【プロローグ】
その名前の由来通り、初夏の太平洋は穏やかな表情をしていた。有明の空は柔らかに青く広がり、彼方には巌のような雲の峰が連なっている。東方の水平線近くでは旭日が輝き、海原に銀の砂を撒き散らしていた。昼間は茹だるような酷暑となるそこも、今の時刻に吹く風は涼気すら感じさせる。
洋上に白い1本の線が走っていた。西へと伸びるその線を尋ね行くと、何時しか黒煙を棚引かせる舟に辿り着く。
近付けば、その船は甚だ巨大だった。
全長163.3米、船幅20.1米、総頓数12,000頓という大きな貨客船は、船首を西へ西へと向けて海原を進んでいく。
甲高い汽笛の音が、穏やかな洋上に響き渡った。その独特な音色に誘われるように、豪華な貨客船の船内から多くの船客が甲板上へと姿を現す。そして遥か彼方に霞んで見える雄大な山容を指差して、歓声とも安堵ともつかない声を上げるのだった。
―アメリカ合衆国ワシントン州のシアトルを発ってから約2週間余り、『北太平洋の女王』と称えられる日本郵船の新造船氷川丸は、日本最初の寄港地横濱まで後数刻という位置まで迫っていた。
◇
多くの船客から一足遅れ、和服を着た子供連れの夫人が息を弾ませて甲板に上がってきた。本当ならば彼女も早く富士山の姿を目にしたかったのだが、はしゃぎ回る子供を追いかけている間に頃合を逃してしまったのだ。
「…。」
霞の向こうに浮かぶ霊峰の姿に、夫人は言葉を呑んだ。貿易を生業とする夫と共に渡米して以来十数年、久方振り見る祖国の風景だった。
思わず落涙しそうになるのを堪えて、夫人はアメリカで誕生した娘に、母の故郷を象徴する山を見せてあげようとした。
そして、先程とは別の理由で言葉を失うことになる。
未だ幼い娘は、母親が手を放した隙に甲板通路を走り回っていたのだ。感動も一瞬の内に霧散した夫人は、船客の間を縫うようにして子供の後を追い掛けることになったのである。
見失った子供の姿を捜し求める夫人が、通路際に佇む女性に気が付いたのはある意味自然なことだった。
少し癖のある髪を背中まで伸ばし、肩が剥き出しの涼しげな洋服を着て、膝下まであるスカートを履いた美しい女性は、他の船客たちのように騒ぐでもなく、時折日本の地を一瞥しながら、胸にかかるペンダントを玩んでいた。その様子はとても幸せそうであり、そしてどこか寂しそうに夫人には見えた。
彼女のことを夫人は見知っていた。いや、船という限られた世界で時を共有した人々全員が女性を知っていたと言っても過言ではないだろう。
彼女は色々な意味で、この氷川丸では有名人だった。
◇
夫人が彼女と最初に出会ったのは、甥の結婚式に参加するため乗船した氷川丸での一等談話室だった。
室内は仏蘭西国マーク・シモンズ商会の手により流行の最先端であるアール・デコ様式で贅沢に装飾されている。そこにはゆったりとしたソファーが配され、着飾った紳士淑女たちが話しに花を咲かせていた。
この談話室は一等船客のみが入室を許される特別な場所である。異国で成功を収めた商社社長の令夫人である彼女はここにいる充分な資格を有していたけれど、大人の社交場に子連れでは些か居心地が悪かった。元々船内の散策ついでに寄っただけなので、早々に退室しようとした時、入れ違いに入室してきたのが彼女だった。
夫人はひと目で、その若い女性がとても魅力的であることに気が付いた。すらりと伸びた手足、均整の取れた体、目鼻立ちの整った顔立ち―そして何より、動きやすい簡素な服装と薄化粧でありながら、その場にいるどの婦人よりも優雅な雰囲気を纏っていた。
「Excuse me(失礼)」
室内にいる紳士たちと同じく、思わず見惚れてしまった夫人に流麗な言葉を掛けて、彼女は脇を通り過ぎていった。振り返った夫人の目に映ったのは、我先にと彼女に席を勧める紳士たちと、完璧な礼節で彼らをあしらいながら、給士に飲み物を頼む美女の姿だった。
それ以後も、夫人は船内の各所で彼女の姿を見かけることになった。一度くらいはと子供を隣接する託児所に預け、アール・デコの装飾も美しい一等ダイニングサロンの硝子扉を開けば、紳士の誘いを適当に応対しつつ独り食事をする彼女が座っていた。オープンテラスに子供と出てみれば、太平洋を独り眺める彼女の元に、入れ替わり立ち替り幾人もの男性が訪れては、肩を落として去っていく様が見られた。
