大神が軍の留学生として欧州は巴里に旅発ってから、早二ヶ月以上が過ぎようとしていた。
つまり、この帝劇に大神が居なくなって二ヶ月以上が経ったことになる。
もう二ヶ月も大神が居ないのである。
大神が旅発った当初は皆、大神が居ないという日常にしんみりとしていたものであったが、最近ではようやく笑顔が見られるようになった。
一見すると、いつもの花組と変わらないようにも思える。
だが、やはり大神が居なくて淋しいのは皆同じで各人ふとしたときに大神を思い出しては、遙か巴里に想いを馳せていた。
それは、前回の大戦の後、大神が海軍に復帰することが決まったときも同じで、とにもかくにも花組の皆にとって大神という存在はそれほど大きく、そして大切なものなのだ。
無論、マリアにとっても大神の存在は大きい。
それは勿論、花組の隊長だからというだけではない。
ひとりの男性として、大神はマリアのほとんど全てを占めてしまっているのだ。
一度は諦めたひとりの女としての幸せを与えてくれたひと。
それが大神なのだ。
しかし、自分までもが皆と一緒になってしんみりしては、それこそ花組全体の志気にも関わる。
花組のリーダーとして、自分はしっかりとして花組を支えなければ。
それが大神から花組を託された自分の役割なのだ。
この思いだけで、この二ヶ月とちょっとを乗り切ってきた。
だが、正直言ってそれももう限界に近い。
自分だってひとりの女なのだ。
淋しくないと言える訳がない。
だからこそ、淋しいなんて言っていられないように皆を励まして檄を飛ばした。
それは半ば、自分に言い聞かせているようなものだった。
それでも、淋しさが消える訳ではなくて。
そんなことばかりを考えて、寝付けないことも最近ではよくあった。
そして、今夜も例にもれず本を読みながら夜を明かしている。
当然、本の内容などはほとんど頭に入って来ない。
ただページをめくっているに等しい。
『コンコン』
不意にノックの音がして、すぐに聞き慣れた声が聞こえた。
「マリア、起きてるか?」
親友の声。
「・・・ええ。待って、今開けるわ」
「おお」
本を閉じ、それを机の上に置くとマリアはドアの鍵を外した。
ドアを開けると、にやりと笑ってカンナが言った。
「なぁ、久々に飲もうぜ」
カンナの両手には泡盛の徳利と、二人分の杯がしっかり用意されている。
マリアが断ることなんか考えてもいないようだ。
「・・・そうね」
マリアはあまりのカンナらしさにフッと笑いながら、言った。
たまにはこんな風に夜を明かすのもいいかもしれない。
それにここしばらく、ゆっくり飲むなんてこともなかった。
月でも見ながら一杯やろうというカンナの言葉を受けて、二人は皆に気付かれぬようそっとテラスに移動した。
テラスに置かれた椅子に座って杯を合わせる。
「本当にいい月ね」
夜空に鮮やかなまでに浮かぶ月を見ながらマリアが言った。
「だろ?何か酒でも飲みたくなるような月だよな」
「ふふっ、そうね」
そう言えば、以前もこのようなことがあった。
あのときは皆の夜更かしを注意するために大神と見回りをしていて、夜空のあまりの見事さにここでつい足を留めてしまい、挙げ句の果てに皆に見つかってしまって、皆でミッドナイトパーティと相成ったのだ。
「前もさ、みんなでここでこんな風に星を見ながらちょっとしたパーティみたいになったことがあったよな」
同じことを考えていた自分に一瞬ドキッとしたが、冷静を装ってマリアは相槌を打った。
「ええ」
「あのときは隊長も居たな」
大神の話をふられただけで心臓の鼓動が早くなっていくのが解る。
ともすれば、泣いてしまいそうだ。
「そうだったわね。そ、それにしてもあなたとこうして飲むのも本当に久し振りよね。カンナ」
これ以上、大神の話を続けられたら本当にいろいろと込み上げてきそうで、マリアは話を逸らした。
「・・・無理するなよ、マリア」
だが、カンナはそれを見逃してくれそうにない。
少し減ったマリアの杯に酒を注ぎながら、カンナが言った。
「む、無理なんかしてないわ」
そう言ってカンナから目を逸らす。
動揺しているのが明らかである。
「じゃあ、何であたいから目を逸らすんだよ」
「それは・・・」
カンナの言葉に何も言えなくなってマリアは俯いた。
「マリアはみんなのことを考え過ぎなんだよ。それがマリアのいいところなんだけどよ。もうちょっと、自分のことを考えたってバチは当たらねぇと思うぜ?それでバチが当たるようなら、あたいがそいつを全部ぶっ飛ばしてやるからさ」
