「…さん。ラチェットさん」
何度呼んでも返事のないラチェットの顔を心配そうに新次郎が覗き込む。
それで、ようやく新次郎が目の前にいることに気付いたラチェットが申し訳なさそうに慌てて返事をした。
「ごめんなさい。少し考え事をしてたものだから」
「少し…お疲れなんじゃないですか?」
呆けていたラチェットを気遣う新次郎。
「ううん。大丈夫よ。ありがとう、心配してくれて」
笑顔でそう返すラチェット。
「それで、私に何か用事?」
「あ。はい。プラムさんに頼まれてこちらの書類を」
封筒を差し出す新次郎。
「ありがとう」
封筒を受け取るラチェット。
何やら思案顔で新次郎を見て。
「それでは、ぼく失礼しますね」
そんな事には気付かない新次郎が踵を返した瞬間。
「待って、大河くん」
新次郎を呼び止める。
「はい。何ですか?」
振り返った新次郎のネクタイに手を掛け、自分の方に引き寄せた。
「え?!わわっ」
バランスを崩し、ラチェットの方に前のめりになった新次郎にキスをするラチェット。
「!?」
突然の事態に驚いたのは新次郎。
赤面して、呆然とするばかりだ。
唇を離すと、ラチェットは顔を隠すように新次郎の肩に額をつけた。
「あの…」
立ち尽くしたまま、ようやく声を出す新次郎。
「…ごめんなさい」
新次郎の肩に顔を埋めたまま、ラチェットが言う。
「何か…あったんですか?」
静かにそう問うと、ラチェットが顔を上げて呟くように言った。
「…ネクタイ…」
「…え?」
返ってきた予想外の単語に聞き違えたのかと聞き返す新次郎。
「…今朝、昴にネクタイを直されてたわよね?」
そう問い返されて聞き間違いでなかった事を確かめる。
「あ。はい。ネクタイが曲がっていたみたいで、昴さんに注意されちゃいました」
苦笑しながらそう答えた新次郎に対し、どことなく沈んだ表情のラチェット。
「…それを見て、悔しかったの」
「?」
ラチェットの言葉の意味が解らず考える新次郎。
「私、自分がこんなに独占欲の強い人間だとは思わなかった」
「あの…それって」
「私はあなたが他の誰かに触れられるのが嫌みたい」
それでようやくラチェットの言葉を理解した新次郎が赤面する。
「頭では解ってるのよ?そんな訳にはいかないんだって。そんなことを言ってもあなたを困らせるだけだって」
いつものラチェットらしくない雑然とした口調に愛しさを覚えて。
「ラチェットさん…」
「ごめんなさい…。呆れてるわよね」
自嘲気味にそう笑ったラチェットの肩に手を遣る新次郎。
「呆れる訳がないじゃないですか」
「でも、私が自分に呆れているもの」
「ぼくはあなたにこんなに想われて、この紐育の誰よりも幸せ者だと思いますよ?」
「大河くん…」
「でも、一言だけよろしいですか?」
わざわざそう前置きした新次郎に神妙に頷くラチェット。
そんなラチェットを見つめると、小さく息を一つ吐いてから新次郎が言った。
「…ラチェットさん、可愛いです!」
「………」
一拍置いて。
一気に赤面するラチェット。
「ぼくはあなたを一番に想ってます。ですから、心配しないで下さい」
そう付け加えてはにかんだ新次郎に見とれながら、再び新次郎のネクタイに手を掛けるラチェット。
「ありがとう。それじゃ、私も一つだけ良い?」
「?はい」
「このネクタイは私以外の誰にも緩めさせないでね?」
「緩め…って…!?」
ラチェットのその言葉の真意に気付いて、新次郎の顔が紅くなる。
「どうかしら?」
静かに頷く新次郎。
「…ありがとう」
ラチェットは新次郎の返事を聞いて嬉しそうに微笑み、再び新次郎に顔を近付けた─。