更に彼女には、自身の容姿の他にも周囲の耳目に触れる要素が幾つかあった。
若く美しい女性は、何故か船内を出歩く時に何時も小さな鞄を携行していた。食事の時も、デッキに佇んでいる時も、彼女は一時たりともその鞄を手放すことがなかったのである。暇を持て余した紳士淑女たちが、彼女の鞄の中身を巡って賭けをしていたのは船内で公然の秘密だった。
そして、何と彼女は一等の中でも更に上等である一等特別室の船客だったのである。
その部屋は船内という限られた空間にありながら、リビングルームの他にベッドルームや専用のバスルームまで備えていた。装飾も美しい照明器具、ステンドグラスで彩られた窓、壁面装飾から壁紙までを薔薇の花をイメージしたデザインで統一された、豪奢でありながらも落ち着ける室内。西暦1932年に乗船した世界の喜劇王チャーリー・スペンサー・チャップリンや日本の皇族など、一部の限られた人間を客とする特別室が、この航海では彼女を部屋の主として迎えていたのである。
『蜜蜂を独占する一輪の花』『今を盛りと輝く夏の太陽』といった風情の彼女に当然他の淑女たちからの評判は芳しくなかった。しかし、丁重ながらも他人を遠ざけ、どこか寂しげに独り過ごす若い女性に、夫人は憚りながらも同情的だった。
◇
思わず彼女の姿に見入っていた夫人は、次の瞬間に顔を凍らせることになった。何時の間に移動したのか、デッキ通路の向こう側から元気良く走ってきた娘が、こともあろうに彼女にぶつかって転んでしまったのだ。
「ああ、I beg your pardon! I’m ashamed for my daughter’s actions.(失礼しました!子供が粗相をして申し訳ありません。)」
泡を食って彼女の元に駆け寄ると、転倒して泣いている女の子は、しゃがんであやしていた女性の元から母親の手の中へと飛び込んでいた。叱りながらもなだめる母と、その胸で泣きじゃくる子供を目にして、彼女は優しげに微笑む。
「良かったね、ママが来てくれて。」
夫人は再び驚くことになった。笑みを浮かべた彼女の顔は、思っていたよりもずっと幼く見えた。今日に至るまで彼女の年齢は二十歳くらいだろうかと想像していたが、ひょっとすると十代半ばを数年過ぎた程度かもしれない。そしてそれ以上に、彼女の口から流れ出た日本語は、驚く程流暢だったのである。
我が子を胸に抱いたまま、間の抜けた感じで女性―美しい少女を見詰めていた夫人に向かい、彼女は再び微笑んでみせた。
◇
「…あの、その、に、日本語がとてもお上手なのですね。それ程巧にお話が出来る方はシアトルにもいませんでした。」
明らかに年下の少女に向かって、夫人はおずおずと尋ねた。
夫人と少女は甲板の縁に並んで、近付いてくる日本の風景を遠望しながらとりとめの無い話をする機会を得ることになった。豪華貨客船上での会話とはいえ、それぞれ片手には娘の手と小さな鞄を握りながらであったけれど。
「毎日日本語を話す機会があったものですから。自然と慣れ親しみました。」
微笑と共に語った言葉は、発声から語調までほぼ完璧だった。声だけを聞けば日本人だと勘違いすること請け合いだろう。
「ええと…に、日本にはお仕事で?」
「はい、そうですね。ただ―それだけでもないんですよ。」
潮風になびく髪を片手で押えた少女の横顔は、何処か遠くを見詰めていた。
「私にとって、日本は特別な国なんです。一度は訪れてみたいと思っていたので、今回その願いが叶いました。」
少女がどんな仕事で来日するのか、そして彼女にとって日本が何故特別な国なのか。その点に興味が無いでもなかったが、それを訪ねても恐らく答えが返ってこないであろうことを夫人は察していた。彼女はもう、聞いても良いことを区別出来る大人だったのである。
問いを発したのは、夫人の方ではなかった。
「あの、一つだけ…お聞きしてもよろしいですか?」
次の話題を思案していた夫人の耳に、少女の声が響いた。我に返ると、慌てて首を縦に振る。
「見ればお子さまと二人の船旅のようですね。ご主人はシアトルに?」
唐突な質問ではあったが答えるのに難しい内容ではない。夫人は内心で安堵した。
「ええ、良人は向こうでの仕事があって、今回は留守番です。」
「…そう、ですか。」
少女は僅かに目を伏せた。指先が無意識に銀のペンダントに触れる。
「太平洋を挟んで離れ離れですが、寂しくなることはないのですか?」
