり…。天使には性別が無いっていうけれど、ミカエルって天使はきっと、(※不適切な発言のため削除)で、若い娘に嫉妬する、お肌の曲がり角をむかえたオバサンなんだろうね!」
思い切り毒付いたロベリアの首筋を、生暖かい空気が通り過ぎた。
『ふふふっ、面白いことを言う子ね。』
その時に、顔立ちの整った、茶色い髪の女性の顔が見えたような気がする。しかも、その顔には聖母のような微笑が浮かんでいたけれど、その目は決して笑っていなかったような…。
「…疲れてるのかな。そういや、昼間は隣の連中がうるさくて、結局寝られなかったもんな。」
うそ寒そうに首をすくめると、彼女は下調べのため修道院へ歩き出した。
―「口は禍の門」。古今東西に通じるこの言葉の意味を、これからロベリアは身を持って知ることになる。
4
日が傾く頃、大神たちはモン・サン・ミシェルに到着した。
アヴランシュの街を出発した時から、それは地平の彼方にぽつんと姿を見せていた。目的地に近づくにつれて姿は大きくなり、対岸と島とを繋ぐ堤防の上を通って目の前にすると、その仰ぎ見る大聖堂に圧倒される。
その道中、初めてここを訪れた面々は、皆一様に同じ行動をとった。
ぽかんと口を開けて、ただただその姿に見入っていたのである。
小さい島の周囲を城壁が囲み、その裾野には所狭しと門前町の家々が立ち並んでいる。そして中腹から上には偉容を誇る大修道院が天空にそびえていた。
『これは…凄いとしか表現のしようがないな。『モン・サン・ミシェル(聖ミカエル山)』とは言い得て妙だ。』
馬車を降りながら、大神は内心で感嘆の声をあげた。資料には写真も付いていたが、本物とは比べるべくもない。
「あれ、でも少し崩れてるよ。壊れてるの?」
「修道院は、崩壊と建設の繰り返しなんです。正面の左上に見えるところ―今では西のテラスと呼ばれていますが―、18世紀に崩れるまでは、あそこも修道院の一部だったんですよ。」
コクリコにやさしく説明したメルの言葉をグリシーヌが継ぐ。
「それでも、このモン・サン・ミシェルが人類の宝であることに何ら変わりはない。だからこそ国は、ここを歴史記念物に指定したのだ。」
―この時代に「世界遺産」なるものは存在しない。第17回のユネスコ総会で「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択されるのは47年後の西暦1972年のことであり、「モン・サン・ミシェルとその湾」が登録されるのは、それから更に7年後の西暦1979年10月である。
なので、グリシーヌが言った「歴史記念物」とは、西暦1874年に仏蘭西国が独自に指定したものに他ならない―
「…あの、遺産がどうとかは後のことにして、とりあえず早く中に入っちゃいましょうよ。」
「そうですよぅ、お話は中でいくらでも出来るんですから。ほらぁ、早く入りましょうよぅ。」
エリカとシーは言うと同時に、グリシーヌの両脇を抱えて入り口となる前哨門へ走って行ってしまった。
「イチロー。グリシーヌ、何か叫んでたね…どんどん遠ざかっちゃったからよく聞こえなかったけど。」
「…早く行こうか。」
各自慌てて荷物を持っと、3人の後を追って、急いで前哨門をくぐるのだった。
「何だって?その話ホントかい?」
大神たちがモン・サン・ミシェルに到着するより少し前、下見のため見学ツアーに参加していたロベリアは、ガイドが言った何気ない一言を聞きとがめていた。
「はい、本日こちらにノルマンディー公爵家の方がいらっしゃるそうです。理由ですか?いや、私は何も聞いておりませんが。いえ、久し振りのはずですよ。少なくとも、ここ数年はどなたも来訪されていませんね。…ええと、それが何か?」
ガイドの問いを適当にごまかしながら、ロベリアは考え込んだ。
『ポントルソン駅前に停まっていた高そうな馬車、あれがそうだったのか。まあ、連中とここの関係を考えれば、別に来ること自体は不思議じゃない。問題は何で今なんだ?何年も来なかった奴らが、何で今頃になって―。』
聡明な彼女は事前の調査を怠らない。当然、ノルマンディー公爵家とモン・サン・ミシェルの関係を知っている。だからこそ、ロベリアはお宝の話を信じたのである。
だが、この時はその聡明さが邪魔をした。
偶然という選択肢を、ロベリアは初めから考慮外としてしまったのである。
『―となると、考えられる答えは二つ。アタシが探しているお宝か、それともアタシ自身か、それとも、両方か。…さてはジイさん、お宝惜しさに巴里市警へ駆け込んだかな。そして連絡を受けた公爵家がここに、か。なるほどね。』
独り納得した彼女は、なおも不思議そうな顔をしているガイドに言った。
「ああ、それはきっと、最近巴里を騒がせている怪人に関係があるね。恐らく、怪人の次の狙いがここなんだよ。怖いねぇ、早くここから避難しなくちゃね。」
ロベリアの言葉に、ツアー客を含めた近くの人々は騒然となった。その様子を見て、彼女は内心ほくそ笑む。
『とっさについたホラにしては、効果は上々だね。これで少しは混乱してくれたら、その分仕事がやりやすくなるんだけど。』
しかし、このとっさについた嘘によって、彼女が期待した以上の混乱が巻き起こることになるのである。
この聖なる島唯一の入り口である前哨門と、次にひかえる王の門の間にあるのが、一同の今夜の宿となるホテル「ラ・メール・プーラール」である。
「入り口に女の人の写真が飾ってあるよ。この人が、ラ・メール・プーラール(プーラールおばさん)なのかな?」
「そうですよ、コクリコさん。この方がアンネット・プーラール夫人です。60年以上前に大修道院が普通の人たちに公開されるようになって、たくさんの巡礼者の方が訪れるようになりました。長旅でお腹を空かせた人たちのために、手軽におなかが膨れる食べ物として極厚のオムレツを用意したのが、このプーラール夫人なんです。」
