「素敵な晩餐」紐育 はる様


 その街には夜が存在しなかった。
勿論世界中の都市と同じように太陽は昇り、そして沈む。だが、そこは陽が摩天楼の彼方に姿を隠そうとも、鮮やかなネオンの光と雑多な人々の声が翳ることはなかった。
だが、昼間にも影が生ずるように、この街にも深い深い夜陰が存在する。
現在―西暦一九二七年冬。
アメリカ合衆国の東に位置し、帝王州(エンパイア・ステート)の異名を持つ大都市紐育。
そこで暮らす多くの人々の夢と希望、そして欲望に沸き立ち、様々な矛盾を内包しつつも空前の繁栄を謳歌しているのだった。

 紐育の中心にあるマンハッタン島。名前の通りその中央部に位置するミッドタウンに店を構える高級レストラン。店内は明度を抑えた照明で、各テーブルの上に置かれたランプが視界の中でほのかに浮かび上がる。どの卓上にも豪華な料理が並び、ランプの揺らぎに合わせて複雑な影を揺蕩わせていた。
客の口から紡がれるのは景気の良い話ばかりだった。あちらではヤンキースのベーブ・ルースが遂に六十本のホームランを打った話、こちらでは購入した株が値上がりし続けて笑いが止まらない話、そちらでは買い換えた蒸気自動車の自慢話―彼らは現在のアメリカ合衆国の明るい部分を端的に証明してみせていた。
その店のひと際奥、特別席の美しいランプは卓上に並ぶ豪華なディナーと3人の客の姿を上品に照らし出す。だが、卓上に並ぶ料理にはどれも手が付けられていなかった。
腰にまで届く金髪と涼しげな碧眼を持つ妙齢の美女は、控え目な溜息をつくとミネラルウォーターが注がれたグラスをテーブルに置いた。青いスーツを着こなし、テーブルマナーにも寸分の隙がない女性は控え目な溜息をつく。
彼女がお酒を飲んでいないのは信条だから―という訳ではない。この高級レストランは元より安さが売りのセルフサービス店、更に合衆国中の飲食店全てで同じ光景が出現していた。

―今、この偉大なる大国は『禁酒法』施行の真っ直中にあった。
法律で禁酒を規定した「合衆国憲法第十八条修正条項(通称『禁酒法』)」が全土で施行されたのは西暦一九二〇年一月のこと。それ以降、この国では0.5%以上のアルコール分を含む飲料を醸造、運搬、販売することが犯罪となった。
これは国民に清教徒が多いという宗教的なものから、酒場に入り浸る夫を持つ女性の訴えという家庭的なもの、更に政治に影響力を持つ独逸系業者への反発という政治経済的なものまで様々な理由が存在したからなのだが、当時の政治家の弁を借りれば『合衆国民を不健全不健康なアルコールの害毒から救う』ための法律ということになる。つまりは人の善意と理性の間に生まれた輝かしい子供であり、後にこの法律を「高貴な実験」と呼んだ大統領までいた。
だがしかし、既にこの子供が「とんだ不良息子」であることが万人の目に明らかとなっていた。『禁酒法』は後世の歴史に残る程の大失敗となってしまったのである。
法律施行後、紐育の酒場の総数は約一五〇〇軒から二十倍の三万軒に激増した。『スピークイージー』と呼ばれる違法酒場では粗悪な密造酒が売られて健康被害者が続出し、飲酒運転の逮捕者は五倍以上に膨れ上がった。酒の密造密売で莫大な利益を得た犯罪組織はその利権を巡って争い、禁酒局の職員や一般市民を巻き込んで多数の被害者を出すなど治安まで悪化した。
失敗の原因は色々とあった。法律自体に大きな不備があったこともあるが、とどのつまり、総じて人間というものは神さまにも聖人にもなれない俗な生き物だったということだ。個人的に理性的な者はいるのだろうが、自由の国に生きる大多数の者は『お酒くらい自由に飲みたい、禁止されたら余計に飲みたい』のである。
今年二八歳になったシカゴの青年アルフォンス・カポネ(アル・カポネ)は密造酒の利益などを元に『暗黒街の帝王』として君臨し、後に彼と対決することになる『アンタッチャブル』エリオット・ネスは財務省に勤務する二四歳の若き職員でしかない―西暦一九二七年とはそんな時代でもあった。

