暦の上で新たな季節を迎えてから数週、ようやく街角でも秋の気配を感じるようになってきた。
例えば、それは朝夕に頬を撫でる涼風だったり、マルシェに並び始めた秋物の薫りだったり。
例えば、カフェでお下げ髪の少女が幸せそうに口に含む飲み物が冷たいシトロン・プレッセから暖かなショコラ・ショーに替わっていたり、赤い修道服を身にまとうシスター見習いが満面の笑みでクレーム・ブリュレを頬張っていたり―
『・・・って、エリカくんは今までと同じか。』
自分はカフェ・クレームの味を楽しみながら、黒髪の青年―大神一郎は、同席しているコクリコとエリカ・フォンティーヌを眺めて苦笑を漏らした。
―西暦1926年9月、モンマルトルは穏やかな初秋の中にあった。
ほんの二月前まで、欧州は花の都と謳われる巴里は危機に直面していた。突如現れた怪人カルマールに、これまで霊的脅威から都市を守ってきた巴里華撃団花組が敗れてしまったのだ。
だが、遙か東方からやってきた帝國華撃団の協力と、新たな力―霊子甲冑『光武F2』を得て、花組は蘇った怪人ナーデルとコルボーを倒すことが出来た。
その自信が希望の羽となって、大神たち巴里花組三人に笑顔の花を咲かせている。
ところが、そこにやってきた彼らの仲間―グリシーヌ・ブルーメルの表情は、他の面々とはまるで異なる曇天だった。
金髪の少女は黒髪の青年の前にやってくると、挨拶もそこそこに唐突とも思える問いを発した。
「貴公に尋ねるが、『フシャノシャ』という言葉を知っているか?」
「『フシャシャシャ』?グリシーヌさん妙な笑い方して、何か変な物でも食べたんです?」
「エリカ違うよ、笑い声じゃないから。」
普段と変わらないエリカの珍回答はともかく、グリシーヌからの思いもかけない言葉に大神は目を見開いた。
「ひょっとして『不射之射』かな?ずっと昔の支那の説話だけど、どうして君がそんな話を知っているんだい?」
「…花火が言っていたのだ。何でも貴公から聞いたということだったが。」
大神は記憶の糸を手繰った。そう言われると、確かにもう一人の仲間―北大路花火にそんな話をしたかもしれない。
◇
昔々、中国は趙の国に紀晶(きしょう)という男がいた。彼は天下第一の弓の名人になろうと志を立てて、名人の飛衛(ひえい)に弟子入りした。
数年の後、彼から射術の奥義を会得した紀晶は、更にこの道を極めんと甘蠅(かんよう)老師の元を訪れた。
百歳にも達しようかという老人の前で、彼は自らの技量を示すため、自慢の弓で渡り鳥五羽を射落とした。
だが、老師は微笑と共にこう言った。
「一通りは出来るようじゃな。だが、それは所詮、『射之射(しゃのしゃ)』というもの、おぬしは未だ『不射之射(ふしゃのしゃ)』を知らぬと見える。」
そして、老師は見えざる矢を無形の弓につがえると、遙か彼方に舞う鳶に向かって放った。すると、鳶が中空から落ちてくるではないか!