メルの解説に関心しきりの一同だったが、残念ながら若干名の例外が出た。
入り口から見られるようになっている厨房の様子を、硝子に張り付きながら眺めているエリカとシーを、グリシーヌが軽く小突く。
「何とはしたない真似を!早く宿泊の手続きを済ませるぞ。」
先程の仕返しなのか、二人の襟首を掴んで、引きずるようにホテルへと入っていった。
「イチロー。エリカとシー、何か叫んでたね…途中から中に入っちゃってよく聞こえなかったけど。」
「まあ、何を言ってるのか大体察しがつくけどね。さ、俺たちも入ろうか。」
残りの一同は荷物を抱えると、3人の後を追ってゆっくりと今夜の宿に入っていった。
1階がレストラン、そして2階より上がホテルとなっている「ラ・メール・プーラール」の最上階を貸しきった一同は、それぞれの部屋に荷物を下ろした。
ちなみに部屋割りは、「エリカ・コクリコ」「グリシーヌ・花火」「メル・シー」そして「大神」である。
腰を落ち着ける間もなく、エリカたちの部屋にシーが顔を出す。
「エリカさん、早くオムレツですよっ!巨大オムレツっ!」
「そうですね!どうにもオムレツですね!」
はたから聞いていると意味不明な会話を交わした二人は、あっという間に階下へ姿を消してしまった。
「…そうか、エリカとシーは名物料理を食べるためにここに来たんだな。」
同部屋のコクリコはひとり納得すると、自分も荷物を置いて大神の部屋に向かった。どうやらこの旅行中、彼女の居場所は彼の隣りと決めているらしい。
「では隊長、私たちは門前町を散策してくるが、もし任務の力になれるならいつでも協力するぞ。」
「ありがとう、グリシーヌ。でも、まあ大丈夫だよ。君の力を借りるまでも無い。気にしないで、花火くんを案内してあげて。俺たちは、予定通り修道院の見学をしてくるから。待ち合わせはレストランにしよう。」
そう言葉を交わすと、グリシーヌは花火を連れて、大神はメル、コクリコと一緒にホテルを後にした。
―こうして、わざわざ最上階を借り切った「ラ・メール・プーラール」だったが、一同の誰一人として、自分の部屋で一夜を過ごすことは無かったのである。
レストランに飛び込んだエリカとシーは、さっそく名物料理である巨大オムレツを注文した。
しかも、2人前である。
このオムレツ、名前に偽り無くとても大きい。大人の男性ならともかく、若い女性が2人なら1人前を半分にするべきだとギャルソンは提案したが、この2人は頑迷に拒否をした。
「大丈夫ですよぅ、絶対、食べられますからぁ。」
「そうですよ。何なら、4人分でもいいくらいです。」
ギャルソンは半信半疑だった。だが、彼女たちは見事期待に応え、彼の腰を抜かすことに成功する。
お皿からはみ出すくらい大きなオムレツに歓声を上げると、2人は猛然とそれを平らげてしまったのである。
「ふわふわして不思議な食感ですけど、中々美味しいですね。スフレと似てるかな?」
「そうですねぇ。それに、エリカさん見ましたか?すり鉢みたいな容器に入れてリズム良くかき混ぜて、それから長い柄を使って炭火のコンロで焼くんですよ。作り方は覚えましたから、今度シャノワールでも作ってみましょうね!」
「うわぁ、今から楽しみですぅ!楽しみと言えば、プレ・サレ(羊肉)の料理もこの地方の名物なんですよね!塩気を含んだ牧草を食べてるから、お肉にも潮の香りがするとか。もう今から夕食が楽しみですよ~!。」
それを聞いた先程のギャルソンは、一つ頭を振ると、他の給士の肩を叩いて出て行ってしまった。
彼はこの日、世界の広さを知ったのである―極めて限定的な世界だったが。
グリシーヌと花火は、グランド・リュ(大通り)沿いに並ぶレストランや土産物屋を冷やかしていた。
この通り、名称に反してとても狭い。もともと島自体が小さい上に、限られた空間には所狭しと建物が建っているので、必然的に道が狭くなってしまうのである。通りを走る人々から花火を守りながらグリシーヌは言った。
「どうだ、花火。巴里とはまた違う活気がある所だろう。ほら、あのミカエル様の像など土産にしてはどうだ?」
グリシーヌは花火をあちこちの店に案内した。だが、当の花火は別のことが気になっている。
「…ねえ、グリシーヌ。何だか様子がおかしくないかしら。荷物を抱えて島の出口に向かう人がいるみたいだけれど。」
言われてから改めて辺りを見回すと、確かに必死の形相でグランド・リュを駆け下りている人が何人もいる。とりあえず、近くを通りかかった中年の男性に事情を問うと、返ってきた答えは衝撃的だった。
「ああ、何でも巴里に現れた怪人が、恐れ多くもこのモン・サン・ミシェルを襲うらしい!島にいる人間を全員捕まえて、奴らの手先にするつもりなんだとさ。それを聞いて、一刻でも早くここから避難しようとしているんだ!」
言うと同時に、彼は一目散に出口へと走り去った。
「…どうしましょう、グリシーヌ。とりあえず、一度ホテルに戻って荷物をまとめて…って、どうしたの、グリシーヌ?」
「そういうことか!花火、隊長がグラン・マから受けた任務とはこれのことだ!」
「―?」
「つまり、グラン・マはここに怪人が現れるという情報を得て、隊長をここに派遣したのだ。」
「…でも、それなら何故大神さんは、同じ仲間のあなたや皆さんにそのことを伝えないの?」
「それはきっと、休暇中の我らに余計な心配をさせたくなかったのだろう。まったく、隊長らしいな。だが、そうと分かった以上は私も協力させてもらう!」
決意したグリシーヌは、花火の静止も聞かず、辺りに聞こえるよう大声で言った。
「私はノルマンディー公爵家の血を引くグリシーヌ・ブルーメールである!もうすぐここに怪人が現れる!戦闘に巻き込まれないよう、島民は速やかに避難するのだ!」
一瞬の静寂が訪れた後、辺りは更に騒然となった。