夫人は小首を傾げると、古拙の微笑を浮かべる。
「勿論そう思う時もあります。でも、何となく近くいるようにも感じるのですよ。姿が見えないだけで、直ぐ隣に立っているような…。ごめんなさい、上手くは言えませんけれど。」
眩しそうに夫人の顔を見詰めた少女は、黙って日本の風景へと目を逸らした。ペンダントを強く握り締めて、ここには存在しない誰かと心で語らっているかのように、無言のまま甲板に立ち尽くしている。
夫人も余計な言葉を掛けることなく、傍らで静かに故国を眺めていた。
端から見て、それは本来の年齢通りの関係に見えた。
◇
横濱で下船するという少女と別れて、夫人は娘と二人甲板に残った。彼女たち親子の目的地は神戸なので、後数日間氷川丸での船上生活が続くことになる。
約2週間余りの期間で会話をしたのは僅かな時間だったけれど、少女は夫人の心に強いい印象を残した。つい先程まで泣いていたとは思えないくらい元気な子供に向かって夫人は語り掛ける。
「あの方はきっと女優さんなのですよ。おそらく日本の何処かの劇場から招かれて来日されたのでしょうね。ひょっとしたら、帝都で大人気という帝國歌劇団の舞台に立たれるのかもしれませんよ。」
言葉を理解しているのか分からないけれど、子供は母親を見上げて楽しそうに笑った。
その笑顔と少女の哀しそうな微笑みが脳裏で重なる。
「…あの子も、あなたのように笑える日が来ると良いですね。」
その時、氷川丸の汽笛が再び甲高く鳴った。
それはもう直ぐ日本最初の寄港地、横濱に着船することを知らせる音色だった。
1
右手に大きな旅行鞄、左手に小さな鞄を持った少女は、氷川丸を下船してようやく日本の地を踏んだ。初夏の陽は埠頭に濃い少女の影を映したけれど、彼女は暑さを気にする風もなく大きく深呼吸をした。
『ここが日本か…何だか空気が柔らかい。こういう中で育つから、日本人は優しくなるのかしら。』
珍しそうに周囲を見渡しながら、少女は胸中に呟いた。
彼女が降り立った横濱港は活気に満ち溢れていた。港のあちこちに赤煉瓦の倉庫が建ち並び、さながら生き物のように貨物をその巨大な体内へと飲み込んでいく。遥々日本まで来た客や旅立つ人を歓送迎する人々の歓声が響き、貨物船から荷揚げされた荷物を荷揚人足たちが声を上げて運んでいる。その脇を港湾関係者が走り回り、蒸気貨物車と衝突しそうになって大声で怒鳴りあっていた。まるで季節の熱気がこの地に下りてきたような騒々しさだったが、少女はこの雰囲気が嫌いではなかった。
「迎えが来ている筈だけれど…。」
独り言ちた少女の目に、辺りとは一線を画す空気を纏った人々が自分に近付いて来るのが映った。
その3人の男は蒸し暑い中だというのに揃いの黒い背広を身に着け、顔にはやはり揃いの黒い帽子とサングラスを着用していた。揃っていないのは体型で、長身から短身まで綺麗に3段階に分かれており、その横幅も身長に反比例して3段階だった。
彼らは少女の前に立つと、中肉中背の男が代表して彼女の氏名を確認した。少女が肯定の返事を返すと3人は一斉に敬礼する。
「我々は賢人機関から派遣された者です。あなたをお迎えに上がりました。」
やはり中背が代表して言うと、懐から手帳のような物を取り出し開いて見せた。そこには円の中に丸が3つ配置され、それぞれが直線と曲線で結ばれている賢人機関の印と、中背の顔写真及び氏名が記されていた。後ろに控える長身痩躯と短身巨躯が示した身分証にも同様のものが書かれている。
「ではこちらへ。ここでは人目に付きますので…。」
中背の丁寧ながらも有無を言わせぬ言葉に、少女は黙って旅行鞄を長身に預けると、肌身離さず持ち歩いている鞄一つで彼らの後に付いていた。
◇
少女が案内されたのは、横濱税関施設として西暦1913年に竣工された1号倉庫内の一角だった。赤煉瓦で造られた倉庫の中は貨物や資材が山を成しており、とても全景が見渡せるような状態ではない。
そんな倉庫の片隅まで少女を案内すると中背は振り返った。
「ここならば人目に付かないでしょう。それでは、先ずこちらで荷物の方をお預かりします。それから汽車にて帝都にご案内いたしますので。」
そう慇懃に言って、恭しく両の手を差し出した。その背後では長身が緊張した風に黙って直立し、短身がうんざりとした表情で溢れる汗を拭っている。
「判りました。では、こちらを―」
少女は微笑と共に、手に持った小さな鞄を前に掲げる。
