太正十八年一月。
昨年の夏より続いた根来幻夜斎なる怨霊との戦いも、さくらの活躍によって終止符が打たれた。
勝利と皆の無事を祝いすみれの別邸で行われたパーティーから大帝国劇場に帰った後、大神は独り支配人室にいた。
椅子にもたれ掛かりながら、幻夜斎と再会した先日の夜の事を思い出していた。
月組隊員に乗り移って、大神の前に現れた幻夜斎。
どうにも嫌な予感に襲われて、咄嗟に隅田川に飛び込んだお陰で幸いにも軽傷で済んだけれども、あのまま幻夜斎の手に落ちていたらと思うとぞっとする。
幻夜斎は誰にでも憑くことが出来るのだ。
自分が憑かれない保障などない。
もし憑かれてしまっていたら、その手で愛する人を傷付けてしまっていたかもしれない。
否、手に掛けてしまっていたかもしれない。
そんな事をするくらいなら自らに刃を突き立てていただろうと大神は思う。
ふと机上に置かれた写真立てに目を落とす大神。
それは前総司令米田一基が置いていったもので、米田を隊長とする陸軍対降魔部隊の写真が収められている。
その写真の中で美しく屈託ない笑顔を見せる女性。
藤枝あやめ特務中尉─前帝撃副司令であり、米田と共にこの帝撃を作り上げたひとであり、大神にとって忘れがたい想いを遺したひとでもある。
あやめとの別れは突然訪れた。
その時の事は昨日のことのように今でも鮮明に覚えている。
空には紅い月が不気味に輝いていた。
魔神器を抱え、葵叉丹に寄り添うように立つあやめ。
苦悶と恍惚の間にあった彼女の口から発せられた言葉。
『大神君、…撃って!!』
それは、あやめの最期の哀しい願いだった。
指が震えて引き金を引けなかった自分。
そんな自分にあやめは最期に笑って言った。
『いつまでも、自分を偽らない大神君でいてね…』
それが、憧れ恋い焦がれ続けたそのひととの別れだった。
今、無性にその事を思い出したのは、自分もきっと大切なものを守る為に同じ事をすると思ったからなのだろうか?
あのひとと同じように自分も言うのだろうか?
『俺を撃て』と─。
─…それがどれほど残酷な事かを解っているとしても。
『コンコン』
ドアをノックする音。
「支配人、いらっしゃいますか?」
ドア越しに聞こえてきたその声に自然と笑みが出る大神。
「ああ、マリア。開いているよ」
「はい。失礼します」
静かに開くドア。
「夜分遅くにすみません。支配人のお部屋を訪ねたらお留守だったので…」
「それは済まなかったね」
「いえ。それより、お怪我の方はいかがですか?」
大神の腕に巻かれた包帯を見ながら、マリアが言った。
「大丈夫。こんなのかすり傷だよ」
心配顔のマリアに笑ってみせる大神。
「そうですか?」
「ああ」
再度頷く大神。
「…隊長」
大神の返事に安堵の表情を浮かべた後、一瞬間を置いてマリアが言った。
その表情は曇っているように見える。
「なんだい?」
「…あの時…、幻夜斎の刀に貫かれた隊長を見た時です…。その場に崩れ落ちていく隊長を目の当たりにして頭が真っ白になりました」
静かにそう話し始めたマリアの肩が震えている。
それは普段は毅然と花組をまとめ上げる彼女の大神の前でだけ見せる姿だった。
「あの時と同じ光景でした…。目の前で崩れ落ちていく大切なひと。そばにいたのに、守り切れなかった自分。あの一瞬、何が起きたか解りませんでした」
マリアの脳裏には故郷ロシアでのあの光景が甦っていた。
レジスタンスとして政府軍と戦った日々。
そして、敬愛した隊長ユーリー・ミハイル・ニコラーエビッチとの突然の別れ。
砲火に怯えて引き金を引けなかった自分。
目の前で弾丸に散っていくユーリー。
マリアの目の前に絶望が広がったあの瞬間。
「マリア…」
悲痛な表情でそう言ったマリアのそばに歩み寄る大神。
「アイリスの声で私はどうにか正気を保つことが出来たんです。そうでなければ、私は、倒れているあなたの元に駆け寄っていました」