大神とコクリコ、そしてメルは、眺めの良い修道院の西のテラスにいた。眼下には美しい湾が広がっている。
「うわぁ、凄い景色だね、イチロー!」
「ああ、ここまで急な階段を登ってきた甲斐があるよ。…大丈夫かい、メルくん。」
平気な顔をしている2人とは異なり、メルは肩で息をしていた。ここに到るまで急な勾配のグランド・リュを通り、更に修道院内にある大階段を上がってきたのである。90段とはいえ、その急勾配振りは彼女を疲労させるのに充分だった。
「…はい、ご心配をおかけしてすみません。巡礼者の方の苦労が少し分かりました。それにしても、お2人はよく平気ですね。」
そう言ったメルだが、よく考えたら大神は軍人だし、コクリコはサーカスにシャノワールにと毎日走り回っている。事務仕事が主な彼女とは、基本的に体力が違うのである。
「ごめん、こんなことにつき合わせてしまって。でも、メルくんがいないとモン・サン・、モシェルのことがよく分からなくて。」
「いえ、私の知識が少しでもお役に立てれば嬉しいです。それに、シーと一緒に行ったらきっと大変なことに―あっ、すみません!」
メルは顔を真っ赤にしてうつむいた。大神が差し出した手を握っていたのに気が付いたのだ。
それを見ていたコクリコが、急に大神の手を引いた。
「早く行くよ、イチロー!係りの人に無理言って、中を見学させてもらってるんだからね。」
頬を膨らませたコクリコに引きずられるようにして、大神は聖堂へ向かった。その後を、こちらは頬を染めたメルが続く。
『ふふっ、相変わらずね、大神くん。』
「…今、何か言ったかい?」
「ううん、何も言わないよ。もう、ボーッとしてるんじゃないの、イチローってば。」
何か聞こえたような気がした大神だったが、何故か機嫌の悪いコクリコに言われて気のせいということにした。
正確に言うと、そういうことにしたかったのである。
西のテラスから聖堂に入った一同の目に飛び込んできたのは、整然と組まれた石の壁でできた身廊と、その奥に位置する、祭壇のある内陣だった。飾り気は無いが、辺りは荘厳な雰囲気に包まれている。
「凄いけど…何か、思っていたような感じと違うね。もっと、この前行ったグリシーヌの家みたいに豪華なものだと思った。それにほら、天井は木で出来てるよ!」
「ベネディクト派は、厳格敬虔な宗派ですから、必要以上に装飾を施したりはしないんですよ。それに、船底型の天井が全て木張りなのは、重量を軽減するための設計上の工夫なんです。」
そのメルの解説を聞いているのは、大神とコクリコの2人だけだった。実は、本来の見学時間はとうに過ぎているのだが、グリシーヌが事前に連絡を入れてくれたおかげで、今回特別に見学許可が下りていたのだ。そのため、現在修道院にいるのはこの3人だけである。
聖堂を後にした大神たちは、修道院の南西にある壁面部分を訪れた。そこには穴が空いており、島に入る時に通った堤防や門前町がよく見える。そこから城壁を見下ろすと、遥か下方まで石梯子が続いている。
「メルくん、ここはなんだい?下で見た時から気になってたんだけど。」
「ここは『プラウン』と呼ばれる、荷物の積み下ろし装置があったところです。その、後ろに復元されている木製の大車輪の中に人か入って、まるでハツカネズミのように歩いて輪を回し、綱を巻き上げる仕組みだったようです。」
「ねえ、メル。それって大変そうだけど、誰の仕事だったの?」
「…囚人の、ですね。5,6人の囚人で、約2トンもの荷物を引き上げていたと言われています。」
「それって変じゃない?ここは修道院だったんでしょ。何で囚人さんがいたの?」
「それは、昔ここが監獄だったからなんですよ。」
メルの説明通り、この修道院はほんの半世紀前まで監獄として使用されていた。より正確を期するなら、ここはその他にも要塞として使用された歴史さえあるのだ。
オーベル司教が最初の聖堂を建ててから700年程は、一時の例外はあったにせよ、このモン・サン・ミシェルは修道院として機能していた。
ところが、14世紀に英仏百年戦争が起こると、修道院は閉鎖され、ここは仏蘭西国の城塞として利用されるのである。英国を目の前に見る重要な位置にあったが、干満の差と潮流の激しさが守る天然の要塞として、遂に一度も陥落することはなかった。
16世紀には修道院として復活したが、18世紀に起こった仏蘭西革命後には、政治犯などを収容する監獄に転用されてしまった。西暦1863年、ヴィクトル・ユゴーやモーパッサンらの努力が実り、ナポレオン3世の勅命により閉鎖されるまで、ここは「海のバスチーユ」と恐れられたのである。
なお、現在でもモン・サン・ミシェルは修道院に戻ったとは言えない。ここにベネディクト派の修道士たちが帰ってくるのは、今から41年後の西暦1966年のことになる。
その時、大神はメルの説明よりも、プラウンに使用されていた石梯子の方に注意を向けていた。
『ここからなら、夜中に侵入できそうだな…。』
大神が修道院を見学している理由の一つが、正にこれだった。
皆に内緒で聖遺物を探すため、彼は夜中に修道院へ侵入するつもりなのである。そのために、事前の内部構造調査と、侵入経路の確保を見学の真の目的としていた。
ところが、その計画は途上で見事に頓挫してしまう。
1人の男性が、血相を変えて大神たちのもとへ飛んで来た。彼は、特別に見学を許可してくれた係りの人だった。
「こ、こちらにいらっしゃったのですか!大変です、すぐに避難して下さい。この島に怪人が現れたということです!」
「何ですって!?」
大神は石壁に開いた穴から外を見た。すでに太陽は姿を隠し、空は茜色に染まっている。
混乱の夜は、まさに目前だった。
5
前哨門の前に、グリシーヌと花火の姿があった。辺りは薄暗くなっているが、まだ暗闇というほどではない。