だが、中背もぎこちない笑みを浮かべて鞄を受け取ろうとした刹那、少女は突然手を上げた。肩透かしを食らった格好となった中背に向かい、少女は不満の籠った声を発した。
「その前に、約束の『報酬』はどうしたのですか?」
「ほ、報酬…ですか?」
唖然とした様子の中背に、少女は更に不満気な顔を作る。
「ええ。無事に荷物を日本まで届ければ頂けると、サニーサイド司令から確約を頂いた報酬です。まさか…用意されていないですか?」
少女の不審そうな問い掛けに、黒服の中背は狼狽えながらも首を振った。
「いえいえ!ちゃんと準備させていただいておりますとも!しかし、現金をここまで持って来るのは些か無用心ですので、報酬は帝都の方にご用意してあるのです。後程、きちんとお渡し致しますので、この場ではどうか…。」
平身低頭する中背につられて、後ろの二人も慌てて頭を下げた。
「―そうですか。よく分かりました。」
その言葉を聞いて、少女は満足そうに微笑んだ。そして持っていた鞄をゆっくりと男たちに差し出す。
今度はしっかりと掴み取ろうとした中背は、だがしかし、再び両手で空を掴むことになった。
高く掲げられた鞄と笑みを浮かべたままの少女を見比べて、黒服はどうにか不機嫌そうな声を抑えた。
「…どういうことですか?先程、確かに分かったと―」
「はい、大変よく分かりました。」
「ならば何故こんな真似を?」
「ですから、あなたたちが荷物を渡す相手ではないと分かったからですよ。」
その言葉に中背は絶句した。長身は無言でひと筋の汗を垂らし、短身は手巾を床に取り落とす。
中背は二度三度酸欠の魚のように口を開閉させた後、どうにか声を絞り出した。
「…先程、身分証を提示したではありませんか。我々は間違いなく賢人機関から派遣された者です。それを何故そのように―」
「はい、確かに確認しました。刻印も入っていたし、間違い無く正式な身分証でした。でも、あなたたちはこの鞄を手渡す相手ではありません。」
「だから、何故だと聞いているんだ!」
遂に堪忍袋の尾が切れた中背は唸り声のような言葉を発した。だが、言われた方は先程からの表情を何一つ変えていなかった。
「だって、私の報酬は『現金』などではありませんから。それだけであなたたちが相手ではないと証明するのには充分ですよね。」
三人の黒服は揃って唖然とした。だらしなく口を開いていた中背は、長身に肩を軽く叩かれてようやく我に返る。
「…お前、俺たちに鎌をかけたのか。」
「そんな人聞きの悪い、ほんの少し用心しただけです。」
落ち着いた声音で答えた少女に、中背は今度こと本当に唸り声を上げた。そんな彼の背中を短身が強く叩く。
「ああ、分かっている。計画イを計画ハに変更する!」
宣言すると、黒服たちは一斉に少女から距離を取った。同時に懐へと手を入れると、今度は手帳ではなく黒く光る自動拳銃を取り出した。
「計画遂行に想定外の事態はつきものだが、結果が同じならば何ら問題は無い。さあ、その鞄を床に置いてもらおうか!」
三丁の拳銃に狙われて、ようやく少女の表情が変わった。しかしそれは笑みの意味が異なるだけの僅かな変化だったので、黒服たちには判別出来なかった。
「あなたたちは、私が誰だか分かっていて銃を向けているのですか?」
「ああ、今ここに霊子甲冑も無く、お前が丸腰だってことが分かっているとも!」
確かに、少女は小さな鞄以外何の荷物も所持していない。涼しげな格好の何処にも、武器になりそうな物を身に着けてはいなかった。
「さあさあ、早く床に鞄を置け!」
勝ち誇った顔の中背に言われ、少女はゆっくりと鞄を床に置いた。そして抵抗の意思が無いことを示すかのように両の手を上げる。
「よし、ではこちらに鞄を蹴ってよこせ。少しでも変な真似をしたら、その可愛い顔に風穴が開くことになるぜ。」
その脅し文句に長身は唇の端を僅かに吊り上げ、短身はくぐもった笑い声を漏らす。
少女は目に見える形で表情を変えた。つまらなそうな顔をして、呆れたような溜息を漏らしたのである。
「昴が言ってたっけ…。『悪党にもランクがある。こちらの正体を知って逃げだす勇気があるのが一流、負けると分かっても向かってくるのが二流、そして、勝てると勘違いして向かってくるのが三流だ』って。」
「何をゴチャゴチャ言っているんだ、早くこちらによこせ!」
中背に怒鳴られた少女は、両手を上げたまま鞄の角に足を乗せた。
