1.【1926】
巴里の夜は、画布(トワール)の上で踊る極彩色の絵画(パンチュール)だ。
赤い風車が男という名の蜜蜂を引き寄せ、足を振り上げる踊り子に黄色い歓声が飛ぶ。
芸術家の脳裏に天啓の白い閃きが走り、失恋した男の青い悔し涙が卓を濡らす。
黄金色の麦酒片手に若者が演劇論を戦わせ、締め切り間際の作家が蒼白な顔で筆を走らせる。
無価値となった馬券の上を黒猫が闊歩し、恋色に頬を染めた少女が舞うような足取りで通り過ぎていく。
街灯照らす大通りでは一夜限りの愛を求めて、茶髪の男と緑の流行服を着た女がすれ違う。
光り届かぬ裏通りでは一夜の富を夢見て、その夢に破れた男が肌色になって道端に転がる。
人々は思い思いの色で、今宵も花の都を鮮やかに描いていく。
西暦1926年9月―光と陰が手に手を取って踊る『良き時代(ベル・エポック)』
文化と猥雑が同居し、毎夜のように新たな恋と芸術が生まれる巴里を表現するのに、これ以上相応しい言葉が存在するだろうか。
◇
20区からなる巴里市の中で、18区はその北方に位置している。比較的平坦な巴里の街では珍しい小さな丘を有しており、そこからは整然とした街並を一望することが出来た。セーヌ川沿いの中心部より下町情緒を色濃く残しており、心地良い雑然さに満ちた地区である。
モンマルトルの丘に抱かれた、多くのパリジャン、パリジェンヌたちに愛されている白亜の劇場シャノワールも、巴里の夜に相応しい色彩に満ちていた。
この年に巴里中で発生した数多くの霊的災害により、モンマルトルも大きな被害を被っていた。それでもシャノワールを始めとした劇場の賑わいが変わらないのは、このような非常時でもパンやコーヒーのように日々の娯楽や芸術を求める『巴里っ子気質』によるものなのかもしれない。
シャノワールは西暦1925年開業で、二世紀以上の歴史を誇るコメディー・フランセーズは勿論、1889年に誕生したムーラン・ルージュとは比べようもない新参だが、庶民にも無理せず手が届く料金や美味しい食事、何より五人の女優が披露する演目は、手厳しい劇評家の面々も好意的な感想を寄せている。
その夜も、巴里中から芸術と美食を求めて集ったパリジャン・パリジェンヌたちは、自分たちの目と舌で正しい選択を堪能していた。
紳士淑女の眼前で催されたのは、この芸術香る花の都でも指折りの演目だった。マジカルエンジェル・コクリコの『魔法使いの弟子』から始まり、ブルーアイの『海』、タタミゼ・ジュンヌの『日舞』、エリカの『黒猫のワルツ』と続く多彩な芸は、観る者をひと時も現実世界に引き戻すことはなかった。
そして、その夜の取りに登場したサフィールによって、劇場の華やかさは最高潮に達した。
『ジプシーの娘』と名づけられた演目に現れたのは、魅惑的な衣装をまとった銀髪の年若い女性だった。彼女の美脚に紳士たちが溜息をつき、彼女の手が艶めかしく動くたびに淑女たちから悲鳴にも似た嬌声が上がる。その蠱惑的な眼差しにひと撫でされた観客は、男性女性を問わずサフィールに恋をするのである。
そんな女優を色鮮やかな衣装や小道具が並ぶ舞台袖から眺めていたのは、先程演目を終えたばかりのエリカを除いた女優の面々だった。一息つき、私服に着替えた彼女たちは、観客と同じ目線でサフィールの舞台を鑑賞していた。
「相変わらず、サフィールさんの踊りは素晴らしいですね。」
落ち着いた声音は、タタミゼ・ジュンヌこと北大路花火だ。
「…まあ、確かに下手ではないな。客人たちも満足しているということは、つまりそういう解釈が成り立つのだろう。」
遠回しに肯定したのは、ブルーアイことグリシーヌ・ブルーメールである。彼女はサフィールの歌や踊りの素晴らしさを内心認めていたものの、普段の素行については快く思っていなかったから、どうにも表現が素直にならないのだ。
そんなグリシーヌの心を知ってか知らずか、最年少のコクリコがサフィールを指さして問い掛けた。
「ねえねえ、サフィールにさ、『センセイ』っていたのかな?」
「…何を言い出すかと思えば、そのような者がいる筈なかろう。もしもそうであれば、あのようにひねくれた性格にはなるまい。」
突然の質問に目を瞬かせたグリシーヌは即座に否定した。
しかし、コクリコは小さな頭を振る。
「うーん、そういう家庭教師みたいのじゃなくてさ、『師匠』っていうのかな?だって歌や踊りって自然に上手くならないでしょ?でも、ちゃんと出来ているじゃない。」
コクリコの言葉を、後ろに控えていた花火がそっと賛同した。
「…実は、私も以前から不思議に思っていたのです。」
「花火まで何を言っているのだ。」
「でもねグリシーヌ、一見サフィールさんの踊りは即興に見えるけれど、芯というべきところはとても基本に忠実よ。発声方法や観客の方たちに訴えかける仕草も、舞台の女優さんと通ずるところがあると思うの。」
年上と年下の意見に、グリシーヌは豪奢な金髪を揺らした。
「二人ともどうかしている。アレが大人しく人の言うことを聞く筈なかろう。そのような姿、想像することすら無理だ。」
頑なに否定するグリシーヌの横顔に、コクリコは意味有り気な視線を注いだ。
「それじゃあさ、練習しないでも出来ちゃう『天才』ってこと?」
「むっ…」
絶句した少女の耳に、客席からの大歓声が届いた。どうやら演目がひと段落したようである。
舞台の上では、優雅に一礼するサフィールに向けて照明と拍手の洪水が浴びせ掛けられていた。一度は舞台袖に消えても、その歓声に幾度となく呼び戻されている。
暫くして、ようやく観客たちから解放されたサフィールが舞台袖に戻ってきた。そこにいた女優たちからねぎらいの声を掛けられると、彼女は皮肉っぽい表情を浮かべながら流れる汗を指で弾いた。
「やれやれ、アンコール一回毎に特別手当は出るんだろうね。」
妙に生々しいことを言った女優は、舞台の上とは別人のようだった。そんな彼女に、花火が改めて慰労の言葉をかける。
「お疲れさまでした、サフィールさん。今夜のレビューも素晴らし―」
だが、演目を終えたばかりの女優は、片手を挙げて黒髪の少女の言葉を遮った。
「舞台を降りた時点で『サフィール』の契約は終了。その名前で呼ぶんじゃないよ。」
三白眼と低い声で言う様は女優のそれではなかった。しかし、花火はいささかも動じることなく、微笑を湛えて「まあ、ごめんなさい。」と謝罪した。
「では、改めてお疲れさまでした。今夜のレビューも素晴らしかったですよ、ロベリアさん。」