「…グリシーヌ、島民の皆さんの避難は終わったわ。残っているのは、修道院の係りの方だけのはずよ。それと、エリカさんとシャノワールの秘書さん、無事に避難されたのかしら?」
「先程ホテルのレストランを覗いた時には姿が見えなかった。恐らくホテルの客や給士を連れて、島の外に避難したのだろう。花火も、早く避難した方がいい。」
「いいえ、グリシーヌ。私はここにいるわ。あなたの傍が、一番安全だと思うから。」
そう言われたグリシーヌは、花火をもっと安心させようと思った。愛用の戦斧を掲げる。
「何、いざとなればこの堤防を破壊して、昔のようにこの島を湾に孤立させる。そして私たち巴里華撃団花組が正々堂々と戦い、そして勝利を得よう!霊子甲冑が無くとも負けはしない。このように、私の戦斧もあるしな。」
そう言いつつ、何気なく戦斧を堤防に振り下ろした。
すると、突然の大爆発が起こり、対岸と島を繋いでいた堤防が、ものの見事に破壊されてしまったのである。
吹き飛ばされたグリシーヌの耳に、花火の声が届いた。
「…グリシーヌ、これはやりすぎではないかしら?幾ら何でも本当に壊してしまうなんて…。どうしたの、グリシーヌ?」
「しまった!花火、怪人はすでに現れていたのだ!」
「―?」
「つまり、これは怪人の破壊工作なのだ!陸から援軍が来られないよう、堤防を破壊したに違いない。怪人め、何と大胆なことを!」
花火は、いろいろと言いたい事があったが黙っていた。
『…グリシーヌがこう言っているのだから、親友である私が信じてあげなくては。例え、その内容がどれほど怪しかったり、或いは責任転換に聞こえたって…。』
親友の心のうちを知ってか知らずか、グリシーヌは声に力を込める。
「さあ、怪人を探しに行くぞ!まだこの近くにいるはずだ!」
そう言うと、2人は海岸沿いを走って行った。
その頃、もう1人爆発で吹き飛ばされた人が、堤防近くの城壁上でひっくり返っていた。
「一体、何が起こったんだ?」
つぶやきながら身を起こしたのは、今まで城壁の上に身を潜めていたロベリアだった。
彼女は噂を流した直後から、この城壁の上で様子を伺っていた―つもりだったが、やはり寝不足がこたえたのか、少しの間うとうとと居眠りをしてしまった。気が付いたら、自分が想像していた以上の結果になっていたのである。
『これで、この堤防が無くなれば、公が島に入れなくなって完璧なんだけどねえ。』
そう思い、何気なく堤防に向かって、彼女の霊力である炎をぶつけただけなのに、思っても見ない大爆発が起こったのだ。
「ちっ!もしかしたら、公が既に来ているのか?それなら、悠長に構えてられないね。」
危機感を募らせたロベリアは、予定を早めて城壁の上を修道院へ向かった。
―つまり、お互いを全く意識していなかったが、グリシーヌとロベリアの間で偶然に協力攻撃が発動してしまったのである。
グランド・リュを駆け下りてきた大神たちが見たものは、無人となった門前町と、無残に破壊された堤防だった。
『これは破壊活動!?まさか、本当に怪人が現れたのか?レストランにも皆の姿は見えなかったけれど、島民と一緒に脱出したのだろうか。…それにしても、何故巴里ではなくこの場所に。』
そう考えた大神だが、この時は一つしか答えを思いつかなかった。
『「聖遺物」が目的、か。確かに、葵叉丹や京極慶吾は魔神器を狙っていた。怪人が「聖遺物」を狙うことは十二分に考えられる。そうなると、一刻も早くこちらが「聖遺物」を発見し、そして確保しなければ!』
決意した大神は、先ず一緒にここまで来た係りの人を島の外に脱出させた。堤防は壊れているが、幸いにも今は引き潮なので、干潟状になった海を歩いて渡ることが出来る。正直、日が暮れた現在、滑りやすい干潟上を歩くのは危険を伴うが、それでも島内に留まるよりは安全なはずだった。
次に、彼は先程までいた修道院の壁面を見つめた。コクリコとメルに言葉をかける。
「メルくん、コクリコ、今からあの石梯子を登って、修道院に潜入する。2人にも協力してほしいんだ。」
大神たちが石梯子の下にある荷場に向かった正にその時、「ラ・メール・プーラール」のレストランに、エリカとシーが再び姿を現した。
「お手洗いに行くの、すっかり忘れちゃってましたね。」
「よく考えたら、巴里にいた時から行ってなかったんですよ。すっかりオムレツに夢中でしたから…ってあら?エリカさん、他のお客さんがいないですよ。」
「あれ、そう言われるとそうですね。ま、いいじゃないですか!きっと、グリシーヌさんが貸し切っちゃったんですよ。」
「ああ、なるほどぉ!でも給士さんもいませんねぇ…。そうだ!エリカさん、今のうちに、こっそりと巨大オムレツを作ってみましょうよ。」
「え、いいんですか?それじゃあちょっと、聞いてみましょうか。もしもーし、厨房を使っていいですか~?…返事がありませんね。それじゃ、オッケーということで!シーさん、早速作りましょう!」
2人は張り切って準備を整えると、張り切って調理に取り掛かった。特に、エリカは張り切っていた。
―それからしばらくの後、「ラ・メール・プーラール」のレストランは爆発した。
6
「ラ・メール・プーラール」で起こった爆発は、狭い島内の各所で確認された。
聖堂の東側外壁である通称「控え壁」を登っているロベリアは、門前町の爆発を見てひとりごちた。
「ちっ、容赦なしってか。こりゃサッサと片付けて、サッサとずらかったほうがいいね。」
島の北西端、砂地に近い岩に建つ「サント・オーベル礼拝堂」の入り口で花火は叫んだ。
「グリシーヌ!町の方から煙が上がっているわ!」
その声に、礼拝堂の地下から、グリシーヌがほこりだらけの顔を出す。
「しまった、怪人は町に潜んでいたのか!花火、急いで戻るぞ!」
ロープを使いながら石梯子を登っている大神とメルに、先に到着していたコクリコが声を上げた。
「イチロー!町で爆発が起こったよ!ボクたちが泊まるホテルの辺りみたい!」