その様子に、中背は成功を確信した―が、それは僅か数秒間の幸福だった。
少女は鞄の角に右足をかけると、転がすような要領で足の甲に乗せた。そしてやおら、その足を高々と蹴り上げたのだ。小さな鞄は倉庫の天井に向かって真直ぐ舞い上がる。
一瞬、黒服たちの視線は高く上がった鞄へと向いていた。だから、捲くれたスカートからすらりと覗く少女の上腿に、拳銃の収納ケースが装着されていたことに三人共気が付かなかった。
最初に中背が視線を下ろした時、少女の手には魔法のようにリボルバー式拳銃が握られていた。彼が声を上げる間も無く、黒服たちの自動拳銃は一瞬の内に撃ち飛ばされる。
少女は腰を落とすと同時に硝煙が立ち昇る右手の拳銃を放り上げ、代わりに落下してきた鞄を後ろ手に置き、残った手で左足にも収納されていた拳銃を引き抜いた。
彼女が立ち上がって両手を突き出すと、そこには放った銃も収まっていた。銃声の残響が漂う間の神業を見せられて、黒服たちは声も無くへたり込む。
つま先で背後にある鞄を確保すると、少女は黒服たちに向けて笑みを作った。先程までとは異なる子供のような笑顔に困惑する彼らに、少女は愛らしい唇を開く。
「金の銃と銀の銃、どっちで撃たれたい?」
金と銀の拳銃に狙われて、中背と短身は悲鳴を上げた。長身は無言だったが、それは既に気絶していたからである。
その時、倉庫内に場違いな拍手の音が響いた。と同時に、今まで誰もいなかった貨物や資材の上に銃を持った人影が幾人も現われる。黒服たちは慌てて、意識の無い長身の分も含めて両手を上げた。
「やあやあ、さっすがリカ。銃の腕は今でも鈍っていないなあ。」
呑気な声で現われたのは、白いスーツと同色の帽子を被った壮年の男性だった。
「加山隊長!」
「久し振り、リカ。あの時以来かな?」
帝國華撃団の諜報部隊月組の隊長である加山雄一は、部下たちに向かって手を一振りした。彼らはあっという間に黒服たちを縛り上げると、倉庫の外へと連行していく。
「日本に着いた早々災難だったね。それでは早速―」
軽妙な口調がそこでピタリと止まった。リカリッタという名の美しい少女が、彼に向かって一丁の拳銃を突き付けたのだ。
「あー、どういうことかな?まさか偽者だと勘違いしている…なんてことはないよね。」
両手を掲げ、頬を引きつらせながらも、加山は笑顔を崩さなかった。少女は日本人にしては背の高い男を三白眼で睨む。
「加山隊長、私のことを利用したでしょう。」
「あらら、分かっちゃってた?」
あっさりと加山は口を割った。
リカリッタが運ぶ極秘書類を賢人機関の一部勢力が狙っているのは既に察知していたけれど、確たる証拠も無しに機関員の身柄を確保する訳にはいかない。そのため別件―例えば使者として来日した紐育華撃団星組隊員を拉致監禁及び脅迫した容疑とか―で取り押さえてしまおうと、月組はずっと彼らの行動を監視していたのである。リカリッタはその辺りの事情を直ぐに察したのだ。
「いやあ、立派になってお兄さんは嬉しいなあ。」
「回りが凄い人たちばかりだから、嫌でも立派になりますとも。それより、どう落し前を付けてくれるのですか?」
銃口を頬に突き付けられて、さすがの加山も冷や汗を流した。慌てて妥協案を提示する。
「あ、後で美味しい日本食のお店に招待する!それで勘弁してくれないかなあ。」
その言葉を聞くと、リカリッタは子供の頃と変わらない笑みを作った。銃把を放した拳銃はくるりと天井を向き、加山はようやく一息付いた。
2
倉庫内の薄暗さに目が慣れていたせいで、1号倉庫の外に出たリカリッタの視界は白く染まった。閉じた瞳を僅かに開くと、隣には白い格好の加山雄一が鞄を手に立っていた。
「外に車が用意してあるから、先ずは帝都の大帝国劇場に向かおう。大神司令もそこでお待ちかねだ。」
「大神司令とお会いするのも久し振りです。加山隊長と同じくあの時以来ですね。」
微笑しながら答えたリカリッタを、加山はじっと見詰めた。
艶のあるブラウンの髪と同色の瞳は出会った頃と何ら変わっていなかったけれど、背格好は思い出の中の少女と何一つ重ならない。面差しには当時の様が残っているが、癖のある髪を背中まで伸ばし、フレッシュ・グリーンを基調とした涼やかなツーピースを着こなす姿は、どこから見ても立派な淑女だった。