そんな少女の態度が気に入ったのか、サフィールことロベリア・カルリーニはニヤリと笑うと「おう」とだけ答えた。
ロベリア・カルリーニは、齢二十歳にして『巴里の悪魔』と異名を取る大悪党である。これまでの罪状を全て並べると懲役千年は下らないという程で、殺人以外の悪事は一通りこなしていると噂されていた。表向きにはサンテ刑務所に収監中の身だが、現在とある理由からシャノワールの舞台に立っている。当然、その事実は関係者以外知らない極秘事項である。
と、そこに、飲み物を手にしたコクリコが駆け寄ってきた。それを「ロベリア、お疲れさま。」と、笑顔と共に手渡す。
「お、気が利くじゃないか。誰かさんとは大違いだな。」
「…そなた、誰のことを言っているのだ?」
ロベリアの意味あり気な言葉にグリシーヌが食いついた。銀髪の女性はわざとらしく肩を竦めてみせる。
「誰かさんは誰かさんさ。アンタの名前が『グリシーヌ・ダレカサン・ブルーメール』だったら別だけどね。」
「貴様!我が家を侮辱するのか!」
何時ものごとく、売り言葉に買い言葉で小競り合いが発生しそうになった時、再び絶妙の頃合でコクリコが間に入った。
「ねえねえ、さっき話をしていたんだけどさ、ロベリアに『師匠』っているの?」
「…ハァ?シショウ?」
突然の質問に、流石のロベリアも呆けた顔を見せた。そこに気勢を削がれた形のグリシーヌが憎まれ口を挟む。
「ふん、どうせ『アルセーヌ・ルパン』とでも言うのであろう。」
彼女が口にしたのは、仏蘭西人の有名な小説家モーリス・ルブランの著した推理・冒険小説に登場する盗賊の名前だ。変装の名人で、貴族や資本家の館から宝石や美術品を華麗に盗み取っていく怪盗だが、当然のこと文学上の人物である。なお、作者のルブランはこの年62歳で未だ創作意欲衰えを知らず、三年前「ル・ジュールナル」紙に「カリオストロ伯爵夫人」を、そして今年の冬にも同紙にルパンの新作を連載する予定となっている。
グリシーヌの売り言葉だったが、何故かロベリアは買わなかった。滅多にないことだが、心ここにあらずの体で呆然としているように見える。
「…ロベリア?」
普段と異なる様子に、コクリコが思わず声を掛けた。そこでようやく我に返った銀髪の女性は、一瞬で不敵な笑みを作ってみせる。
「…惜しいね、グリシーヌ。アタシの師匠はルパンなんて珍妙な名前の奴じゃない。」
「何と、本当に先生がいたのか!」
「ああ、アタシの師匠の名前はね―」
何時もの調子で勿体ぶった女性に、金髪の少女も思わず耳を傾けてしまう。
「―『マルグリット・ゴーティエ』というのさ。」
グリシーヌは何処かで聞いたことのある名前を二度三度と呟いた。そして、あることに気がついて大声を上げた。
「…それは小デュマの『椿姫』に登場する主人公の名前だろう!」
だが、ロベリアは高笑いだけを残して楽屋へと去ってしまった。からかわれたのだと歯噛みをするグリシーヌの後ろで、コクリコと花火は同じ結論に達していた。
「ああなったら、もう教えてくれないね。」
「はい、絶対に無理ですねぇ。」
楽屋で一休みした後、ロベリアはシャワー室で汗と疲れを洗い流していた。
吐息と共に栓を締めると、無数の水滴が銀色の瞳で彼女を見詰める。暫しの間その只中で佇んでいたロベリアは、不意に言葉を紡いでみせた。
「『師匠』、か…」
今に至るまで、彼女のことをそう呼んだことはなかった。意識してのことではなく、そもそもそういう認識がなかったからだ。しかし改めて言葉にしてみると、何とも言えない気持ちが胸中に沁み渡って、その表現が間違ってもいないことを彼女自身に教えてくれた。
「あれからもう七年も経つんだね…」
その独白は、ロベリアにしては珍しく感傷的な響きを帯びていた。
2.【1919】
満月の蒼い光が降り注ぐ街を、居丈高な警報を響かせて巴里市警の蒸気自動車が疾走していく。大都市とは思えない程暗く沈む大通りを、赤と青の光線で横薙ぎに切り裂きながら。
大通りに再び静寂が戻った頃、漆黒に沈む夜陰から音もなく人影が滲み出る。月光に蒼く浮かび上がるのは、眼鏡を掛けた銀髪の少女だった。
体格や顔の作りから、恐らくは十代半ばにも達していないだろう。しかし、少女が身にまとう擦れた雰囲気と、飢えた獣のように険のある目つきが、実年齢以上に大人びて見えた。
周囲をうかがっていた少女は、遠方から複数の足音が近づいてくることに気がついて大きな舌打ちをした。
「…暇な奴らだ。他に幾らでも仕事はあるだろうに。」
きつい訛りの仏語で毒つくと、溶けるように暗闇へと沈んでいった。
西暦1919年9月―欧州大戦の終結から一年と経っていないこの時期、巴里は未だ大戦の暗い影に覆われていた。
西暦1914年8月4日から始まった欧州大戦は、昨年11月11日の休戦条約締結、そして本年6月18日のヴェルサイユ条約調印により名実共に終結した。
兵として動員された人員七千万人、戦死者九百万人、負傷者に至ってはその数倍―戦争の季節が終わったからといって、諸手を挙げて春を迎えるには余りにも冬が厳し過ぎた。
幸いにも、花の都と謳われる巴里は戦禍に巻き込まれることはなかった。だが、未だに戦争の傷は靄のように街を覆い、夜ともなればその闇を一層濃くしていたのである。
この頃、一人の少女が巴里に流れ着いたのは偶然ではない。大戦の魔手が欧州を蹂躙した結果、人々が暮らす土地は破壊され、各国の経済は衰退してしまった。そんな世界で生きるためには、戦災を受けていない、少しでも大きな都市へと人々の足が向くのは当然の流れだった。
しかし、大都市巴里といえども無限の求人がある訳ではない。特に戦災孤児で、漂泊の民であるロマの元で育った異国の少女に、割りの良い仕事の口などある筈もなかった―但し、表の世界には。
この時13歳の少女が生きるのは裏の世界だった。巴里に流れ着くまでにも、幾つも生きるための犯罪を重ねてきた。だからこの街でも当然裏の世界で生きていくつもりでいた。
だが、それでも所詮は13歳の少女だった。自信があっても経験は足りず、母親から受け継いだ霊力はあってもそれを過信していた。だからこの夜のように、小さな仕事で欲をかいた揚句、市警に追われるような下手を犯してしまうのである。
銀髪の少女が逃走していたのは凱旋門そびえるエトワール広場の北側17区、高級な邸宅の建ち並ぶペレール大通りだった。土地の限られた巴里では集合住宅で生活することが普通で、一軒家を構えられるのは資産家に限られる。モンマルトルに広大な邸宅を構えるブルーメール公爵家などは例外中の例外だった。