『くっ、また破壊活動か!しかし今は、怪人よりも早く「聖遺物」を見付けないと。』
「てへへ、またやっちゃいました…。」
「もうっ、炭火のコンロなのに何で爆発するんですか!」
がれきの山と化したレストランの中で、真っ黒な顔の2人が頭を出した。
「レストラン、めちゃくちゃになっちゃいましたね…。後でお店の人たちに謝らないと。」
エリカの言葉が耳に入ったシーは、急に顔色を変えた―もっとも、炭の汚れでよく分からなかったが。
「逃げましょう、エリカさん!」
「え?だって、ちゃんと謝らないと駄目ですよ。」
「何言ってるんですか、このままだとメルやグラン・マに怒られちゃいますよ!罰として、きっとしばらくの間おやつ抜きの刑ですよ!」
「逃げましょうシーさん!地の果てまでも!」
廃墟の中から食べられそうなお菓子類と、飲み物のビンを掘り出したエリカとシーは、手に手をとって逃亡した。
ところが、今の2人にとって「地の果て」はとても近かった。
彼女たちが目にしたのは、暗闇の中に途切れる堤防の姿である。
「…道がないですねぇ。」
「…すっかり無くなっちゃってますね。」
一瞬呆然としていたが、逃亡者にそんな余裕があるはずもなく、出られないのならばその逆という発想からか、2人は今来た道を引き返した。目指すは「この道の果て」である。
グランド・リュを駆け抜け、大階段を駆け上がり、聖堂の入り口に手を掛ける。
「あら?鍵がかかってませんよ。何とも無用心ですねぇ。」
大神たちを呼びに来た係りの男性が、ここを出る時にすっかり鍵を掛け忘れたのだが、そうとは知らないエリカたちは、堂々と正面入り口から修道院に潜入した。
現在建っている大聖堂の下には、4つの地下礼拝堂が存在する。
そもそもは8世紀初めに最初の聖堂が山の西斜面に建てられたのだが、限られた場所を有効に使うため、古い聖堂の上に次々と新しい聖堂が建てられたのである。
その中の一つ、最も古いノートル・ダム・スー・テル聖堂にロベリアが姿を現した。
「情報通りなら、ここの下だ。」
つぶやきながら、ランタンの明かりを頼りに、石畳を丁寧に調べる。
「…音が違う。この辺りだな。」
ロベリアは、ナイフを使って石畳を一つずつ剥ぎ取る。
すると突然、石畳の下に空間が現れた。
一つ口笛を吹くと、ロベリアは小さく開いた穴から中に入り込む。
明かりで照らされた内部は、淀んだ古い空気が溜まった石造りの粗末な空間だった。
「さあて、どんなお宝なのかね…って、あれ?」
彼女の期待に反して、こぢんまりとした祭壇の他には、特に金目になりそうな物は何も無い。
「これは一体どういうことだ?アタシより先に人が入った形跡は無いのに、肝心要のお宝が何処にも無いなんて。」
腕を組んで彼女は考えた。すると、突然頭に雷光が走る。
「まさか!ここがオーベル司教が建てたと言う最初の聖堂じゃないだろうな!」
改めて辺りを見回してから、ロベリアは頭を抱えた。
「何てこった…。そりゃあ、基督教から見たら大変な『お宝』かもしれないが、アタシにとってはどうでもいいもんじゃないか。」
彼女はため息をついて空を見上げる。すると、外に人が近づいてくる気配を感じた。
ロベリアは舌打ちと共に急いで穴から抜け出すと、ランタンの明かりを消して闇に紛れ込んだ。
辺りをうかがいながら、拝借したロウソクの明かりと共に聖堂へ入ってきたのは、大神一郎とコクリコだった。
修道院内を探索している途中に人の気配がしたので、メルを安全そうな所で待たせて、2人で様子を見に来たのである。
「…誰もいない。気のせいだったかな。」
「あ、イチロー、これ見て!床に穴が空いてる。これじゃ危ないから、元に戻しておこうよ。」
うなずいた大神と一緒に、コクリコは脇に積み上げられた石畳を丁寧に戻し始めた。
ここで、2人とも根が真面目だったことが禍してしまう。
徹底的に、それこそ、ロベリアが空けた時以上に丁寧に塞いでしまったのである。
大神とコクリコは、顔を見合わせると満足気に笑ったが、その結果として、聖オーベルの小聖堂は36年後の西暦1960年まで「発見」されることはなかった。
軽い達成感に浸っていた2人の元に、メルがやって来た。
「…怪人はいましたか?」
「いや、誰もいなかったよ。勘違いだったみたいだ。それより、何かあったのかい?」
「はい、大神さんたちを待っていたとき、何処かで、シーとエリカさんの声が聞こえたような気がするんです。」
「あの二人の声が?島の外に避難したはずだけど…姿は見たのかい?」
「姿は見ませんでした。ですが、確かにシーとエリカさんの声だと思うのです。」
大神はしばし考えると、とりあえず次善の策を選択した。
「聖堂の探索を続けよう。もし修道院の中にいるのなら、途中で見付かるはずだ。」
大神が探索を再開したころ、エリカとシーはモン・サン・ミシェルの北面に建つ「ラ・メルヴェイユ」最上階にある食堂でご飯を食べていた。
ヴィクトル・ユゴーが「世界一美しい壁」と称えた「ラ・メルヴェイユ(奇跡)」と呼ばれるゴシック建築の建物は、修道院の大部分を占めている。
ちなみに、修道士の食事というのは沈黙のうちに行われ、この食堂には神をたたえる歌声だけが響きわたったらしい。だが―
「ねえねえ、エリカさん!このガレットすっごく美味しいですよ!」
「こちらのクッキーも最高です~っ!」
今、食堂には喜びの声が響き渡っていた。
「…ところで、勢いで持ってきちゃいましたけど、この飲み物シードルでしたねぇ。お酒ですよ。」
「まあまあ、少しくらいなら神様だってお許し下さいますよ。それに、他に飲み物もありませんし。もしも食べ物がのどに詰まったりしたら、そちらの方が大事ですからね。では、カンパーイ!」
2人はシードルのビンで乾杯すると、コップもないのでそのまま飲み始めた。
―朝日が昇ろうかという頃になって、大神、メル、コクリコと、グリシーヌ、花火が西のテラスで合流した。先日別れて以来の再会である。