「『不射之射』には弓も矢も要らぬ。弓矢が要るうちはまだ『射之射』じゃよ。」
感服した紀晶は、九年の間老師の元に留まって修業を積んだ。
街に帰ってきた彼はすっかり角が取れて、木偶のように無表情な容貌となっていた。
その姿を目にして、旧師の飛衛は感嘆して叫んだ。
「これでこそ初めて天下の名人だ。我らのごとき、足下にも及ぶものでない!」
名人がそう言うのだから間違いはないと、街の者は紀晶を天下第一の名人として迎えたのである。
ところが、周囲の期待に反して、紀晶は何時まで経ってもその技を披露しようとはしなかった。ある者が弓さえ手に取ろうとしない訳を尋ねると、彼は物憂げにこう答えた。
「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」
とても物分かりのよい街の人々は、その言葉を聞いてすぐに納得した。
弓を手にしない名人として、紀晶は街の誇りとなった。幾つもの噂だけが流れたが、彼は何もせず、何も披露しないまま、四十年余りの時を名声と共に過ごした。
さて、彼が死去する数年前のこと。
招かれた家で、紀晶はひとつの『器具』を目にした。見覚えはあるものの、どうしても名前と用途が思い出せない。
そこで主人に尋ねた。
「これは何と呼ぶ品物で、何に使うのだろうか。」
問われた主人は曖昧な笑みを浮かべた。彼は紀晶が冗談を言っているのだと思ったのだ。
ところが、名人が真面目な顔で三度同じ問いを繰り返した時、主人は驚愕して叫んだ。
「ああ、古今無双の弓の名人たるお方が、『弓』を忘れてしまったというのか!その名前も、その使い方すら!」
その後当分の間、街では画家は筆を隠し、音楽家は楽器の絃を断ち、大工は規矩(円と角を描く道具)を手にすることを恥じたということである。
◇
先だって帝國華撃団のマリア・タチバナ、桐島カンナ、李紅蘭が特別指導に訪れてからというもの、花火は思うところがあったのか、多くの時間を弓の修練に費やしていた。
「俺としては、余り根を詰めて修練に励まないように、という意味で話したつもりなんだけれど…それがどうかしたのかい?」
グリシーヌは躊躇の後、言葉を続けた。
「・・・どうやら、花火はその奥義とやらを会得したらしいのだ。」
「そんな、まさか。」
大神は笑った。お話としては荒唐無稽だし、万一その中にひとかけらの極意が含まれていたとしても、件の名人は修行に何年も費やしている。花火にその話をしたのは先月だ。
「だが、あれだけ励んでいたものが、ある日を境に弓を手に取ることすらしなくなったのだぞ。」
そんな友人の様子を心配して、グリシーヌはそれとなく問うてみた。花火から微笑と共に返ってきたのは次のような答えだった。
「『至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし』」
「…何と?」
「『行為の究極はなにもしないことであり、言葉の究極は無言であり、そして弓を射る極意は弓を引かないこと』ということよ、グリシーヌ。」
まるで禅問答である。当然というべきか、この話を聞いても大神以外誰も理解出来なかった。
「何だか難しいお話ですね。つまり分かりやすく言い換えると、『一番美味しいプリンはまだ見ぬプリンだ。そんなプリンに出会ったらフシャシャシャと笑え』、ということですね?」
「…全然分かりやすくないよ、エリカ。しかも途中からおかしくなってるし。」
グリシーヌはひとつ咳払いをすると、エリカとコクリコの漫談に区切りをつけた。
「とりあえず、今一度貴公から花火に話してはくれないか。」
「ああ分かった、事情を聞いてみるよ。」
心配顔のグリシーヌを安心させるように、大神は頼もしげな笑みを返した。
北大路花火とはシャノワールで出会えた。
しかし彼女がいたのは、ついこの前まで籠もり切りだった地下の修練場ではなく、舞台後ろの控え室である。
脇目も振らず弓を手にしていた彼女が、今はのんびりと本を手にしている。グリシーヌでなくとも違和感を覚える変わり様ではあった。
「花火くん、今日はここにいたんだね。」
何気なく話しかけた大神に、花火は普段と何ら変わらない古拙の微笑を浮かべる。