息も荒く駆ける少女が目に留めたのは、そんな一軒家の二階に開いた窓と、誘うように艶めかしく揺れる真っ赤な窓掛(リド)だった。
『何て不用心なんだ。』
と少女は思わなかった。彼女は偽善者ではなかったし、今はそれを歓迎する立場にいたからだ。厳しい目つきで周囲を探ると、猫のような敏捷さでその邸宅に逃げ込んだ。
差し込む月明かりで蒼く照らされた室内は、思わず口笛を吹いてしまいそうになる程豪華絢爛だった。寝台に照明、暖炉に家具に絵画―その部屋に存在する物全てに『とても豪華な』という修飾語がついた。その中で唯一、部屋の主だけが不在だった。
空の寝台を眺めている内に、少女の若さが顔を覗かせた。自分が追われているという立場を忘却して、豪華な部屋の物色を始めてしまったのである。
「壷はアイツに売れるな。絵画はアソコに流せば…」
極上の獲物を前にして、少女は明らかに浮ついていた。だから、寝台の脇に置いてあった物に足を引っかけるような失態を犯すのである。
不恰好に転倒した少女は、悪態をついて起き上がろうとした。その時、自分がけつまずいた物を目にして息を呑む。
寝台の横に置かれていたのは木製の棺だった。そして、蓋の開いた棺には中身が入っていたのである。
薄暗闇の中で目を凝らすと、棺に詰まっていたのは大きな鷲鼻の小柄で痩せた老婆だった。豊かな縮れ毛を枕に置き、長く白い寝具をまとい、両手を胸の上で交差させている。
「…くそっ!何だってこんな所にこんな物が置いてあるんだよ!」
少女は強がってみせたが、その虚勢も僅かな間だった。
棺に詰まっていた老婆が、突然むくりと起き上ったのである。少女は頓狂声を上げて後退った。
しかし、当の老婆は不審者の醜態など気に留めなかった。大きな欠伸を披露すると、月光に照らされた少女を寝ぼけ眼に映して思いもかけないことを口走る。
「…あらイヤだ。この私を迎えに来た天使が、こんなに目つきの悪い子だなんて。」
少女はようやく、老婆がただ棺を寝床にして寝ていただけなのだと気がついた。そう思うと自分の醜態も含めて急に腹立たしくなり、相手への言葉も刺々しくなる。
「何だ、死んでなかったのかよ。」
「この通りお話しているのだから生きているに決まっているでしょう。目つきが悪いだけではなく頭も弱いのね。」
老人とは思えない程美しく流暢な声音だったが、内容が内容だけに少女は感動などしなかった。
「…っのテメエ!」
飛びかからんばかりに激昂した正にその時、部屋の扉が音高く叩かれる。
「母さま、母さま、起きていらっしゃいますか?」
声は中年男性のものだった。多分老婆の息子だろうと少女は推測し、返事がそれを裏づけた。
「なあに、私の愛しい息子、大好きなモーリス。あなたのお母さまは、ちゃんとあなたの言葉が聞こえているわ。」
いい年をした子供を猫なで声で呼ぶ親馬鹿振りが滑稽だったが、続く『大好きなモーリス』の言葉に少女は表情を強張らせた。
「母さま、玄関に巴里市警のジム・エビヤン警部補と仰しゃる方がいらしています。何でも、逃走した強盗犯がこの家に逃げ込んだかもしれないと…」
少女は今夜何度めかの舌打ちをした。巴里市警のエビヤン警部補といえば、勤勉で市民からの信頼も厚い警察官である。裏を返せば犯罪者からは大層煙たがられており、少女も幾度となく彼に追われたことがあった。
「あらまあ、強盗犯が我が家にねぇ…」
意味あり気に少女の顔を眺めながら、老婆は言葉を続けた。
「国を愛する私としては、是非とも市警に協力したいところね。ところでモーリス?」
「はい、何ですか?母さま。」
「その警部補さんは、イイ男なのかしら?」
「…」「…」
息子と、そして銀髪の少女も、老婆のとんでもない発言に絶句した。
やや間を置いて、扉の向こうから言い淀む声が流れてくる。
「まあ、その…少々恰幅のよい方でして、見ようによっては人好きする顔に見えないこともない、と。」
モーリスは警部補に最大限の敬意を払ったといえるだろう。だが、愛する息子の真意を読み取った老婆は素っ気なかった。
「あらそう。それでは、警部補さんには丁重にお帰り願ってちょうだい。そんな物騒な人、我が家には来ていないからってね。」
予想もしていない言葉に、少女は声を上げそうになった。了解したモーリスの足音が遠ざかったことを確認してから、老婆に猜疑の視線を向ける。
しかし、当の老婆は誇るでもなく悪びれるでもなく、ゆっくりと寝台代わりの棺から身を起こした。
その時になって初めて、少女は老婆の右足がないことに気がついた。だが、本人は気にした風もなく傍らの寝台に腰を下ろすと、自分よりも遥かに若い少女と向き合う。
満月に照らされた蒼い部屋で、老婆と少女は視線を衝突させる。我慢出来なくなったのは年若い方の女性だった。
「…何だよ。」
「灯り。」
「あ?」
「部屋の灯りを着けてちょうだいと言っているの。幾ら月明かりが差し込むといっても、お顔を見てお話出来る程ではないでしょう。目つきが悪くて頭が弱いだけではなく気も利かないのね。」
「…」
少女は自制心を総動員して口を開かなかった。勿論敬老精神に目覚めたからではなく、今大声を上げれば老婆の息子や未だ近くにいるであろうエビヤン警部補に気づかれてしまうからである。煮え返る内心を必至で押さえつけて老婆の命令に従うしかないのが、現在の少女の悲しい立場だった。
渋々という態度ではあったが、少女は壁に備えつけられた機器を操作した。途端、天井から吊るされた装飾電灯(リュストル)が自らの存在意義を証明する。
その瞬間、少女は幻想を見た。春になって野原一面を花が彩るように、蒼い部屋が極彩色の花に満ち溢れたからだ。勿論、照明によって部屋の豪華な品々が色彩を取り戻したのだと一瞬の内に悟ったが、それらが今まで自分が盗んだ物とは比べようもない高価な代物であることも同時に理解したのだった。
小柄で痩せた老婆は長く白い寝具を身にまとっていた。整ってはいるものの、豊かな赤い縮れ毛と大きな鷲鼻は絶世の美女とは言い難かったが、青い瞳に宿る生気は瑞々しい若さを湛えている。もしもあのよく通る美しい声音で「私は三十代よ」と言われたら信じてしまうかもしれない。
老婆は品定めをする目で侵入者を上から下まで眺めていた。それがひと段落すると、自らの頬に手を当てて、吐息と共に独り言ちる。
「…自分の才能が怖いわ、こんな時にも『画布』を見出してしまうなんて。」
「…は?」
老婆の意味不明な言葉に少女は困惑の声を上げた。それに答えることもなく、老婆は質問を発する。
「あなた、名前は?」