そこで一同が目にしたものは、尖塔の頂にあるミカエルの像の上で、まるで酔っ払っているかのように大騒ぎをしているエリカとシーの姿だった。
7
天を仰いで、先日からの行動を思い返している大神一郎の目に、突然空を舞う白い羽が映った。そして、その次に目に入ったのは、羽が生えた美しい女性の姿である。
中世の宗教画家ならば、きっと感動の余り卒倒するであろう場面だったが、当の大神は別の意味で卒倒しそうだった。普段ならともかく、今この瞬間には一番会いたくない相手である。
『―久し振りね、大神くん。』
「あ、あやめさん…あの、何と言うか、その…お元気そうでなによりです。」
とんちんかんな挨拶をした大神に、あやめと呼ばれた天使は聖母の微笑みで答えた。
『ふふっ、相変わらずなのね、大神くんは。』
その言葉に、一瞬辺りは数年前の雰囲気に戻った―が、次の一言が、大神を厳しい現実に引き戻す。
『ところで、あの尖塔の頂で騒いでいるのは、こちらの華撃団の子なの?』
天使の表情は微動だにしていないのに、大神は戦慄を覚えた。
『…少し、感心しないわね。騒ぐにしても、時と場所を考えないといけないわ。』
あやめと呼ばれた天使は、その右手をゆっくりと大神の額へと伸ばす。
『しっかりしなさい、お・お・が・み・く・ん。』
人差し指が額に触れる直前、大神は絶叫した。
「イチロー、しっかりして!どうしたの、急に叫んだりして。」
気が付くと、皆が心配そうな顔で大神を見つめていた。
『今のは、幻覚か?あやめさんの姿は見えないけれど…。』
脅えたように辺りを見回している大神に、グリシーヌが一同を代表して声をかける。
「大丈夫か?もしや、貴公も怪人の精神攻撃を受けているのではあるまいな。」
その言葉に、大神一郎は現状を再認識した。
見上げた先には、大騒ぎを続けているエリカとシーが小さく見える。
『恐らく、サキさん―いや、黒鬼会の水狐―がレニにしたように、あの2人も催眠術で怪人に操られているに違いない。』
そう大神は思った。今、最優先するべき事項は一つである。
「…エリカくんとシーくんを助けに行こう。皆、俺に力を貸してくれ。」
瞳に光が戻った隊長の言葉に、一同は力強くうなずいた。これこそ、巴里華撃団花組隊長の本来の姿であると。
だが、そのうなずいている人数が1人―頭の上に輪が浮いているので「人」ではないかもしれないが―増えていたことに、気が付いた者は誰もいなかった。
大神一郎は班編成を発表した。
尖塔の頂を目指すアタック隊に大神・グリシーヌ・コクリコ、西のテラスをベースキャンプとするバックアップ隊に花火・メルである。
装備はロープのみという貧弱さだったが、後はコクリコ隊員の技術と各々の体力で補うことにして、アタック隊は早速目の前にそびえる断崖絶壁―文字通り壁だが―に挑み始めた。
先ずは聖堂正面の壁を身軽なコクリコ隊員が登り、その後はロープを使って大神隊長とグリシーヌ隊員が続く。そして身廊の屋根を走り、無事尖塔の下にとりつくことが出来た。
しかし、アタック隊を困難が襲うのは正にこれからだった。
何と、救出するべき対象からの攻撃が始まったのである。
「カプリス元帥閣下、足元にフホウシンニュウシャを発見しましたっ!」
「うむっ!ただちにゲイゲキしれくれたまえ、フォンティーヌ司令長官。」
国王兼元帥からの命令により、もう1人の国王兼司令長官はただちに行動を開始した。
「…イチロー!エリカが空ビンを落としてきたよ!」
その様子はベースキャンプからも確認された。慌てるメルとは対照的に、花火はのんびりとした口調でつぶやく。
「まあ、いくらグリシーヌでも、あれに当たったら一大事ね…。」
『…グリシーヌさまのお友達って、少しズレてるのかしら?それとも、徹夜明けで感性が鈍っているだけなのかも…。』
メルは疑いの視線を花火に向けたが、その一見超然とした表情からは、何もうかがい知ることができなかった。
コクリコ隊員は連合王国軍の攻撃を巧みに回避すると、尖塔の中間に位置するテラスへと到達した。そしてロープを垂らし、大神隊長とグリシーヌ隊員の支援を開始する。
だがここで、初めてアタック隊に被害が発生した。
大神隊長は無事にテラスまでたどり着いたが、グリシーヌ隊員にクッキーの空缶がかすったのである。その弾みで、隊員の腰にくくり付けていた袋が外れて落下してしまった。それは屋根を転がり聖堂を越え、更に門前町へと転がって行く。
「グリシーヌ、何か落ちたぞ!」
「ん?ああ、あれは昨夜、島の外れにある礼拝堂の地下で見つけたのだが、少々気味の悪いものでな。とりあえず持って帰り、然るべき所へ納めようと思っていたのだが―まあ、落ちてしまったのならば仕方が無い。無理に追おうと思わせるような物ではなかったしな。」
ちょうどその頃、城壁上のロベリアは、すでに聖堂の騒動には注意を払っていなかった。
現在彼女が関心を向けているのは、どのようにしてここから無事に脱出し、そして巴里に戻るかである。
現在の時刻は満ち潮の頃であるため、このモン・サン・ミシェルは海の孤島と化していたのだ。
モン・サン・ミシェルを取りまく湾の潮の干満差は約12mにもおよぶ。これは欧州で最大級の潮位差と言われており、その満ちてくる潮の速さは、古くから馬の早足にたとえられた。
かつては、この潮の満ち干により、何人もの巡礼者が命を落としていた。陸から堤防づたいに、島に渡れるようになったのは、48年前の西暦1879年のことであるが、それも昨夜のノルマンディー公爵家の手による―とロベリアは思っている―攻撃により、半世紀前の姿へと戻っていたのである。
『砂州を真っ暗闇の中歩いて渡るのは自殺行為だ。それに、堤防を破壊したくらいだから、きっと対岸には公の手の者が待機しているに違いない。そんなところに明かりを手に歩いていたら、捕まえて下さいと言っている様なものだ。となると、明日の朝、潮が引くまで身を潜めていた方が賢明だね。』