いかにもカンナらしい物言いに、堪えていたマリアの涙腺が緩んで一筋の涙が頬を伝った。
カンナはそんなマリアを見て、静かに微笑むと続けて言った。。
「だからさ、淋しいときは淋しいって言やあいいんだ。ガマンなんかしてる方が体に毒なんだぜ。アイリスみたいに極端に、とは言わねぇけどさ」
最後は冗談交じりに豪快に笑って、カンナは立ち上がるとマリアの肩にポンと手を置いた。
「カンナ・・・」
「せめて、あたいの前では無理すんなよな。親友、なんだろ?」
全くこの親友と言ったら、どれくらい自分を泣かせれば気が済むのだろう。
込み上げて来る涙を抑えきれずに、マリアはカンナの肩に顔を埋めた。
「・・・・・・っ・・・・・・・ふっ・・・・・・」
今の今まで堪えていたものが一気に流れ出す。
声にならない声でマリアは泣いた。
カンナは黙ってマリアに肩を貸すと、杯を手に静かに月を眺めている。
・・・・・・しばらく経った頃だろうか。
マリアが涙を拭って顔を上げた。
「・・・ありがとう、カンナ。だいぶ落ち着いたわ・・・」
それは先ほどまでのどことなく辛そうな表情とは打って変わったような顔で。
カンナはそんなマリアの表情を見ると安心したようにマリアの髪をくしゃと撫でた。
「うん。いつものマリアの顔だ」
そう言って嬉しそうに笑う。
『ゴーン、ゴーン、ゴーン・・・・』
時計の鐘の音が帝劇内に鳴り響いた。
「・・・あ、もうこんな時間なのね」
鐘の音とともに時計を確認してマリアが言った。
時計の針は12時を指している。
「・・・マリア」
カンナがジャケットのポケットから小さな包みと1通の手紙をマリアに差し出した。
「・・・何?」
「隊長からだよ。・・・今日、マリアの誕生日だろ?」
「あ・・・・・・。でも、何で・・・」
大神は巴里に居るはず。
それに大神からの郵便は米田支配人に一通届いただけのはず。
どうして、このようなところにあるのか。
「・・・実はさ。隊長が巴里に発つ前の日にさ、あたいに預けていったんだ。マリアの誕生日に渡してくれないかってね。今まで黙ってて悪かったけどさ。隊長と約束しちまったからさ」
嘘をつけないカンナの性格上、この2ヶ月半は辛かっただろう。
皆に見えないところで表情を曇らせているマリアを見て、何度これの存在を口に出しそうになったか解らない。
しかし、”誕生日”という大神との約束を守るためにずっと我慢してきたのだろう。
「・・・ありがとう」
マリアはそんな親友の思いやりと優しさに頭を下げた。
「よせよ。お互い様じゃねぇか」
そんなマリアの態度にカンナは照れくさそうに笑うと、テーブルの上に置いた杯を手にして一気に酒を飲み干した。
「それよりもさ、早く開けてみろよ。あ、と、あたいが居て開けづらいってならさ。先に部屋に戻るからさ」
「ううん。カンナも一緒に居て」
「そうか?」
「ええ」
綺麗に包装されたそれを解いていくと、小さなボックスの中に誕生石であるパールがはめ込まれたシンプルなデザインの指輪が納められていた。
「マリア、はめてみろよ。」
カンナに急かされて、薬指にはめるとサイズは勿論ぴったりで、シンプルながらもマリアにとてもよく似合っている。
「すげぇ似合ってるぜ、マリア。」
カンナのその言葉にマリアは頬を紅く染めて、照れくさそうに俯いた。
手紙の封を丁寧に切って、便箋を静かに取り出す。
便箋を開くと、中には懐かしい字。
再び涙が込み上げそうになるのを抑えて、マリアは手紙に目を通した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
────マリアへ
誕生日おめでとう。
本当は直接会って君にそう言いたかったけど、俺は巴里にいてそうすることも叶わない。
少し悔しいよ。
本当なら、君を強く抱きしめて君と一緒にこの時を過ごしたかった。
君のことだから花組のみんなをうまくまとめているだろうね。
花組に関してはマリアがいるから大丈夫だと安心しています。
ただひとつ心配なことは、マリアが責任を負い過ぎているんじゃないかということです。
君はすべてを独りで背負ってしまうようなところがあるからね。
いつか君に「君の背負っているものを少しは肩代わり出来るかもしれない」と言ったことを覚えているかい?