「…ロベリア・カルリーニ。」
銀髪の少女―この時13歳のロベリア・カルリーニは、思わず自分の氏名を名乗ってしまった。本来、このように高飛車な物言いの大人になど絶対に従うことはないのに、何故か答えてしまった自分に唖然とした。
老婆はそんな少女の困惑など意に介さず、失礼で無遠慮な質問を続ける。
「あら、目つきは悪いのに名前は随分と綺麗なのね。それでカルリーニ、あなた年齢は?何処から来たの?強盗犯って何を盗んだのかしら?」
「アンタには関係ないだろ!」
自らの迷いを隠すように、ロベリアは声を荒げた。
「何だよ、アンタは。身の上を根掘り葉掘り聞いたり、アタシを助けたり、一体―」
言葉はそこで途絶えた。老婆が放り投げた枕が、ロベリアの顔面に直撃したからだ。
ゆっくりとはがれ落ちた枕の向こうに少女が見たのは、不愉快極まると書かれた老婆の顔だった。
「ああ、何て傲慢な子なんでしょう!あなたを助けるために、この私が情けをかけたとでも思っているの?」
寝台に腰かけたままの老婆は両手を振り回さんばかりの勢いで怒鳴った。
「私が!私がそうしたかったからに決まっているでしょう!他の誰のためでもなく、この私が望んだからよっ!」
確か自分が老婆を問いただそうとしていた筈なのに、どうして逆に怒られているのだろうかと振り返ってみたが、結局ロベリアには分からなかった。理解出来たのは、取り敢えず老婆をなだめないと息子や警部補に気づかれてしまうということだ。
「…ああ分かった、分かりましたよ。変なことを言って悪かった。だから静かにしてくれ!」
半ば投げやりに謝罪した少女の姿に、老婆は少し落ち着いたようだ。当然とばかりに胸を張ると、生気溢れる青い視線を向ける。
「カルリーニ、あなたが警部補さんの追いかけていた泥棒なのね。」
「だったらどうだっていうのさ。偉そうに説教かい?」
「まさか。」
老婆は素っ気なく言った。
「逆に、この私の家に目をつけたのだから、褒めてあげてもいいくらい。今の今まで、私の元へ盗みに入るような覇気のある泥棒なんていなかったものね。」
「…」
傲慢な老婆の言葉に、ロベリアは微妙な顔をして口を噤んだ。別に目星をつけて忍び込んだ訳ではなく、緊急避難で開いていた窓に飛び込んだだけだったから、何ともいえない居心地の悪さだった。
そんな少女の内心など気にもかけず、老婆は偉そうな口調でとんでもないことを言い放った。
「いいでしょう、その心意気に免じて、特別にこの部屋の中で好きな物をあげる。どれでも選んで持って行くがいいわ。」
どのような意図で老婆がこんな発言をしたのかは分からない。しかしこの一言は、ロベリアの自尊心を大いに傷つけた。
「…ふざけるな!アタシは自分の獲物を自分の力で奪い取るんだ!」
腕を振り回して、少女は声が漏れる危険も忘れて怒鳴った。
その反応に、老婆は口の端に微笑を浮かべて「先ずは合格」と呟いた。若々しい青い瞳で、自分のことを睨みつけている少女に訪ねる。
「あら、意外と矜持を持っていたのね。つまりあなたは、あの『アルセーヌ・ルパン』みたいな怪盗だと言いたいのかしら。」
「…ああ。」
ロベリアは短く答えた。実は老婆の言った『ルパン』なるものを知らないのだが、自分は物乞いのように情けで物を恵んでもらうような人間ではないことを示したかったのだ。
しかし、老婆はまたも素っ気なく断言した。
「無理よ、今のあなたでは。」
「!」
「どうして、という顔をしているわね。いいわ、この私が特別に教えてあげる。」
寝台の上で大きく伸びをすると、欠伸交じりに言った。
「だって、あなたの瞳はとても濁っているもの。まるで私の記憶の底に張りついている、昔の巴里の裏道みたいに。」
絶句したロベリアに向かって、まるで舞台役者の台詞のように語りかける。
「どんな目に遭って巴里まで流れてきたのか知らないけれど、沢山の不条理な目に遭ってきたのね。それであなたの幼い心は、世俗の泥で真っ黒け。」
「…」
「今は矜持を保っていても、このままでは堕ちて行く一方。最後は世間を逆恨みしながら、薄汚い奈落の底を這いずり回るの。今までは人を殺めたことはなかったのかもしれないけれど、そう遠くない日に…」
「五月蝿い、五月蝿いっ!黙れと言ったら黙れよっ!」
怒りのためか、それとも心の奥底に沈む漠とした不安を言い当てられたからなのか、ロベリアの顔は紙のように白くなっていた。
「アンタにアタシの何が分かるっていうんだ!大体―」
そして、少女は先程言いそびれた言葉を口にする。
「―大体、アンタは何者なんだよ!」
ロベリアにとっては感情に任せて口をついた言葉だった。ところが、老婆は大変な衝撃を受けたようである。大きく目を見開くと震える声音を発した。
「…何ですって?」
「ハァ?」
「カルリーニ、あなた今何と言ったの!?」
「何って、アンタは何者なんだと…」
「あなたまさか、この私のことを知らないのではないでしょうね!?」
初めて会ったんだから知る訳ないだろうと内心で毒ついたが、それを公言すれば無知であることを自ら認めるような気がして、銀髪の少女は不満げに口を噤む。
老婆はそれを無言の肯定と解釈したらしく、嘆かわしいとばかりに大仰な所作で寝台に倒れ伏した。
「嗚呼、何てことなの!この私のことを知らないなんて!」
大袈裟に嘆く老婆を前にして、少女は今夜何度目のことか途方に暮れた。これではまるで、老婆のことを知らない自分が悪いみたいではないか!自分が振り上げた拳の落とし所も分からず、少女は大きなため息をついた。
暫くの間、寝台の上で神さまだか女神さまだかの名前を唱えていた老婆は、ようやく小柄な身体を起こした。
しかし何を言うでもなく、わざとらしく吐息をつき、佇む少女に恨みがましい視線を射るものだから、ロベリアの居心地の悪さは最高潮に達した。
「…何だよ!本当に知らないんだから仕方がないだろ!」
「仕方がない?あなたが巴里に来てまだ間もないから?」
「どうしてそんなことを知っている!?」
「その不細工な仏語を耳にすれば幼子でも分かるわ。まるで酔っぱらった歌手みたい。」
「…」
酷い例えに少なからず傷ついた少女だったが、老婆の方も傷心振りでは負けていなかった。
「カルリーニが何時巴里に来たのかなんてどうでもいいの!そんなことを別にして、世界にまだ私のことを知らない人間が存在することが大いに不満だわ!」
「…嘘だろ?」
老婆のとんでもない言い草に、ロベリアは呆然となった。偉そうな奴だとは思っていたが、まさかここまで物差しが違うとは!