そう考えたロベリアは、修道院から脱出した後、この城壁の上で身を潜めていたのである。
だが、ここで思いも寄らない物が彼女を襲う。
城壁から身を乗り出して、外の様子を観察していたロベリアの後頭部に、はるばる聖堂から民家の屋根をへて転がってきたグリシーヌの荷物が直撃したのである。
カポン、という妙に軽い衝突音と共に、ロベリアは前転の要領で城壁から湾へと落下していった。
「な、何事だ!?一体何か起こっガボガボガブッ…!」
『ふふふ…これぞ「天罰」ね。』
そんな声が何処からか聞こえたような気もしたが、そんなことを気にしている余裕は、今の彼女には全く無かった。
恐ろしく早い潮の流れに呑み込まれたロベリアは、彼女が望んだものとは異なる形ではあったが、モン・サン・ミシェルからの脱出を果たしたのである―端から見て、とても「無事に」とは見えなかったが。
不幸なロベリアが舞台から退場した頃、喜劇はまさに最高潮に達しようとしていた。
テラスから頂上へ向けて最後のアタックを敢行しようと、身体にロープを巻きつけていた大神隊長の耳に、上方から不気味な音が聞こえてくる。
身を乗り出して、これから目指そうとしている頂を見上げると、本来動いてはいけないものー尖塔の頂に立つミカエルの像―が、まさに前のめりに倒れる瞬間だった。
やはり、不安定な場所で散々暴れ回っていたのがいけなかったらしい。
大神の目の前を2人と1体が通過した瞬間、彼は無意識のうちにテラスから身を躍らせた。
「凄い!イチローが尖塔の壁を走り降りてるよ!」
壁を走り、空を泳いで、2人と1体にどうにか近寄ろうとするが、後もう少しの所で大神の手が届かない。
『くそっ、もうちょっとなのに!』
平泳ぎの要領で更なる接近を試みたその時、突然エリカとシーの落ちる速度が緩くなった。慌てて2人を抱きかかえるその向こうに、羽を広げたあやめの姿が一瞬見えたような気がする。
「あやめさん…エリカくんとシーくんを助けてくれて―ってあやめさあああああん!!」
2人は無事に助けることが出来た。しかし、全長4.2mもの銅像までどうにか出来る筈も無く、黄金のミカエル像は重力に引かれて屋根を突き破り、身廊の石床へと落下していった。
早朝のモン・サン・ミシェルに、身体に響く低い轟音が鳴り響く。
大神は恐る恐る屋根に空いた穴から中をのぞくと、そこに見えたのは、粉々になって散らばる「つい先程まで銅像だったもの」の姿だった。
ロープにぶら下がり、2人を両脇に抱えたまま、大神一郎は器用に気絶した。
気が付くと、大神は西のテラスに横たわっていた。横を向くと、エリカとシーも横になっている。
「…大丈夫?イチロー。」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ、コクリコ。ところでメルくん、今の状況は?」
「はい、シーとエリカさんは気を失っていますが、命に別状は無いようです。時々苦しそうにすることもありますけれど、見たところ怪我もしていません。辺りに怪人の姿は見当たりませんね。まるで、何事も無かったかのように静かです。でも…。」
メルが見上げた尖塔の頂に、黄金のミカエル像の姿は見当たらない。そこで全てを思い出した大神の顔から血の気が引く。
「撤退しよう!今すぐに、このモン・サン・ミシェルから脱出するんだ。」
その言葉に、いつもならば即反対するであろうグリシーヌが同意した。
「冷静に分析すると、我らの置かれた状況は極めて不利だ。見てのとおり、病人が2名もいるのだからな。…かわいそうに、今も苦しそうにうめき声を上げているではないか。」
「…ぼくには、二日酔いで気持ち悪がっているようにしか見えないんだけどなあ。」
コクリコは素直にそう言ったが、撤退することには反対しなかった。どうもここにいると、イチローの様子がおかしくなるからだ。
結局、全員一致で脱出する事が決まった。大神がエリカを、グリシーヌがシーを背負う。
「…ところで貴公、任務の件は良いのか?」
「ああ、任務より大事なものがあるからね。」
それを聞いて、内心グリシーヌは感動した。
『怪人撃退より、我らの方が大事か。さすが私が見込んだ男だ!』
だが、彼の内心は、残念ながら彼女の期待に反していた。
『聖遺物の探索より、あやめさんのデコツンから逃れる方が大事だ!』
大神とグリシーヌは笑顔を交し合った。お互いの笑顔の意味は見事にずれていたが、それにより誰も不幸にならなかったのは幸いである。
半壊した「ラ・メール・プーラール」から荷物を回収した一同は、ようやく前哨門まで戻ってきた。
目の前には、昨日ここへ来る時に渡った堤防の代わりに、満ちてくる海が対岸と島とを隔てている。
しかし、一同は破壊された堤防を見ていない。その代わりに見ていたのは、島へと近づいてくる救助艇の影だった。
先日以来の混乱を伝え聞いた軍が、ようやく到着したのである。
その救助艇が島にたどり着くと同時に、グリシーヌは一歩前に踏み出した。
「皆の者、ご苦労であった!私がノルマンディー貴族のグリシーヌ・ブルーメールである!堤防や町を破壊した怪人はまだこの島内にいるかもしれないので徹底的に探索せよ!それから、当方には病人が二人いる。急ぎ対岸まで我々を運んでくれ!」
堂々と言い切ったグリシーヌに、到着した兵士はもちろん、大神たちも圧倒された―ただ1人、花火だけは何か言いたそうではあったが。
こうして、大神たちはモン・サン・ミシェルを後にしたのである。その滞在期間は、結局1日にも満たなかった。
大神たちが島からの脱出を果たした頃、ロベリアはどうにかすぐ近くにあるトンブレンヌ島にたどり着いていた。疲労困憊の様子で、しばらくの間は砂浜から起き上がることすら出来ない。