「マリア…」
俯くマリア。
「あなたは…、ご存知ですか?私があなたを失うことをどれほど恐れているかを…」
そう大神を見つめるマリア。
そのマリアの視線を真っ直ぐに見つめ返して大神が言う。
「…マリア、君に謝らなくてはならないことが二つある。一つは、無茶をしたことで君に心配を掛けたこと。もう一つは…君に酷いことをしてしまっていたかもしれないことだ」
険しい表情の大神に場の空気が張りつめる。
「…君が来る前、俺はここであやめさんの事を思い出していた」
「あやめさん…ですか?」
予期せぬその名に顔を上げるマリア。
「ああ…。もし、俺が幻夜斎の手に落ちていたらどうしていただろうと考えていた。俺は─、自らの手で君を傷付けてしまうことを恐れていたんだ。だから、もし…俺が奴の手に落ちていたら─」
その大神の言葉に、大神が何を言わんとしているのか察したのか、大神の言葉を遮るようにマリアが言う。
「!隊長…!」
それでも構わずに続けようとする大神。
「自分がまだ在るうちに、君に…、俺を撃てと命じていたかもしれない」
「それがどんな事なのかあなたが一番良く解られているじゃないですか!」
低く、唇を噛み締めるようにマリアが大神を責める。
「…あなたは…勝手です…」
「そう…。俺は勝手だった。間違いを犯すところだった。…でもね。斬られたあの瞬間、内心ではホッとしていたんだ。もうこれで、自ら君に刃を向けることはなくなったんだと…」
「………」
フッと一つ息をついて、言葉を続ける大神。
「だが、そう思いながら消せない思いがあったのも確かなんだ。もう君を抱きしめることが出来なくなってしまうこと、君の背中を守れなくなってしまうことへの悔しさと憤りを感じていた。もう死ぬかもしれないって時に、君と生きていたいと痛切に思った。潔くなくても、生き足掻こうと思ったんだ。矛盾ばかりだな」
自嘲気味に笑いながら、大神が言った。
「…あなたは、本当に勝手ですね。それでも、私はあなたを嫌いになることが出来ないんです。─生きていて下さって良かった…本当に…」
そう小さく微笑むマリア。
その微笑みに失いかけていたものの重さを改めて知る。
「─君には頭が上がりそうにないな…」
苦笑の大神。
「そう思われるのでしたら、もう二度とあのような事は仰らないで下さい」
「ああ。約束する」
「そのお言葉、信じてもよろしいんですね?」
頷いた大神に、念を押すようにマリアが問う。
「疑うのかい?」
「あなたを失いたくないからです」
大神を見つめるマリア。
マリアを見つめ返す大神。
本当に心の底から失いたくないと思う。
「…俺も君を失いたくないって、ただそれだけだったんだ。でも、その事で結局君を傷付けてしまった。この先も俺は間違いを犯してしまうかもしれない。それでも、君にそばにいて欲しいって強く思う。やっぱり、俺は勝手なんだな」
「先ほど言ったじゃないですか。それでも、私はあなたを嫌いになれないって」
先ほどと同じようにそう笑うマリア。
「…マリア、ありがとう」
マリアに頭を下げる大神。
「大神さん、ありがとうございます」
マリアも大神に倣うように頭を下げる。
「?何だい?」
マリアのその行動に疑問の大神。
自分はどんなに礼を尽くしても足りないが、自分はマリアに礼を言われるような事はないと思っていたからだ。
マリアがそんな大神に言う。
「いつでも、私の事を想って下さる事です」
マリアのその言葉に一層の愛しさを覚える大神。
「大したこと無いさ」
「それじゃ、私も同じです」
「結局、俺たちの想いは同じなんだな」
「今更ですよ?大神さん」
「ああ。そうだね」
どちらからともなく近付いて。
想いが時には、眼を曇らせてしまったりしても。
想いで時には、強くなれたり。
だから。
─一層、君想う。