『一体何者なんだ、このバアさん。』
この時になってはっきりと、ロベリアは老婆に興味を持っている自分を自覚したのである。
銀髪の少女は自身の気持ちを悟らせないために咳払いをすると、卑屈にならないよう気をつけながら赤毛の老婆に問い掛けた。
「…ああ、その、何だ、名前を知らなくて悪かったな。今からでもいいから教えてくれよ。」
「それが人にものを聞く態度なのかしら?礼儀知らずにも限度というものがあるでしょう。」
ロベリアは思い切り苦虫を噛み潰したが、口に出してはこう言った。
「…ゼヒ名前を教えて下さい。オネガイシマス。」
相手が下手に出たので、老婆の自尊心は少しだけ満足したようである。少女に向かって鷹揚に頷いてみせた。
「まあ、そこまで言うのなら教えてあげようかしら。無知な子ども戒めるのも、良識ある大人の大事な役目ですものね。ああ、頭の弱いあなたのために敢えて言うけれど、無理に覚えようと努力する必要はないわ。耳にしたその瞬間から魂に刻み込まれて、永遠に忘れられなくなるから。」
そう高言すると、小柄な老婆は百万の民を見下ろす皇后のように傲然と胸を張った。
「私の名前はサラ・ベルナール!現世に降臨した『美の女神(ミューズ)』、『神聖なるサラ』とは他の誰でもない、この私のことよ!」
寝台という舞台の上で、彼女は陶然と両手を広げてみせた。
こうして謎の老婆の正体が判明した訳だが、少女が感動の涙を流すことはなかった。相変わらずの尊大な態度に唖然としていたし、何より名前を聞いても知らない事実は変わらなかったからだ。
『サラ・ベルナールねぇ…何処かで耳にしたことがあるような気はするんだけれど。確か舞台女優の名前だったかな?』
曖昧な表情の裏でそんなことを考えたロベリアの眼前では、サラの機嫌が急降下していた。多分、伝説の大女優を目の前にして少女が感涙に咽んでいないことが大いに不満なのだろう。
老婆はグリム童話の『灰かぶり姫』に登場する意地悪な義姉の口調で言った。
「カルリーニ、私があなたに点数をつけてあげる。」
「は、点数?まあ、くれるって言うならもらうけどさ、一体何点頂けるんだい?」
赤毛の意地悪姉さんは、捻くれた銀髪の灰かぶり姫に冷え冷えとした声を投げる。
「五点ね。頭が弱いあなたのために補足してあげると、百点満点で五点だから。」
「ご…」
サラの傲慢な態度に慣れ始めたロベリアも絶句する低評価だった。もっとも、今夜の彼女は老婆に押されっぱなしの振り回されっぱなしだったから、どれだけ点数が低くても反論出来ない。
不機嫌な顔をして黙り込むロベリアを、老婆は改めて寝台から見下ろした。
「私ね、あなたみたいな子を見ていると我慢ならないの。」
「…何だよ。目つきが悪いからか、それとも物を知らないからか。」
「勿論それもあるわね。」
あっさりと肯定してみせた老婆は、声音に本気の怒りを含ませた。
「でもそれ以上に、自分が持っている才能を知りもせず、ドブに捨てようとしているところが最高に腹立たしいわ。」
「…才能だって?」
老婆の視線には様々な色が含まれていた。赤色の怒りと、空色の憐れみと、そして紫色の嫉妬と―様々な感情がない混ぜとなって、言いようのない力強さを湛えている。
「華麗に活躍する人はね、才能という名の画布に自分だけの絵画を描けた人。どれ程絵を描くことに自信があったとしても、画布がなければ表現出来ないものね。」
「…それが何だっていうのさ。」
「私にはね、人を見る目があるの。」
臆面もなくサラは言い放った。
「この私には分かるの、あなたはとても大きな画布を持っているって。それなのに、埃に塗れてすっかり薄汚れさせている。それがとっても口惜しい。」
ロベリアは困惑していた。サラが何を言いたいのかさっぱり理解出来ないのだ。
「全く訳が分からないよ、バアさんは何が言いたいのさ。」
少女の理解力のなさに呆れた老婆だったが、二度三度か細い首を振るとため息交じりに独り言ちた。
「…無知なところは大きく減点だけど、まあいいわ。取り敢えず矜持だけはあるようだし、ここまで駄目な子がどんな絵を描くのか、それを見るのも一興かしら。」
「オイ、何ブツブツと勝手に話を進めているんだよ。」
不穏な気配を感じ取って慌てる少女など関係なく、老婆はとんでもないことを口にした。
「決めたわ、この『神聖なるサラ』があなたのことを教育してあげる。格別の計らいに末代まで感謝なさい。」
「…ハァ!?」
今夜最大の驚きに、ロベリアは思わず声を上げた。
「冗談じゃない!このアタシに足を洗えっていうのか!?」
「私はすっかり汚れた画布を綺麗にして、絵の描き方を教えるだけ。そこに何を描くのかはあなたの勝手。」
そして、止めとばかりにきっぱりと言い切った。
「いいことカルリーニ、この私が決めたことなの。あなたの返事は『はい(ウィ)』以外有り得ないわ。」
サラらしい言い草に、ロベリアは反論の余地がなかった。人生経験の差というより格の違いだろう。
結局、夜明け前に彼女の邸宅を後にするまで、未熟な泥棒少女は傲慢な老婆に押されっぱなしのままだったのである。
勿論、ロベリアはサラの元に行くつもりなど毛頭なかった。あの不愉快極まる我儘な老女のことなど、綺麗さっぱりと忘却する心算だった。
しかし一夜が過ぎ、満月が欠けても、少女の中でサラの印象は薄らぐことがなかった。ある時など、夢に現れた老女優の癇癪でうなされることもあったくらいだ。
また、彼女の部屋に並ぶ豪華絢爛な調度品を目にして、これまで自分が狙っていた物―ひいては自分自身の物差しの小ささを痛感してもいた。
「サラ・ベルナールか…本当に何者なんだ、あのバアさん。」
そう独り言ちたロベリアは、口では不平不満を呟きつつも、サラのことを調べるために腰を上げるのだった。
◇
アンリエット・ロジーヌ・ベルナール、後のサラ・ベルナールが巴里に生まれたのは西暦1844年10月22日のこと。歴史的な視点で見るとナポレオン一世が没してから23年後で、オルレアン家ルイ・フィリップによる七月王政の後期にあたる。巴里には象徴となるエッフェル塔の姿もなく、それどころかオスマン男爵による大改造前の、暗く、狭く、不潔な、旧態依然とした都市だった頃である。
寄宿学校と修道院で教育を受けた後、16歳の時に国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)へ入学。俳優修業に励んだ二年間の後、伝統と権威のある国立劇場コメディー・フランセーズにてデビューを飾る。以降、幾つかの劇場を渡り歩く間に女優としての才能が開花し、三十六歳で遂に自前の劇団を結成した。
以降、積極的に世界巡業へ出かけ、欧州や英國、米國は勿論、時には南米にまで足を運ぶことまであった。
上演中の怪我が元で71歳の時に右脚切断手術を受けたが、不屈の精神力で欧州大戦の兵士慰問として北部戦線を回り、野戦劇場に出演している。
数多くの演目で主役を演じたサラだが、その中でも代表作といえば『椿姫』の女主人公、悲劇の高級娼婦(クルティザーヌ)マルグリット・ゴーティエであろう。青年貴族アルマン・デュヴァルとの運命的な出会いと悲劇的な別れを描いた舞台で、1880年の紐育公演で彼女が初めてマルグリットを演じて以降、三十年間に渡り『椿姫』でサラを超える女優は存在しなかったとまで評されるはまり役となった。
余談となるが、『椿姫』は世界中で舞台化されており、西暦1923年春には大日本帝國の帝國歌劇團でも『椿姫の夕』という演目名で公演されている。その時にマルグリット役を演じたのは16歳の神崎すみれで、相手役のアルマンを19歳のマリア・タチバナが務めた。少女歌劇團という特徴もあるのだろうが、実に瑞々しいマルグリットとアルマンである。
西暦1919年に75歳を迎えた老女優だが、彼女の演劇への情熱は衰えることなく、未だに舞台に出演しては観客から喝采を浴びていた。
また、サラは舞台女優という枠に囚われなかった。自らも彫刻を彫り、書物を著している他、多くの芸術家と交わり、新人を発掘し、彼女自身が無数の美術品の対象となった。
彼女と交流のあった芸術家を集めると、それだけで何冊もの美術書が完成する。ほんの一部を抜粋しただけでも、ヴィクトル・ユゴー、大デュマ、小デュマ、ジョルジュ・サンド、マルセル・プルースト、ジョルジュ・クレラン、ゾラ、エミール・ガレ、ルネ・ラリックと豪華絢爛な面々が並ぶ。もしも彼女の信奉者や崇拝者まで含めたとしたら、同時代に生きた著名人の過半数が該当してしまうだろう。
新人発掘では特に有名な逸話がある。
西暦1894年、人々の心が浮き立つノエルの頃。当時五十歳のサラは翌年演じる舞台の広告作成を印刷業者に依頼した。ところが、時期が時期だけに著名な図案家は皆休暇中だったのである。
そこで仕方なく、消去法で白羽の矢が立ったのが、チェコ出身で芽の出ない、三十代半ばの画家志望の男性だった。突然の大役に慌てた男性だったが、それでも必死になって実物大の見本を作り、それを偉大な女優へと献上した。サラは一目見て、そこに偉大な芸術の才能を見出し、後にその男性と六年もの契約を交わすのである。
男性の名前はアルフォンス・マリア・ミュシャ。この時手掛けた『ジスモンダ』の広告が出世作となり、彼は一夜にしてアール・ヌーヴォーの旗手となった。
芸術家としてのサラ・ベルナールは生きながらにして『美の女神』『神聖なるサラ』と称される存在だった。
では、果たして一人の人間としてはどうだったのであろうか?