メキシコは先住民であるインディオと征服者のスペイン人が人種的にも文化的にも融合して形成されている。メスティーソ(インディオとスペイン系白人の混血児)であるリカリッタは両者の特徴を良い意味で引き継いでおり、十二分に美しい女性へと成長していたのである。
そんなリカリッタを前に、加山は何故か盛大な溜息をついた。
「あのリカがこんなに大きくなるとはなあ。道理で俺も歳を取る訳だよ。」
「加山隊長も始めてお会いした頃から余り変わりませんよ。それよりも、『あのリカが』とはどんな『あの』なんです?」
「そうだなあ、良く言えば奔放な自由人、悪く言えば勝手気ままな自然児―」
言いかけて、加山は苦笑した。
「いやあ、俺も結構酷い目に遭ったと思い出したよ。それが今や立派なレディーなのだからなあ。」
少女の顔には、微笑と苦笑が同居していた。
「その節はお世話になりました、加山隊長。でも、新次郎には『リカは変わらないね』ってよく言われているんですよ。」
『へえ?どの辺が変わらないんだろう。』
一考しようとしたその時、リカリッタがまだ拳銃を指で回していることに気が付いた。
「おいおいリカ!拳銃はしまっておかないと駄目だろう。」
「あ、いけない。つい癖で…」
言いつつ、少女はやおら自分のスカートを捲り上げようとした。加山は慌てて帽子の鍔を下げる。
「リカ!リカっ!」
「え?…あっ―」
リカリッタはホルスターに拳銃をしまうと、慌ててスカートの裾を整えた。
「にゃはははは…つい、ね。皆には内緒にしておいてね。」
照れ隠しに笑いながら、汚れもついていない服をぱたぱたと叩く仕草をした。
「…なるほど、新次郎の言う通りかもしれない。」
有らぬ方を見て、加山はぽつりと呟くのだった。
「ところで、賢人機関の不穏な動きはどうなのですか。」
道すがら、リカリッタは脇を歩く加山に訪ねた。白いスーツを着た男は肩をすくめてみせる。
「ま、どんな組織も完璧な一枚岩ではありえないし、逆に硬過ぎると壊れる時は脆いものさ。だから修正が効く程度に危ういくらいがちょうど良いのかもしれない。わざわざリカに運んでもらったけれど、この書類が大神司令の手に渡れば万事上手くいくだろう。こちらもそのための細工は流々さ。」
「良かった。それならば私も運んだ甲斐があるというものです。」
笑顔ではあったが、何処か寂しさを感じさせるリカリッタの顔を目にして、加山ははたとその理由に気が付いた。さり気なく帽子を直しながら独り言のように言葉を発する。
「本当なら、新次郎と一緒に来日出来れば良かったんだけれどなあ。」
「…仕方がありませんよ、この件で紐育華撃団も大変なのですから。星組隊長が席を離れる訳にはいきません。」
だが言葉とは裏腹に、その笑顔はとても哀しげだった。
こういう所も昔と変わっていないな、と心中に独り言ちた加山は、一つ息を吸い込むとリカリッタに向き直った。そして突然、勢いよく敬礼をしてみせる。
「改めまして、輸送任務ご苦労さまでした。滞在中は是非日本を楽しんで下さい。」
最後に片目を閉じてにやりと笑う。
「サニーサイド司令から聞いている報酬の件、こちらもバッチリ用意が出来ているからな。日本食をお腹一杯になるまで満喫していけよ。」
最初は目を見張ったリカリッタだったが、こちらも真顔になって敬礼を返す。
「はっ!紐育華撃団星組リカリッタ・アリエス・大河、輸送任務を完了しました。加山隊長の食事も楽しみにしています。」
そう言って、大河新次郎夫人リカリッタは子供のような笑顔でいししと笑った。
◇
蒸気自動車の運転席には加山が、後部座席にはリカリッタと黒服から取り返してきた旅行鞄が納まっていた。車は一路帝都東京を目指して走り出している。
車窓を眺めながら、リカリッタは首にかかった銀のペンダントを玩んでいた。
窓からは横濱の西洋と東洋が合わさったような建築物が並び、アメリカ合衆国から来た少女の目にも目新しく映った。大河新次郎の話では、大帝國劇場のある銀座もこのような街並みらしい。
リカリッタはペンダントを開いた。その中には、彼女の夫である大河新次郎の写真が収められている。加山は出会った頃から余り変わっていないが、元々童顔だった新次郎も紐育のウォール街で始めて出会った頃とほとんど変わらないように見える。