その気持ちは今も変わらないし、君の背中を守るのはいつだって俺で在りたいと思っています。
・・・なんて、少し気障だったかな。
でもね、俺は世界中の何処にいてもマリアのことを想っている。
そのことを忘れないで欲しい。
いつか俺が帝都に帰って来る頃には君はまた綺麗になっているだろうね。
俺もそんな君に釣り合うよう巴里でいろいろなことを吸収して成長して、必ず帝都に戻って来ます。
だから、俺が戻って来たそのときは・・・。
・・・その先は次に君に会えたときに言うことにします。
───巴里の空の下で、君が生まれたことを誰よりも神様に感謝して・・・。
大神一郎
追伸
今回のことでカンナにはすごく迷惑をかけてしまったと思う。
くれぐれもよろしく伝えておいて下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
手紙を読み終えると、マリアはそれを静かにカンナに差し出した。
マリアの瞳からは再び涙が溢れている。
「いいのか?」
カンナの言葉にマリアは無言で頷いた。
「・・・・・・・・・・・・」
カンナはマリアから手紙を受け取ると、黙ってそれに目を通した。
「・・・へへっ、隊長ちゃんとマリアのこと解ってるじゃねぇか」
そう言うカンナの目も赤い。
「・・・ええ・・・」
「良かったなぁ・・・。マリア」
目頭を抑え、鼻をすすりながらカンナが言った。
まるで、自分のことのように嬉しそうにしている。
このような友人はきっともう出来ないだろう。
「・・・カンナ。本当にありがとう・・・」
マリアはそう言ってカンナの肩にコツンと頭をつけた。
「だから、よせってば。あたいは何にもしてないんだからさ。ただ、隊長から物を預かっただけなんだから」
それでもこの親友の気遣いはマリアの見えないところでもあったに違いないのだ。
改めてカンナが親友であることを嬉しく思う。
「・・・じゃ、改めて乾杯しようぜ。ま、昼になったらみんなが誕生日会をやるとは思うけどさ・・・って。おっと、これは内緒にしとけってアイリスに釘さされたんだったか。ははっ、まぁいっか。マリア、聞かなかったことにしといてくれよな」
「ええ。解ったわ」
いたずらっぽくそう笑ったカンナの言葉にくすりと笑ってマリアが頷く。
すっかりいつもの調子だ。
「それじゃ・・・」
カンナの合図で杯を掲げる。
「誕生日おめでとう、マリア」
「ありがとう、カンナ」
二つの杯がぶつかって、カチンと音がひとつテラスに鳴った。
「で、これは隊長の分な」
カンナは杯の酒を一気に飲み干したあと、再び杯に並々と酒を注いで言った。
「とりあえず、あたいが隊長代理ってことで。ガマンしてくれよな、マリア」
「・・・ふふっ、ガマンしておくわ」
「おっ、言ってくれるねぇ。じゃ、またまた乾杯、と」
再び杯のぶつかった音が響く。
梅雨時なのにも関わらず、月は綺麗に夜空に映えて。
この分なら夜が明けても、久々に太陽が顔を覗かせそうだ。
「真っ先にマリアにプレゼント渡せたんだから、感謝しろよな。隊長」
空の向こうに杯を掲げながらカンナがそう言うと、
「巴里はまだ昨日ですね。・・・隊長、くれぐれも浮気なんかしないで下さいね?」
マリアも杯を掲げてそう言った。
マリアの左の薬指には大神からのプレゼントのリングが光っていた・・・。