彼女の出生証明書には母親であるジュリ・ベルナールの名は記されているものの、父親は『姓名不詳の某氏』となっている。つまりはジュリの私生児としてこの世に生を受けたのがサラだった。
ジュリは地位が高く、財布の中身を気にしなくともよい紳士たちの愛人を生業としていた。そんな日々に幼子など迷惑以外の何ものでもなく、幼少時のサラは母親の元を離れて、里子として彼方此方を転々と暮らしていた。その後も母の元に戻ることなく、八歳の頃に巴里郊外の寄宿学校に入学し、その二年後には修道院へと転入している。ジュリが母親としての責務を果たしていたのかについては様々な意見があるのだろうが、幼少期にほとんど母の愛情を受けなかったことが、サラの人格形成に少なからぬ影響を与えたことは確かである。
舞台女優のデビューが、彼女の『伝説』の始まりとなった。
先輩女優を平手打ちして劇場を追われ、割りの良い年棒を提示されたら契約が残っているのに移籍してしまう。そうかと思えば「支配人の固い頭にはカビが生えているわ!」と三行半を突きつけて、勝手に辞めてしまう有様だった。その支配人は、彼女のことを「反逆娘(マドモアゼル・レヴォルト)」と呼んだという。
自分の劇団を結成したのは『自分の好きな舞台を、自分の好きなように演じたいから』、頻繁に海外巡業へ出掛けたのは『お金が儲かるから』。自身の破滅的な散財を補うのに、金銭は幾らあっても足りないのだ。
また、彼女は恋愛についても『非常に積極的』だった―好意的な表現をするのならば。
一人息子のモーリスはベルギー王室に連なる王子との熱烈な恋愛の末に生まれた私生児だった。サラは『愛は友情への最短の道』とばかりに、お眼鏡にかなったあらゆる―それこそ男女を問わない―人々を豪奢な寝台へと招き入れた。
時には交際していた男性に『役者の才能があるわ!』と言い出して、演じていた有名男優を放り出して自分の相手役に据えることまであった。
その生涯に渡り、彼女は道徳的な規範とは無縁だったのである。
サラはまるで心に空いた隙間を埋めるように、貧欲にあらゆるものを求め続けた。それは物に留まらず、地位や名誉、尊敬、称賛、他者からの愛情まで含まれていたのである。
気に食わなければそっぽを向き、褒められたら陽気になる。自分より共演者が称賛されると嫉妬したし、愛息が結婚することを喜ぶ半面、自分の元から離れてしまう寂しさに表情を曇らせる。
それはどこまでも自分の心に忠実な、地に足のついた『人間』そのものだった。
◇
女神のような神秘性と、皇后のごとき傲慢さを兼ね備えたサラ・ベルナール。その強烈過ぎる個性は、引力のように人々を引きつけてやまない。それはロベリア・カルリーニとて例外ではなかった。
「…とんでもないバアさんだな。」
サラの疾走する半生を振り返ったロベリアは呆れたように呟いた。それは彼女らしい称賛の台詞だった。
結局、ロベリアはサラに指定された日の真夜中に彼女の部屋を訪れるようになった。本人の言葉を借りれば「バアさんの顔を立ててやった」ということになる。ちなみに、老婆の返事は「当然」の一言だった。
偉大な椿姫は国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)仕込みの演技や所作、そして仏語の正確な発音に至るまでを徹底的に泥棒少女へ教え込んだ。
「どうしてこんな簡単なことが出来ないの!」
「あのな、今教わったばかりなんだぞ。そんなに早く出来る訳ないだろ!」
「いいえ!この『神聖なるサラ』が直々に教授しているのだから、出来ない方がおかしいわ!」
「もう我慢出来ないね!その高慢ちきな口を今夜こそ叩けないようにしてやる!」
「やれるものならやってごらんなさい!あなたに世界の芸術を敵に回す勇気があるのかしらね!」
「この傲慢ババア!」
「頭の弱い小娘!」
互いに堪忍袋の緒が脆いこともあって、熱の入った指導の末に取っ組み合いまで発展することも度々だった。
時には、泥酔したサラがロベリアに向かって愚痴をこぼすこともあった。
「あの劇評家の目はガラス玉よ!どうして私の記事より、若さしか取得のない素人娘のおままごとが評価されているの!」
「ハイハイ…」
「カルリーニだってそう思うでしょう!いえ、私が思っているのだからそうに決まっているわ!」
「ヘイヘイ…」
「それからあの舞台だってそう!」
「…バアさんもう寝ろよ。」
また、サラが気紛れの極みのような女性だったから、突然指導が中止になることもあった。
「カルリーニ、今夜は止めにするわ。」
「ハァ?一体何でさ。」
「私の気が乗らないからよ。」
「…」
「分かったら、早く帰ってちょうだい。明日の演技に影響が出たら、世界の芸術にとって大損失よ。」
そんな時、少女は『契約不履行による賠償』とばかりに、老女優の邸宅から年代物のワインを一本だけ失敬するのだった。
椿姫と泥棒少女の不思議な交流は一年余り続いた。
サラの審美眼に狂いはなく、ロベリアは驚くべき速さで上達した。課題に出した所作を正しくこなした時、遂にサラは手を叩いてみせた。
「まあ、こんなものでしょう。後何年か私の下で修業に励めば、『神聖なるサラ』の相手役くらい勤まるかもしれないわ。」
「冗談じゃない、アタシは一生分の忍耐を使い果たしたよ。暫くは顔も見たくないね。」
こうして泥棒少女は、椿姫の元を『卒業』したのである。
◇
以降、ロベリア・カルリーニは自らの画布に『犯罪』という華麗な絵を描き続けることになる。
不幸な身の上の泥棒少女は、凡百の犯罪者が堕ちる奈落の淵に立ちながらも、悠然とその場所に佇み続けた。それが少女の存在を独特なものにして、遂に『巴里の悪魔』という異名を与えられるまでに至る。
それは、家柄に頼ることなく、人生という限られた舞台の上をその極限まで豪華絢爛に舞ったひとりの女性の生き様に触れたことと、或いは無関係ではないのかもしれない。
けれども、彼女との交流も含めて、本人の口から真実が語られることは生涯なかった。
3.【1922~23】
仏蘭西国の北西部、大西洋に大きく突き出たブルターニュ半島に、仏語で「美しい島」という名を持つベル島はあった。後年避暑地として名を知られる島だが、西暦1922年9月の時点では茫漠たる空と蒼い海だけが世界を支配する土地である。
そんな島の岬に一軒の別荘が建っており、濃紺の海を見はるかす庭があった。そこに設えられた椅子に、頬杖をついた一人の老婦人が腰かけて、ただぼんやりと視線を彼方に投げていた。その様は優雅に景色を眺めているようにも、また疲れ果てて呆然としているようにも見える。