丁寧に磨かれたグラスの表面に、不機嫌そうな別の女性の顔が映る。
「…児童労働法って知ってるかい?」
黒い男物のスーツを着こなし、同系統色の髪を後ろにまとめた長身の黒人女性は、隣に座るブロンドの美女を睨みつけた。ワーキングウーマンとしての凛々しさと、女性としての美しさを両立させた彼女の顔には『不機嫌』と筆記体で記されている。
「『紐育星組』については、クライアントであるサニーサイドの頼みとあれば断わるつもりはないよ。」
その女性は紐育でも屈指の実業家であり、若くして巨万の富と地位を得たマイケル・サニーサイドの名前を出した。
「でもね、法を守れないとなれば話は別だ。何でこんな子供が仲間なのさ!」
突き付けられた指の先には、もう一人の小さな顔があった。
艶やかな烏羽色の髪を襟元で揃えた人物は、全てが目の前の女性と対照的だった。小柄で、東洋系の黄色い肌を持ち、その中性的な顔に浮かぶのは能面のような無表情だった。
彼女(或いは彼)は、手の中にある扇子をぱちりと閉じると、まるで目の前の女性を無視するかのように呟く。
「…戦場には不要な職業が幾つかある。その最たるものは教師と弁護士だ。」
「なっ…!」
気色ばんだ女性を気にした風もなく、烏羽色の髪の人物は視線を隣に向けた。
「ラチェット、素人を戦場に上げようなんて君らしくもない。僕は帝都と巴里から隊員を派遣するよう具申した筈だが。」
その小柄な人物はブロンドの美女をラチェットと呼んだ。
かつてブロードウェイの女王と称えられ、来年一月にオープンを予定している新しい劇場『リトルリップ・シアター』の記念すべき第一回公演に出演することがニューヨーカーの話題となっている女優ラチェット・アルタイルは意味有り気な視線を質問者に返す。
「あら、昴はレニや織姫と組みたかったのかしら。」
旧知の名前を出されて、烏羽色の髪の人物―能楽の家元でもある日本人、九条昴は僅かに目を細める。
「昴は思った。彼女たちは性格に問題がありすぎるけれど、戦士としても舞台人としても十二分な技量を有している、と…。素人の弁護士より遥かに増しだ。」
昴の冷たい言葉を浴びて、黒髪の女性は怒りの余り立ち上がった。椅子の倒れた音が静かな店内に響き渡り、他の客たちの視線が無粋な女性に集る。
「座りなさい、サジータ。冷静な判断力があなたの職業には必要な筈よ。」
ラチェットから静かに諭された黒髪の女性―ハーレム地区に法律事務所を構える弁護士サジータ・ワインバーグは、大きな溜息をつくと再び椅子に腰掛けた。
怒りが収まらない彼女にノンアルコールのシャンパンを勧めると、ラチェットは冷静な視線を昴に向けた。
「その件についてはサニーサイドに伝えたわ。でもね、帝都は蒸気機械暴走事件後の備えがあるし、巴里も別の事件に関わっていて割ける人員はない。それに―」
ラチェットは自らのグラスを掲げた。そこには何処か釈然としない顔をした自分の顔が映っている。
「彼女たちでは紐育星組の隊員になれないそうよ。理由は教えてくれなかったけれど、昴やサジータにはあって帝都や巴里の隊員にはないものがあるのかもしれないわね。」
「サニーサイド…。あの男、また何か隠しているのか。」
扇子を口に当てて思案する風の昴に、しかしラチェットは毅然と告げる。
「それはともかく、サジータに充分な霊力があることは確認されているし、彼女が星組隊員となることは既に確定した事項よ。司令がお決めになったことに異議があるの?」

―高級レストランの特別席に座る3人。彼女たちは霊的存在から都市を守るべく、東京、巴里に続いて設立される霊的都市防衛組織『紐育華撃団』の戦闘部隊『星組』の隊長と隊員となる者たちだった。
総司令長官として実業家マイケル・サニーサイドが就任し、拠点となるリトルリップ・シアターは翌年一月一一日の落成を目指し急ピッチで作業が進められている。主力装備となる霊子甲冑も、試作機である『スターⅣ型(FENICS X‐4Si/シルバースター)』を完成させ、変形機構を備える斬新な機体『スターⅤ型』、そして武装飛行船『エイハブ(FENICS C‐1001)』の開発も順調に進行中である。
これで後は紐育星組が機能すれば万全なのだが、現在のところその点が最大の障害となっていた。