何となく確認してみたくなって、少女は旅行鞄の中にしまってある一冊の小さなアルバムを取り出した。そこにはキャメラトロンで撮影された、大事な仲間たちの写真が綴られていた。その中の一枚―大河新次郎に抱きついている11歳の頃のリカリッタ―もう何万回も見た写真は、リカリッタにとっての一生の宝物だった。
「うん、新次郎はやっぱり変わっていない。」
ペンダントとアルバムの写真を見比べて、リカリッタは呟いた。
結局、ここから始まったのだ。父親の事故で苦しみ続ける自分を救い、まだ幼かった自分をクリスマスのデートに誘ってくれて、五輪曼荼羅で彼のために犠牲になろうとした自分を思い止まらせ、父親以外で生まれて初めて自分のことを好きだと言ってくれた男性―。
その後も様々なことがあって、彼も少しは男らしくなったけれど、それでもリカリッタにとっての大河新次郎は、泣き虫で、自分がついていないと駄目な、彼女にとっての優しい『王子さま』であり続けていた。それは結婚した今でも、この写真のように何ら変わっていなかった。
『新次郎…。』
不意に、リカリッタはアルバムを抱き締めた。胸の奥から冷たい闇が湧き上がり、少女を寂寥の湖底へと引き摺り込む。
あれからずっと共に過ごしてきた一番大切な人と、任務とはいえ離れ離れになる寂しさに、彼女はずっと耐えていたのだ。どれだけ淑女としての嗜みを身に付けても、リカリッタは未だ十代の少女である。頭では仕事と理解していても、感情を律することは容易ではない。彼女は氷川丸で出会った夫人のように齢を重ねた大人ではなかった。
『新次郎、新次郎、寂しいよ…。隣で笑って、手を握って、ギュッてして…。』
どんなに豪華な特別室を宛がわれても、瀟洒なベッドで横になっても、彼女を襲う寂しさを癒してはくれなかった。その度に彼女はアルバムから写真を広げて、思い出に囲まれながら子供のように眠っていたのである。
アルバムを胸に抱いたまま俯いているリカリッタの様子をバックミラー越しに加山は見ていたが、彼には少女にかけるべき言葉を持っていなかった。彼女が今欲しているのは言葉ではなく、たった一人の温もりだということを知っていたからだ。
『やれやれ…でも、このままでは辛いだけだからな。次善の策だが、少しは気分を変えてもらわないと。』
少し間を置いてから、加山はことさら明るい声を出した。
「そういえばリカ、帝劇には双葉さんもいらっしゃるらしいぞ。」
「…お義母さんが?」
「ああ、リカが来るのを楽しみにしているそうだ。リカもお会いするのは紐育での結婚式以来だろう。」
大河新次郎の母であり、帝國華撃団司令大神一郎の姉でもある大河双葉と会ったのは、新次郎とリカリッタの結婚式に参加するため彼女が遠路遥々紐育を訪れた時だった。既に父母を亡くしていたリカリッタにとって、双葉は唯一の母親となった。彼女は娘となるリカリッタを大層気に入り、紐育滞在中は折に触れて彼女との外出を楽しんでいた。
「せっかくの機会なんだから、お義母さんに思い切り甘えたらどうだ。親子水入らずで帝都散策も悪くないぞ。」
陽の届かぬ心の暗闇の中に、大河双葉の姿が浮かび上がる。彼女は記憶の彼方に霞む母の温もりをリカリッタに思い出させてくれた人だった。
『…お義母さんに会いたいな。私が知らない小さい頃の新次郎のこととか一杯聞きたいし、二人で色々なところに出掛けたいし…』
そう考えた時、リカリッタの心を包む冷たい闇ががたりと揺れた。
車の振動で我に返った少女が車窓に目を向けると、そこには初夏の日差しを受けた山が深緑に染まっていた。黒く輝く家々の甍が整然と並び、道行く人々の純朴そうな顔を目の当たりにして、少女の心にも初夏の陽が射したような気分になった。大河新次郎が折に触れて話してくれた日本の風景が、正に今彼女の前にある。
小さなアルバムを旅行鞄の中に仕舞うと、彼女は胸に下がるペンダントを手に取った。
『そうだよね、せっかく念願の日本に来たのにこんな気持ちでは勿体無いよね。お土産話を沢山持って帰るから、紐育でちゃんと待っているんだよ、darling(しんじろー)。』
心の中で囁いたリカリッタは、ペンダントの写真にそっと唇を触れた。
冷房が効いている筈の車内で、加山は帽子で顔を扇ぐのだった。
【エピローグ、或いは余禄】
「―しかし、帝都トーキョーでは新たな事件がリカを待っているのだった!」
紐育のブロードウェーに燦然とそびえるリトルリップシアター。その楽屋には、ミュージカルスターであり、この都市を護る紐育華撃団星組隊員でもある面々が思い思いの椅子に腰掛けていた。彼女たちの中心には、テーブルの上で力強く拳を突き出したジェミニ・サンライズの姿がある。