そんな庭に、海鳥以外の客が訪れた。草を踏み、石を蹴る音に老婆がゆっくりと首を向けると、視線の先に一人の少女が立っていた。
夏だというのに深緑色の外套をまとう銀髪の女性は片手を上げると、無遠慮に老婆へと歩み寄る。
「久し振りだね、バアさん。相変わらず偉そうだな。」
「あら、誰かと思えば『巴里の悪魔』じゃない。目つきが悪いのは相変わらずなのね。」
毒舌を毒舌で返された少女―ロベリア・カルリーニは、不敵な笑みを浮かべると長い足を組んだ。
「さすがは天下のサラ・ベルナールだ。このアタシにそんな口をきくのはバアさんくらいのもんだよ。」
この時16歳のロベリアは、三年前サラの前に立った少女とは様々な意味において別人だった。女性として美しく成長し、流暢な仏語を話し、態度には実績に裏打ちされた自信が満ちている。世間の評価も一介の泥棒から、国中に名を轟かせる怪盗へと成長していた。
今や『巴里の悪魔』と聞けば泣く子も黙る。しかし老婆―サラ・ベルナールは怯む色など微塵もなかった。冷たい視線を投げると、未だ衰えぬ黄金の声が飛ぶ。
「勧めもしないのに勝手に腰かけるなんて、齢を重ねても礼儀知らずは直らないのかしら。」
「礼儀だって?そんな仏語、誰かさんから教わらなかったけれどね」
「あら、この私の傍にいれば黙っていても身につくものよ。私の愛しい息子、大好きなモーリスを見ればよく分るでしょう。」
「それは『反面教師』というのさ。ムッシュ・ベルナールの苦労を察するよ。」
対等に言い合えるようになったのも、一つの成長の証だろう。
反論されたことが気に障ったのか、老女優は不愉快そうな視線を向けた。
「随分と『ご活躍』しているようね。新聞であなたの名前を目にするわ。」
「バアさんから教わったことが役に立っているよ。鼻の下が長いバカ貴族には特にね。」
「それは結構。でもね、そんな『巴里の悪魔』がこんな離れ小島にいるなんて、とても滑稽。」
「大きい仕事が終わって、チョイと休暇を楽しもうと思ったのさ。この島にバアさんの別荘がある筈だから勝手に使おうと来てみたら、まさか当の本人がいたとは予想外だったよ。」
ロベリアは憎まれ口で嘘をついた。彼女はサラが滞在していることを承知の上で、ベル島を訪れたのだ。
今年で77歳になるというのに、サラは舞台に出演することを止めなかった。昨年秋の公演では尿毒症を発症して数日間の絶対安静を命じられたにもかかわらず、老女優は今年に入ってからも複数の公演に出演していたのである。そのことを聞き知っていたロベリアは、流石に体調を気遣って様子を見に来たのだ。
ところが、サラはロベリアの配慮など無用とばかりに背筋を伸ばす。
「カルリーニ、あなた歳は幾つになったの?」
「まだ婆さんよりは若いね。」
「あらそう。それなら早く、いるべき場所へと帰りなさい。この私があなたくらいの頃は、寝食を忘れて国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)で勉強をしていたわ。その若さで休みが欲しいだなんて百年早い。」
サラの容赦ない言葉に、ロベリアは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「フン、相変わらず偉そうなバアさんだ。三年経っても直りゃしない。」
「私は70年以上これで生きてきたの。変わることも、変える必要もないわ。」
サラらしい台詞に、ロベリアは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「ああそうかい、分かりましたよ。小娘は大人しく帰るとするさ。」
銀髪の少女はそう言うと、立ち上がって踵を返した。
ところが、背を向けたまま首だけを老女優に向ける。
「ああそうだ、帰る前に一つだけ教えてくれよ。初めて会った時、アタシの点数は五点だったよな。今のアタシには何点くれるんだい?」
サラはロベリアを一瞥すると、素っ気なく言った。
「そうね、オマケして五十点をあげる。」
銀髪の少女はくぐもった笑い声をあげた。
「十倍になったといえば聞こえはいいが、まだ半分と考えれば手厳しいじゃないか。一体何が足りないんだい?」
サラは重々しい口調で語った。
「カルリーニ、あなたには『愛』が足りないわ。」
「…ハァ?」
老女優の突拍子もない発言に、少女は頓狂声を上げた。
「確かに、あなたはその歳で名を揚げている。でも、それで半分よ。身を焦がすような、心が滅茶苦茶になるような、そんな恋愛を体験してようやく残りの半分。あなたが好い男か愛児を連れて来たら、改めて点数をつけてあげる。」
無数の恋愛遍歴を重ねたサラらしい台詞である。
「やれやれ、何かと思ったら男かよ。それでやっとバアさんと同じになる訳だ。」
呆れてみせた少女に、老女優は憐みのこもった視線を放った。
「全く、あれだけ教えてあげても頭の弱いところは直らないのね。この私の点数が『百点』程度で済む筈がないでしょう。」
「…何だって?」
「この私の点数は『百万点』よ!天使だろうと悪魔だろうと、何人足りとも私には追いつけないわ!」
大自然を背景として、片足の老女優は傲然と胸を張って言い切った。
暫し呆然としていたロベリアは、次第に笑いを込み上げると、最後に大笑した。
「ああ、そうだ。それでこそ天下のサラ・ベルナールだ。バアさんはそうじゃなくっちゃな。」
気の済むまで大笑いしたロベリアは、今度こそ本当に踵を返した。この調子なら百歳まで大丈夫だろう。迎えにきた死神だって呆れて帰るに違いない。
銀髪の少女は背を向けたまま片手を振る。腕の鎖が左右に振れて、周囲に鈍い色を撒いた。
「じゃあな。次に会う時は、バアさんが嫉妬するようなイイ男を連れて来てやるよ。」
「さようなら、カルリーニ。次に会うときは、私に男を取られない程度には好い女になっていなさい。」
互いに視線を交わすことなく、歳の離れた二人の女性は淡泊な別れを交わした。
そして―それが二人の永別となった。
◇
その年の暮れ、南仏と伊太利亜の巡業を終えたサラは、次の舞台の総稽古中に激しい悪寒に襲われた。以前患った尿毒症が再発したのだ。
しかし、それでもサラは、回復しない体調をおしてハリウッド映画出演の契約を結んだのである。
西暦1923年3月中旬、撮影はペレール大通りに建つサラの邸宅内にセットを組んで行われた。
卓に腰掛けた老女優は衰弱して、普段にも増して小柄に見えた。ところが撮影開始の合図があった途端、『女優サラ・ベルナール』が復活する。姿勢を正し、両目には精気が宿り、その雰囲気に周囲は圧倒されるばかりだったという。