星組隊長となるラチェットから問われた人物は、冷たい光を宿す黒い瞳だけを質問者に返した。
「昴は言った。僕は一度も反対はしていない、と…。ただ個人的な意見を述べただけだ。」
直後、グラスをテーブルに戻す高い音が響いた。
「さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言いやがって。アンタ何様のつもりだよ!」
再び、昴は視線だけを正面に戻した。
「昴は問う。君は戦場に立ったことはあるのか、と…。」
冷えた視線と突然の言葉に、サジータは僅かに鼻白んだ。
「そんなこと、あるわけないだろ…。大体、それはアンタだって同じ―」
「昴は言った。同じではない、と…。僕とラチェットは『欧州大戦』に参加している。」
「…そんな馬鹿な。ジョークにしても程があるだろう。」
サジータは信じられないという風に両手を広げてみせた。

―欧州大戦は西暦一九一四年六月二八日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が自領ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の首都サラエボで愛国者の青年G・プリンチプの手により暗殺された『サラエボ事件』が間接的引金となって発生した世界規模の大戦争である。
当初「(その年の)クリスマスまでには終わるさ」と楽観視されていた戦争はしかし、瞬く間に国家経済を総動員する総力戦へと発展し、最終的には西暦一九一九年六月十八日の巴里講和会議におけるヴェルサイユ条約調印まで続くことになった。その約五年間の間、主な戦場となった欧州は鉄と血の暴風に蹂躙され、旧態然とした体制と共に約九〇〇万人もの生命までが吹き飛ばされた。
この未曾有の大戦にアメリカ合衆国も『参戦』している。但し、独逸帝国に宣戦布告したのは西暦一九一七年四月六日のことであり、それまでは人型蒸気「スタア」シリーズの大量輸出などあくまで戦争『協力』国であった。これはモンロー主義(欧米両大陸の相互不干渉を主張する外交政策の原則)に沿った方針だったが、結果として北米大陸が戦場になることもなかったのである。

紐育のハーレム出身であるサジータ・ワインバーグが戦場に出ることも戦禍に巻き込まれることもなかったのは至極当然のことだった。何より現在二十歳の彼女は欧州大戦開戦当時まだ七歳であり、ヴェルサイユ条約調印時点ですら十二歳の子供だったのである。
それなのに、同い年で更に女性であるラチェット・アルタイルだけではなく、どう見ても自分より年下にしか見えない九条昴までも欧州大戦に参加したという。サジータが信じられないのも無理はなかった。
昴は肯定も否定もしなかった。ただ扇子を口に当てて、無表情にサジータを見返す。
「君が信じるかどうかは関係ない。それによって事実が変わるわけでもない。ただそれだけの差が厳然として存在しているということだ。」
「…つまり何だ、経験のないアタシじゃアンタのお眼鏡にかなわないって言いたいのかい?」
「それも違う。君には始めから期待していない。」
暴言をさらりと言ってのけた昴は、余りの言葉に二の句が継げないサジータを前にして椅子から立った。小柄なため、立ち上がっても座っている時と大差のない高さだったが、ランプに照らされた顔は心が冷たくなりそうな程に寒々しい無表情だった。
「戦場も舞台も、ラチェットと僕がいればそれでこと足りる。君は僕たちの足を引っ張らなければそれで充分だ。」
言いたいことだけ言うと、昴はもう用は済んだとばかりに退席しようとする。その小さな背中に、ラチェットは言葉を投げかけた。
「待ちなさい、昴。今夜は隊員同士の懇親を兼ねてのディナーなのよ。」
「昴は言った。僕は独りで食事をとる主義だ、と。」
肩越しに答えた昴は、返事を待たずに店から出て行ってしまった。
その後に続くように、サジータも席を立つ。
「ラチェット、アタシも帰らせてもらうよ。全く最低なディナーだ!」
今度はラチェットも声をかけなかった。
独りだけのテーブルで、手のつけられていない豪華な食事を前に、美女はそっと溜息を漏らした。