「…どうどう?ボクの考えたお話。結構いい出来なんじゃないかと思うんだけどなあ。」
期待顔のジェミニを一瞥して、九条昴はさらりとした髪を掻き上げる。
「…昴は思った。ジェミニの話にしては悪くはない、と。何時もの怪しい時代劇でなかっただけでも良しとするべきだろう。」
サジータ・ワインバーグは、隣でホットドックを丸呑みしているリカリッタ・アリエスの頭を撫でる。
「ああ、いいんじゃないか?リカも大活躍だったし。なあ、リカ。」
「リカ、主役―ッ!くるくるくるくるくるーっ!!」
ダイアナ・カプリスは眼鏡を外して涙を拭っている。
「とても素敵なお話でした。わたし、感動してしまって…。」
「そお!そおっ!?もーっ、照れるなぁっ!実は自分でもいけるんじゃないかな、って思ってたんだよね。」
皆の感想が好感触なので、ジェミニは大層ご満悦だった。
しかし、残念ながら彼女の上機嫌が長く続くことはなかった。
「悪くはない。だが…」
昴は思案顔でぱちりと鉄扇を閉じた。
「そうだな、いい話ではあるんだけど…」
コーヒーを一口啜りながら、サジータは苦い顔になった。
「はい、感動したのは間違いないのですよ。でも…」
眼鏡を付けると、ダイアナは柳眉を逆立てた。
「「この話には、大きな問題がある!」」
リカリッタを覗いた三人は、ジェミニに対して異口同音に明言した。
「ええっ!?何処か変なところがありましたか?」
ジェミニが慌てたその時、ノックの音と共に楽屋の扉が開かれる。
「あ、皆さんここにいたんですね。ラチェットさんが探していましたよ。」
現われたのは、星組隊長兼シアターのモギリである大河新次郎だった。今年の誕生日を迎えれば二十一歳になる日本人の青年だが、元々童顔だからなのか少年と間違われることも多い。
室内に入った途端、5人から一斉に視線を向けられた新次郎は一歩後退った。だが、そんな青年に構いもせずに、彼女たちは口々に好き勝手なことを言い始める。
「…昴は想像する。数年後の大河が、果たしてそれだけの甲斐性を有しているだろうか、と。」
「なあ坊や。気持ちは分からなくもないけどさ、ちゃんとした年齢になるまでは手を出すんじゃないよ。そうなったらあたしは、法に則ってアンタを裁かなくちゃならなくなるからね。」
「いけません、いけませんっ!大河さん、男女交際は清く正しくあるべきです!先ずは交換日記から初めることをお勧めします。」
「ねえ新次郎聞いてよ~っ!ちゃんと設定とか、この後の展開まで考えたんだよ。”最大のピンチに、颯爽と仮面を被った謎のサムライ美女が登場!”とかさぁ。」
「ええ?あの、皆さん何の話なんですか?」
事情が全く理解出来ない新次郎は大いに困惑した。そんな彼の背中に、リカリッタが抱き付くように飛び付いてくる。
「あ、リカ!ねえ、これってどういうことなの?」
青年に問われた少女は、口にくわえていたホットドックを平らげるといししと笑った。
「仕方がないな、しんじろーは。それじゃリカが特別に教えてあげるからな。」
「うん、助かるよ。」
「えーっと、リカがれでぃーで、悪いヤツバンバン撃って、それでしんじろーはリカの子分で、王子さまで、おまけにだありんなんだ。いっぱいで良かったな!」
「…いっぱいというか、何だか一杯一杯って感じなんだけど。」
何が何やらさっぱり理解出来なかった新次郎を置き去りにして、楽屋は更なる盛り上がりを見せていた。
「ジェミニ、仮面を被っていたら美女だと分からないよ。」
「うっ!…で、でも、そんな展開で現われるのは美人って決まってるじゃないですか~。」
「何が交換日記だ、学級委員長。お前は何処のフェアリーランド出身のプリンセスなんだよ。」
「私はマサチューセッツ出身の研修医ですっ!」
―結局、この騒ぎは様子を見に来たラチェットに一喝されるまで続くことになるのである。
「前略…母さん、ボクはまだまだ力不足なんでしょうか?」
独り取り残された形の新次郎は呆然と呟いた。そんな涙目の青年の頭を、背負われた少女が優しく撫でる。
「しんじろー泣くな、リカがずっとずっと傍にいてあげるからな。」
未曾有の危機を乗り越えて迎えた新年。いまだ街の傷跡は癒えていないけれど、とりあえずリトルリップシアターは賑やかで平和だった。
了