だが、それは生命の蝋燭が最後に見せた瞬きだった。その直後、ついに疲労困憊で倒れたサラは、そのまま自室の寝台に運ばれたのである。
日々衰弱していくサラの様子を世界中の新聞が報道した。また、生ける伝説が身罷る瞬間に立ち会おうと、群衆が彼女の邸宅の前に集まり始める。
寝台に横たわるサラは、枕もとの愛息に優しげな声をかけた。
「私の愛しい息子、大好きなモーリス。窓の下に新聞記者はいるのかしらね。」
「…うん、何人かはね。」
それを聞いた老母は、彼女にしか出来ない、皮肉に満ちた、それでいて皇后のように傲慢な微笑を浮かべた。
「やつらはね、今までずっと私につきまとって苦しめたわ。だから今度は、寒い外で待ちぼうけさせてやるの。まだ世界中に私を待っている人がいるのに、あの世になんて行けるものですか。」
実に彼女らしいその台詞が、サラ・ベルナールの最後の言葉になった。
西暦1923年3月26日午後8時5分、愛息モーリスの腕に抱かれて、サラ・ベルナールは天に召された。享年79歳だった。
サラが生前、ロベリア・カルリーニという稀代の大悪党についてどのような感想を抱いていたのか、残念ながら公式な文献には記録がない。
しかし次のような挿話が、息子であるモーリスの家に伝わっているという。
―ある日のこと、サラは不愉快な顔をして新聞を放り捨てた。モーリスが拾い上げると、その一面には大きくロベリア・カルリーニの記事が載っている。そのことを妻のマリー・テレーズに話したモーリスは、最後にこんな私見をつけ加えて苦笑した。
「母さまは多分、自分より目立っていることが気に食わなかったんだよ。つまりはそれだけ意識していたのさ。」―
◇
巴里では、サラの棺を先頭にした葬列が三日間に渡り続いた。偉大な女優の死を悼む百万人もの群衆が見守る中、棺はペール・ラシェーズ墓地に安置されたのである。
その群衆の中に、ロベリア・カルリーニの姿はなかった。彼女は沿道に建つアパルトマンの屋根に独り腰かけて、無言で葬列を見詰めていた。海のように深い後悔の藍色か、霧のような寂しさの白色か、炎のごとき怒りの赤色か―感情を消した表情からは、ロベリアが心の画布に何色の絵を描いて葬列を眺めていたのかは伺えない。
サラの棺がロベリアのいるアパルトマンの前を通った時、少女は無言で一輪の椿を放った。花は掛け声や涙声の間を縫うように落下し、無言で棺の上に舞い降りる。
その時、既に少女の姿は屋根の上から消えていた。
4.【再び、1926】
西暦1926年9月の早朝、巴里は爽やかな日差しの中にあった。昼間には残暑が伸しかかるとしても、朝夕は涼気がのんびりと散歩を楽しんでいる。秋の声はまだ聞こえないけれど、夏は確実に過ぎ去ろうとしていた。
モンマルトルの東に位置する20区、メニルモンタンのなだらかな傾斜地に造られたのがペール・ラシェーズ墓地である。巴里最大の墓所で、著名人たちが数多く眠ることから観光名所の一つでもあり、また緑も豊かで市民の憩いの場ともなっていた。昼間は人々の賑やかな声が流れるそこも、この時刻では野鳥たちが呑気に語り合う声が響いている。
とそこに、二つの人影が現れた。一人は黒髪の年若い男性で、もう一人は銀髪で長身の女性だった。
「悪いね、隊長。朝からつきあってもらってさ。」
「いや、今日は休演日だし、特に予定もないから構わないよ。」
「そりゃそうか、アンタに逢引き(ランデブー)なんて艶っぽい予定がある筈ないからね。」
大笑する銀髪の女性―ロベリア・カルリーニに苦笑を返した黒髪の男性―大神一郎は、周囲を見渡して改めて問いかけた。
「それにしてもロベリア、誰かのお墓参りかい?」
「まあ、そんなものさ。」
何時もの感情を読み取れない表情で答えると、それ以上説明を加えることなく歩みを進める。大神はそんなロベリアの態度に慣れた様子で並んで歩いた。
広大な墓地の中程でロベリアは立ち止った。彼女の目の前には、ギリシャ神殿も模したお墓が設えられており、その墓石には『SARAH BERNHARDT 1844 1923』と彫られている。決して質素ではないのだが、生前の彼女からすれば控え目に過ぎる造りだろう。
その名前を目にした大神がロベリアに話しかけた。
「サラ・ベルナールって、あの大女優の?」
「何だ、知っているのかい?」
「ああ、『椿姫』のマルグリット役で有名な人というくらいだけれど。以前帝劇でも『椿姫の夕』という公演したことがあったからね。」
「…東の果てまで名前が知られていると聞いたら、きっと喜んだだろうさ。」
「ロベリアは、生前の彼女と知り合いだったのか?」
「さてね。女の過去を聞くなんて野暮はおよしよ。」
はぐらかせたロベリアは、黙って一輪の椿と一枚の公演広告を供える。
広告には、女優の一人としてサフィールの姿があった。果たして、紆余曲折の末舞台に立つ今のロベリアを見たら、サラはどう思うのだろうか。
自分の教えたことが役に立って満足している?
歓声を浴びる彼女の姿に喜んでいる?
『まさか、あのバアさんがそんなタマなものか。』
ロベリアは一笑にふした。
きっと不機嫌そうな顔をして、『アソコが駄目』『ココが稚拙』と駄目出しをするに決まっている。あの皇后のように絢爛で傲慢な女性は、自分以外の存在が称賛されることを快く思う筈がないのだ。
それでも、ロベリアの画布には心地好い透明色の涼風が吹き抜けていた。以前本人に向かってに言ったように、それでこそ天下のサラ・ベルナールなのだ。彼女は何時でも、自分勝手で傲然と胸を張っていなければならない。
「…そうとも。それでこそ、このアタシの『師匠』じゃないか。」
ロベリアがぽつりと呟いた言葉を、並んで立っていた大神は耳にした。しかし、それを問い質すような野暮な真似だけはしなかった。
「さて、と―」
ようやく口を開いたロベリアは、隣に立つ大神に意味有りげな視線を向けた。怪訝な顔をする男にニヤリと笑みを浮かべると、突然彼を羽交締めにする。
「なっ!何をするんだ、ロベリア!」
「なあに、取って喰おうって訳じゃないよ。それに、たまにはこんな場所も悪くないだろ?」
「『たまには』って、何を言ってるんだ!」
慌てる大神の様子を楽しそうに笑ったロベリアは、そっとサラの墓所へと目を向ける。
『どうだい、この男は。バアさんの悔しがる顔を見られないのが残念だよ。』
銀髪の女性が胸中に呟いた時、墓石に添えられた一輪の椿が僅かに揺れた。涼風に吹かれたのか、それとも主が地団駄を踏んでいるのか。
かつての泥棒少女はその姿を想像して、『師匠』である椿姫と同じ色の笑みを浮かべた。
了