「はい、先ほどメルさんからお借りした本を早く読みたかったので。大神さんはどうされたのですか?」
「少し花火くんと話がしたくてね。」
「まぁ・・・ぽっ」
大神の天然過ぎる言葉に、花火は赤く染まった頬に両の手を添えた。
自分が少女の好感度を上げた自覚もなく、青年は件の話を切り出す。
「前に話したことがあったと思うけれど、ほら、『不射之射』。覚えているかい?」
「はい、もちろんです。大神さんの貴重なお話を忘れる筈がありません。」
「一応聞いておきたいのだけれど、まさか、その・・・本当に極意を会得したなんてことはないよね?」
大神は冗談に紛らわせて訪ねた。もちろん、黒髪の少女が柔和な笑みを添えて首を振ることを予期してだ。
しかし、期待通りにいかないのが世の常である。
「ふふふ・・・どうでしょうか。」
花火が添えたのは、曖昧な返事に乗せた古拙の微笑だった。
大神は表情から意味を汲み取ろうとして失敗した。これがグリシーヌやコクリコ、例えロベリアであってもこれ程には困難でないだろう。もちろんエリカだって―
『・・・いや、エリカくんは違う意味で読めないか。』
そんな埒もないことを考えてしまった大神に、今度は花火から話しかけてきた。
「ところで大神さん、一つ伺っても宜しいでしょうか?」
「え?ああ、もちろんだよ。何だい?」
「はい、あの・・・明日はお暇がありますでしょうか?その、もしも大神さんのご都合が宜しければ、色々とお話したいことがあるのですけれど・・・」
伏し目がちで、途切れ途切れではあったものの、花火とは思えない積極的な言葉である。
大神は脳裏に予定帳を開いた。翌日の頁には、午前中はグリシーヌ、お昼はコクリコ、夕方までエリカ、仕事の後はロベリアとの予定が記されていた。当然、その間には秘書二人の手伝いも含まれている。出来る男は常に多忙なのだ。
「・・・済まない、明日は一日予定が入っているんだ。」
その返事を聞いた花火は、一瞬だけ視線を落とした。だが、その直ぐ後には微笑を向ける。
「そうですね、大神さんはご多忙なのですから。考えなしにお聞きして申し訳ありません。」
「本当に申し訳ない、ちょうど明日は忙しくて。」
「・・・お仕事の他にも、ですよね。」
「え、何か言ったかい?」
「いいえ、何も。」
花火の微笑に問いをはね返された大神は、近い内に必ず時間を作ることを約束してその場を立ち去るのだった。
異変が起こったのは、翌日の早朝のこと。
緊急連絡に叩き起こされた大神一郎は、たった今伝えられたばかり情報を、通信機越しにメル・レゾンへ聞き返した。
「グリシーヌが倒れたって!?」
「はい。生命に別状はないのですが、意識がない状態です。」
「そんな・・・一体何が起こったんだ!」
「巴里華撃団で調査中ですが、事件性があるのか、それとも事故なのかも一切分かっていません。そもそも、外傷が見当たらないグリシーヌさまが何故意識不明になったのかも分からないんです。」
大急ぎでモンマルトルの石段を駆け上がりシャノワールへ飛び込んだ大神だったが、結局メルの言葉が正しかったことを再確認しただけだった。医療室に横たわる少女は眠っているようで、医師の話でも外傷等は一切認められないという。
偶然その場を目撃したブルーメール家の女性使用人の供述によると、早朝、屋敷の中庭で鍛錬をしていたグリシーヌは、突然胸を押さえるとその場に倒れ込んでしまったらしい。
「―邸内のことですので、周囲に怪しい者はいなかったとのことです。」
メルの報告に頷く大神だったが、念を押すことを忘れないのが責任ある立場の人間というものである。
「他に何か変わったことはなかったのかい?」
「変わったことは何も・・・。中庭には花火さんもいらっしゃったそうですが、同じお屋敷にお住まいなのですからおかしいことではありませんよね。」
「花火君が・・・」
ひと唸りして思考を進めようとした時、舌っ足らずな声音に乗って、更なる凶報が飛び込んできた。
「大変ですぅ!グリシーヌさまだけじゃなくって、他の方も意識不明なんですぅ!」
シー・カプリスの報告に、大神とメルは表情を強ばらせた。
「他の・・・って、花組全員が!?」
大神は緊迫した。もしも花組隊員の身に何かあれば、それは巴里の危機と同義である。或いは、それを狙った怪人の策略か!?