 西暦一九二八年九月。季節は盛夏の頃を過ぎたとはいえ、夜になっても昼間の熱気が残るくらいには未だ残暑だった。まるで数日前にハドソン川上空に出現して、妖気の炎を撒き散らした悪念将機ENTENの怨念がこの地に留まっているかのようでもある。
その日、摩天楼の空は雲一つない夜空が広がっていた。街灯りを映しての明るい空だったが、それでも等級の高い星が疎らに瞬いている。
夜空より暗い海とライトアップされた自由の女神が見渡せるベイエリアの建設途中のビルの上で、九条昴は独り星を眺めていた。
建設作業員も去り、小さな不法侵入者しかいない筈の高所に、もう一つ別の靴音が響く。
昴は顔を向けることなく口を開いた。
「珍しいね、サジータ。君がこんなところに来るなんて。」
「…何で分かったんだよ。別に脅かすつもりはなかったけどさ。」
鉄骨の上を危な気なく歩いてきたサジータ・ワインバーグは驚きの声を上げた。
「そんなに重い足音をたてるのは君くらいだ。また少し増えたんじゃないのかい?」
「…本っ当に可愛くないね、アンタは。」
渋い顔をしながらも、サジータは昴の隣に腰掛けた。そのまま黙って持参していた紙袋を差し出す。
思わず受け取った昴が開くと、中からは未だ湯気が立つ肉まんが現われた。
「チャイナタウンで買ってきたんだ。冷めたら美味くないよ。」
そう言うが早いか、サジータは自分の分を頬張った。強引な彼女に呆れた顔をしつつ、昴も黙って口に運ぶ。
暫くの間、肉まんを咀嚼する音だけが辺りに聞こえていた。
それがひと段落すると、今度はコップが差し出された。何処のストアでも売っていそうな安いコップに、無造作に赤い液体が注がれる。
顔に近づけて、昴は意味有り気な視線を隣に向けた。
「サジータ、『禁酒法』って知っているかい?」
「つまらないジョークだね。何でも完璧な人間なんていないもんだ。」
気にしない風で、自らのコップに瓶を傾ける。そこには仏蘭西産の年代物赤ワインであることを示すラベルが貼られていた。
「安心しなよ、これはサニーサイドから貰った物さ。『ビバ!ハーレム』の成功と、悪念将機撃退の褒美としてね。」
『禁酒法』は飲酒自体を禁止していないため、多くのお金持ちは法の施行以前にお酒を買い溜めして自宅で楽しんでいた。資産家であるマイケル・サニーサイドもまた、大量のアルコール飲料を確保していたのである。
コップを合わせると、澄んだ音が夜の空気に響く。一息にあおり飲んだサジータは満足気な嘆声を上げ、口内で味を堪能した昴は控え目な吐息を漏らした。
手酌で杯を重ねたサジータは、軽く酔いが含まれた声で昴に話し掛ける。
「色々あったけどさ、星組も随分と形になってきたよ。あの会食の時には考えられないくらいだ。」
「…もう酔ったのかい、サジータ。昔話なんて君らしくもない。」
「昔話って、あれからまだ一年も経っていないじゃないか。そう考えれば大したもんだよ。」
「…確かに、舞台も戦闘も様になってきている。それは素直に認めよう。」
酔った素振りすら見せない昴は遠くを眺めながら答えた。サジータは夜陰に浮かび上がる自由の女神にコップを掲げて片目を閉じてみせる。
ふと、当時の会食の様子を思い出したサジータはからかうように呟いた。
「これで少しは、『厳しい先輩』のお眼鏡にかなったかな?」
「…僕の視力は正常だ。眼鏡による矯正は必要ない。」
しれっと答えたその横顔に、意地の悪い視線が注がれる。
「やっぱりジョークの才能ないよ、アンタは。あの澄ました奴の口から、まさかそんなつまらない言葉を聞く日が来るとはね。」
当時の会食の様子を思い出してくくと笑いを漏らすサジータを、昴は冷たい視線で一瞥した。しかしその頬には僅かな赤みが差している。
「君もすっかり変わった。あの石頭からワインを勧められる日がくるとは思わなかった。」
二人はようやく視線を交わすと、サジータは豪快に、昴は控え目に笑った。黙って差し出すコップに、再びワインが注がれる。
海から吹く風は涼気を含み、昼間の残暑を気持ちの良い空気に入れ替えていく。
帝王州の片隅、建設途中のビルの上。
そこに並ぶのは数個の肉まんと数本のワイン。
昨年とは比べようもない程質素な夕食はしかし、どんな高級レストランにも勝る素敵な晩餐だった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です