ルイ音子

 壊したいけど、壊したくない。
 泣かせたいけど、泣かせたくない。
 矛盾が同時に存在して無性に触れたくなって。
 気が付けば、ピットの隅に追い遣って唇を奪っていた。
 驚いて見開いた目で見つめられて、その表情をされて当然だと自嘲気味に笑って見せる。
 「…もしかして、キスは初めてでしたか?」
 いつもの様に笑みを湛えてそう言ってみせると彼女は頬を染めて頷いた。
 「そうですか…。それは申し訳ない事をしました」
 「え…?」
 私の言葉に困惑した表情で首を傾げた彼女の唇を指でなぞって突き放す様に言う。
 「…それでは今のキスは忘れて下さい」
 「何故…です?」
 動揺する瞳で見つめられて。
 「何故…?おかしな事を聞きますね、音子さん」
 肩を竦めそう返すと頬に手が伸びてきた。
 「おかしな事を言ってらっしゃるのはルイスさんです」
 「…私が?」
 「そうです。何故、忘れなければいけないんですか…?」
 彼女の目が真っ直ぐと私を見つめて来る。
 この表情はいけない。
 良くも悪くも煽られる。
 「…では、何故忘れて頂けないんですか?」
 目を細めて彼女を見つめ返しそう言うと、一瞬の間を置いてから彼女がハッキリと言った。
 「…忘れる理由がないからです」
 「理由がない…?」
 …まさか。
 そんな筈はない。
 彼女の言葉に心が揺れる。
 「…はい」
 真剣な顔で頬を染めた彼女の肯定に顔が熱くなる。
 「自分が何を仰っているのか解っていますか?」
 平静さを装いそう問うと、しっかりと私を見つめ彼女が頷いた。
 「勿論です」
 「…いつからです?」
 余りに信じ難いその言葉に彼女を直視出来ずに片手で顔を覆う。
 今の私は情けない顔をしているに違いない。
 直ぐにでもこの場を立ち去りたい衝動を抑える。
 「…それは自分でも意識していません。気が付いたらルイスさんの事を…。本当です」
 彼女の言葉に嘘はないのだろう。
 私と違って嘘を吐く事に慣れているとは思えない。
 「…何故、私なんだ…。私の様な人間を…。そんな事がある筈がない…」
 思わずそう独り言ちていた。
 掌にじわりと汗が滲むのが解る。
 「…ルイスさん?」
 すっかり動揺して呆然としている私の頬に彼女の手が再び触れ、背伸びと同時に首の後ろにその手を回され彼女に引き寄せられる様に前傾姿勢になった。
 「…ルイスさんが好きです」
 頬を染めつつも迷いのない声でそう告ぐと、そっと頬に唇を寄せられた。
 体の熱が一気に上がって行く。
 そして。
 気が付けば彼女を抱き締めていた。
 「…全く、音子さんも酔狂な方ですね。嘘吐きで厄介な人間ですよ?私は」
 顔を見られない様に上に背けて言う。
 「…優しいじゃないですか、ルイスさんは。でなきゃ、あんなに美味しく育ちませんよ、野菜も」
 「植物と人間とでは違います。嘘など幾らでも…」
 「吐いてませんよね?…少なくとも今は」
 「何故そう言い切れるんです?」
 「…ルイスさんの声が震えているからです」
 指摘されて。
 自分の声の震えに気付く。
 「…私はあなたの手を取ってよろしいんでしょうか?」
 この眩し過ぎて温か過ぎる心地好さにいつの間にか惹かれていたのは自分の方だったのに。
 「…ルイスさんが手を伸ばして下さった先がわたしの手だったら嬉しいです」
 何故に彼女の言葉はこれ程までに素直に私の心に溶けて行くのだろうか。
 そして。
 「…どうして私はそれを強く望んでしまうのでしょうね」
 胸が熱くなって震えが止まらない。
 「望んで…下さるんですか?」
 その瞳を見つめ返す。
 「…あなたの手を取らせて下さいますか?」
 その場に膝をついて座り、彼女の手を取る。
 今まで普通に彼女の手に触れていたのが不思議でならない程に心臓が高鳴る。
 「はい…。」
 頬を朱に染めて頷いた彼女の手に唇で触れて、ゆっくりと息を吐いてから、彼女に告げる。
 「…あなたが好きです、音子さん」
 告げるだけで心が暖かくなる様な切なさを覚える様なこの感覚は何と言えば良いのだろう。
 自然と穏やかな気持ちになる。
 彼女と居るだけで何度もこの気持ちを感じていたじゃないか。
 …そうか。
 私は疾うに彼女に惹かれていたのだ。
 だからこそ、皆の中心に居て笑っている彼女に苛立ったのかもしれない。
 こちらを向いて欲しくて独占したくて苛立って。唐突に唇を奪った。
 自分の大人げなさに情けなくなる。
 「…すみませんでした」
 「何をです?」
 「先程はあなたに無理に、」
 「ルイスさんのお気持ちも伺いましたし…忘れなくても良いですか?」
 私の言葉を遮りそう恥ずかしそうに微笑んだ彼女に見とれる。
 「敵わないですね。…覚えていて下さいますか?」
 「はい…」
 はにかんだ彼女を抱きしめ、唇を重ねた。
 「恋人としての初めてのキスですね。…好きですよ、あなたが」
 そう囁くと耳まで紅く染めて彼女が私の肩に顔を埋めて小声で言った。
 「…絶対に忘れません」
 その言葉に私は心が充たされて熱くなった─。

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