だが、シーは慌てて頭を振った。
「あ、いえ、花組さん全員ではないんですよぉ。」
そして指を一本二本と折りながら続ける。
「ええっとぉ、エリカさんと、コクリコさんと、ロベリアさんですぅ。」
「・・・」
答えは一瞬で出ているのだが、それでも大神は脳裏に人物表を描いてみた。一人、また一人と花組隊員に削除線を引いていく。
最後に残ったのは―
「・・・花火くんは、無事なのかい?」
「はい!皆さんが倒れているって教えてくれたのは花火さんなんですからぁ。」
シーは明るい声で答えた。こんな非常事態の中、一人だけでも無事な者がいたのだから嬉しいのは当然であろう。
しかし、大神はその喜びに同調出来なかった。彼の中の何かがしきりに警鐘を鳴らしている。
『何かおかしい、何かが引っ掛かる・・・』
胸中に呟いた正にその時、更なる異変が起こった。しかも、大神の目の前で。
「うっ・・・!」「きゃっ・・・!」
今の今まで元気だったメルとシーが、胸を押さえて崩れ落ちているではないか!
慌てて二人を抱き起こすが、その様子は先のグリシーヌと全く同じ、何処にも外傷はないのに、何故か意識だけがなかった。
「そんな、一体何が起きているんだ!」
独り呟いた大神の耳に、控えめな靴音が届く。
ゆっくりと首を巡らすと、照明が届かない暗がりの中から、影が染み出すように黒髪黒服の少女が姿を現した。
「・・・花火くん。」
大神の投げた言葉に、花火は微笑を浮かべる。
「おはようございます、大神さん。今日もいいお天気ですね。」
普段と変わらない、いや、この非常事態の中、余りにも普段通り過ぎる少女に、青年の心に疑念の染みが滲んだ。それは一瞬の内に確信の黒い沼となって大神を戦慄させる。
「・・・まさか、これは花火くんがやったのか?例の、俺が話した『不射之射』で。一体何故!?」
花火は再び微笑を浮かべた。それは気持ちを伺うことの出来ない古拙の微笑。
「ふふふ・・・どうでしょうか。ところで大神さん、」
そして表情一つ、声音一つ変えずに言った。
「―本日はお暇がありますよね?」
◇
「うわあぁぁぁっ!」
悲鳴と共に、大神一郎は自室のベッドから跳ね起きた。
今の出来事が夢であったことを確認すると、盛大なため息をつきながら額に流れる汗を拭う。
「・・・何て夢を見ているんだ、俺は。」
心当たりはあった。加山雄一が巴里に大神を訪ねてきた時、雑談の中で『不射之射』の話を聞いたのだ。
何でも、今年の春に第一高等学校へ入学したばかりの学生で、中國文学にとても詳しい者がいるらしい。その生徒が何時か小説にしようと考えているお話の構想を、一高関係者から伝え聞いたとのことだった。
その時は年齢に似合わぬ文才に感心しただけだったが、訓練に没頭する北大路花火の姿とお話の内容が重なって見えたのだろう。
「それにしてもあんな夢を見るなんて・・・疲れているのかな。」
大神は呟いた。彼は公私ともに(つまりお仕事も、女の子とのお付き合いも)多忙なのだ。
いつものお店でカフェ・クレームの味を楽しんでいた大神は、今日の予定を確認するため脳裏の予定帳を開いた。本日の頁には、午前中はグリシーヌ、お昼はコクリコ、夕方までエリカ、仕事後はロベリアとの予定が記されている。その合間にはメルとシーの手伝いもするつもりだ。
『はて、どこかで似たようなことがあったような・・・』
軽いデジャビュを感じつつ、黒髪の青年はカフェ・クレームに手を伸ばす。
その瞬間―カップが何の前触れもなく真っ二つに割れた。
突然のことに驚く大神を、長く伸びる人影が包む。ゆっくりと視線を上げた先に立つのは、黒髪黒服の少女。
「おはようございます、大神さん。今日もいいお天気ですね。」
声が出ない青年に向かって、少女は普段と変わらない古拙の微笑を浮かべて言った。
「ところで・・・本日はお暇がありますでしょうか?」
◇
余談となるが、件のお話はこれから十数年の後―西暦1942年になって、一高の学生だった作家、中島敦の手により『名人伝』として世に出ることになる。
後年、この小説を目にした大神一郎がどんな表情をしたのかについては証言が残っていない。
(了)