「こ、今度ばかりは駄目かと思ったよ…。こいつのおかげだね。」
ロベリアは右手に持った袋を引き寄せた。とっさに掴んだこれが、わずかながらも浮き袋の代わりとなったのである。
「ところで、これはいったい何だ?」
ようやく身体を起こすと、頭に付いた海草もそのままに、手に持った袋を開けてみる。
「…。」
彼女が目の前に掲げたそれは、古ぼけた、額の部分に傷が付いている頭蓋骨だった。
しばしの間、ほうけたようにそのままの姿勢だったロベリアだったが、おもむろに立ち上がると、その頭蓋骨を海に向かって思い切り蹴り飛ばした。きれいな放物線を描いた骨は、遥か彼方の波間に消える。
「まったく、酷い目にあったよ!骨折り損のくたびれ儲けとはこのことだ。やっぱりアタシは、大天使さまとは相性が良くないようだね。さっさと巴里に戻って、これまでの損を取り返してやる!。」
空に向かって叫んだロベリアだったが、自分の後ろで微笑んでいる天使の姿は見えていなかった。
彼女を襲う不幸は、これからが本番である。
8
事件から数日が経過した巴里。
モンマルトルにあるテアトル・シャノワールの支配人室には、グラン・マと大神一郎の姿があった。彼女の手元には、大神が作成した報告書の束が握られている。
「―すると、島には既に怪人の姿は無かったんだね。」
「はい。軍や警察が徹底的に調べたそうですが、結局怪人は見付からなかったそうです。そして、目的の聖遺物もですが…。」
「或いは、既に怪人の手に渡ってしまったのか―困った事になったね、ムッシュ。」
グラン・マは椅子に深く座りなおすと、小さなため息を一つついた。
「まあ、済んだことは仕方が無い。それよりも、これからのことが重要だ。この報告書を受けておエライさんたちと会議があってね。大神隊長、花組を作戦司令室に集めてくれないかい。」
大神が退室してから、支配人は報告書に代わって新聞に手を伸ばした。その見出しには大きな文字が躍っている。
『「巴里の悪魔」ロベリア・カルリーニ遂に逮捕!』
『運に見放された?らしくない失敗の連続』
その大見出しから随分と離れたところにある小見出しには、小さな文字がひっそりとたたずんでいた。
『怪情報!謎の紳士「鳩仮面」現る?ロベリア逮捕に貢献か?』
グラン・マは黙ってその見出し部分をちぎり捨てると、何事も無かったようにメルがいれたコーヒーの香りを楽しんだ。
修繕が済んだ厨房に、エリカとシーの歓声が響いた。
シーが、「ラ・メール・プーラール」名物の極厚オムレツを完成させたのである。
ちなみに、今回エリカはシーからの強い要望により、彼女の後ろで応援するに止めていた。
「なかなか上手く出来ましたねぇ!」
「味も最っ高です!これなら、モン・サン・ミシェルにお店が出せますよ!」
「いや、それを目標としている訳では…。と、ところで、頭が少しフラフラするのは直ったんですか?」
「それが、まだフラフラするんですよ。変ですねぇ、二日酔いはとっくに治ったはずなんですけど。」
「エリカさん、シーッ!それは秘密ですよぅ。何だか分からないですけど、話は上手くまとまったみたいなんですからぁ。」
島から脱出した後、エリカとシーが気付くと、何故か「怪人に操られた被害者」という立場になっていたのである。これ幸いと、適当に口うらを合わせてことなきを得た2人だった。
そこにメルが入ってきた。大神に頼まれて、二人を探していたのである。
「やっぱりここにいたのね。2人とも、作戦司令室に集合よ。」
巨大オムレツを平らげたお皿もそのままに、一同は慌ててエレベーターに向かった。そのエリカの頭上に、誰にも見えていないが、1人の天使がしゃがんでいる。
『ま、しばらく巴里にいるのも悪くないわね。大神くんの様子も近くで見られるし。それに、不思議とこの子の傍って居心地がいいのよね。』
天使の微笑みを浮かべながらつぶやいたあやめだったが、なぜかエリカの頭から動こうとはしなかった。
やはり、散々頭を踏まれたことを根に持っていたようである。
サンテ刑務所地下特別牢獄。
光も差さない円筒形の穴の底で、拘束衣を着せられたロベリアは不機嫌の極みにあった。
「…あの島に行ってから、不愉快なことばかり起きる。」
実際、彼女が巴里に戻ってからも、不運は続いていた。
道を歩けば物が落ちてくる、何も無いところで転ぶ、カジノへ行けば連戦連敗、行きつけのバーはマスターの具合が悪いと連日休店。
それではと、貴族の屋敷に盗みに入ったら、屋根の上で覆面を被った怪しい男と鉢合わせである。
「君に恨みはないが、巴里と私の平和のために捕まってもらおう。」
背後にたくさんの鳩を従えた怪人に臆したわけではなかったが、何故か足を滑らせて転落し、その場で市警に捕らえられるという体たらく振りだった。
文字通り神懸っているような不運振りだったが、まさか本当に神様が関係していたことを、彼女は知る由もない。
実は、ロベリアの不運はこれで打ち止めだった。
もうしばらくの後、この特別牢獄に、今まで彼女を不幸にした大天使を頭にのせた、これから彼女を幸福にする少女がやってくるのである。
ロベリアの口の悪さが、自身の不幸を招くと同時に、結果として占星術師の占い通り、彼女の巴里華撃団花組入隊と、あやめの「エリカ憑き」という新たな力を呼ぶことになったのである。
まさに、「口は禍の門」ならぬ、「口は幸いの門」といったところだろうか。
もっとも、当の本人にその自覚は皆無だったし、仮に見習いシスターが彼女を幸福にすると言われたところで、それを喜ばないことは確実だった。
しかしそれは、今まで自身に降りかかった不運と比べれば、余りにも小さくささやかな不幸であるといえよう。
「…一体、アタシが何をしたっていうんだよ!」
何も知らないロベリアの叫び声が牢獄にこだました直後、複数の足音が近づいてきた。
幸いの―あるいは新たな喜劇の―始まりである。
了