もしも、「街」というものの概念に住民という因子が不可分なものだとしたら、その夜、そこは街ではなかった。
アパルトマンの窓から漏れる明かりは無く、ル・ボン・マルシェやギャラリー・ラファイエットなどのグラン・マガザンは豪華な入口を硬く閉ざしている。通りには蒸気自動車の姿も無く、多くの人々で賑わう筈の並木道には人影も見当たらない。建築家エクトル・ギマールの手によるアール・ヌーヴォー様式のメトロの出入口は空虚な昏い口を開き、街灯は自らの存在意義を放棄して夜の暗闇と同化している。
かつて、この街がこれ程までに夜の闇に覆われたことがあっただろうか。
紀元前3世紀頃、シテ島にケルト系のパリシィ人が住み始めた時も、
紀元前52年にカエサル率いるローマ軍が襲来した時も、
西暦508年にフランク王国の首都となった時も、
西暦1163年にノートルダム大聖堂の建設が開始された時も、
西暦1789年に大改革の嵐が吹き荒れた時も、
西暦1853年にセーヌ県知事に就任したオスマン男爵の指揮により近代都市へと生まれ変わった時も。
どんな時にも、この街には人の営みが、火やガス灯などの光が絶えたことはなかったというのに。
西暦1926年9月のある日の夜。
平生は「花の都」と歌われた巴里の街も、この時ばかりはこう表現されるかもしれない。
―「漆黒の闇の中、整然と平野を埋め尽くす墓石の群」と。
その日、仏蘭西政府から巴里に大規模な地震が発生するとの予測が公表され、同日付で巴里市民に対し緊急避難命令が発令された。そして多少の混乱はあったけれど、昼間のうちに全ての市民はイル・ド・フランス地方内の巴里に隣接する各県へと避難を完了させていた。
だが、それはあくまで表の理由である。
避難した市民に隠された真実、それは巴里に現われた最強の怪人カルマールとの最終決戦に備えてのものであった。怪人を倒せなければ、昼間にも出現した空中砲台オプスキュールにより、午前5時32分の夜明けと共に巴里は消滅してしまうのである。
その最悪な事態を阻止するため、都市防衛を担う巴里華撃団花組は臨戦態勢で待機中であった。
現在敵本拠地であるシテ島に潜入中のソレッタ織姫とレニ・ミルヒシュトラーセ両帝國華撃団花組隊員から連絡が入り次第、巴里花組は総攻撃を開始する予定となっている。
少女はモンマルトルの丘の上から巴里を見渡した。
昨夜までは光の海のようだった市内は、夜の闇が降ってきたかのように一面の漆黒に覆われている。巴里の象徴であるエッフェル塔ですら、今は何処にあるのかさえも判然としない。
彼女は振り仰いで、巴里を訪れた時真っ先に目にした建物を探してみた。
しかし、丘の上に立つ、白亜に輝くサクレ・クール聖堂も、夜の闇に溶け込んで姿を確認することが出来なかった。
丘を吹き抜ける風は9月のそれとは思えないほど冷たく乾いている。
その風に乗って僅かに焦げた匂いも運ばれてきたのは、昼間オプスキュールの雷撃により壊滅した街区から流れてきたものだろう。
人の営みが途絶えた街を吹く風は、これほどまで温かさに欠けるものなのだろうか―少女は身震いと共に考えた。
少女は急に空恐ろしくなった。自らを包み込む夜陰が、いつか自分自身までも取り込んでしまうのではないかという錯覚に襲われたのだ。
その闇から逃れるように、少女は懐中電灯の明かりを頼って、黒(ノワール)の中に輝く唯一の光―丘の中腹に立つ巴里華撃団本部、テアトル・シャノワールへと夢中で駆け出した。
荒い息と共に、少女は転がるようにシャノワールのロビーへ飛び込んだ。
そこにも当然のようにお客の姿は無かったけれど、それでも彼女は安堵の息をつく。何故ならば、ここには今、巴里で唯一彼女の仲間がいる場所だからだ。
少女は深呼吸をして息を整えると、一先ず人の気配がする厨房へと足を向けた。
厨房には黒髪の少女の姿があった。彼女はいつもの黒服の上に白いエプロンを着けて、熱心に何かを握っている。
火の気は体を、人の温もりは心を温めてくれる。少女がその有難みを心の底から感じた時、ふと黒髪の少女が振り向いた。
「あら、コクリコさん。どうしたんですか、そんなところで」
コクリコと呼ばれた栗色の髪の少女は、黒髪の少女のいつもと変らない様子に安堵した顔で彼女に駆け寄った。
「うん、チョッと街の様子を見てきたんだ。花火は何してるの?」
「私は、皆さんにおにぎりを作っているところです。」
花火と呼ばれた黒髪の少女は、穏やかな微笑みと一緒に、手の中にある三角形の物体をコクリコへ差し出した。
小さな少女は不思議そうにそれを受け取る。
「これ、食べ物…だよね?」
「はい、お米を焚いたご飯を握り固めて、それに海苔を巻いた日本の携帯食です。皆さんお忙しそうですから、これならお好きな時に口に出来ると思いまして。」
コクリコはテーブルの上に視線を移した。そこにはおにぎりという名前の携帯食が幾つも並んでいる。
「オコメやノリって日本の食材なんでしょ?そんなの良く用意出来たね。」
「以前マルシェ(市場)に行った時買っておいたお米を使ったんです。種類が合うのかと心配しましたけれど、結構様になるものですね。海苔は有り合せの物を適当に…。」
「ふーん、有り合せねえ…。」
コクリコは改めて自らの手の中にあるものを見た。少女は本物のおにぎりなる物を見たことが無いので、この有り合せで作られた代物が、果たして何処まで本物に迫っているのか皆目見当がつかない。
「ねえ、花火。一つ聞いてもいい?」
「はい、何ですかコクリコさん。」
「これって、本当のおにぎりと同じものなの?」
コクリコの問いに、花火は柔らかな笑みを浮かべた。
「…さあ。」
「…さあ?」
思わず聞き返してしまった栗色の髪の少女に向い、黒髪の少女は変わらない笑顔を向ける。
「私も本物のおにぎりは見たことがありません。3歳の頃からこちらに移り住んでいるのですが、家でおにぎりが出たことは一度も無かったので…。日本食の本を何冊も読んだのですけれど、そこにも写真や作り方は載っていませんでした。」
「え、じゃあ、これは何?」
北大路花火の顔には僅かな揺らぎも無かった。
「はい、おにぎりです。」
「…。」
コクリコは呆れたように口を開く。
「何でそんなに自信満々に言い切れるの?」
「以前大神さんに、作り方を教わったことがあるんですよ。」
「あ、イチローに。」
コクリコはようやく得心顔で頷いた。彼女たち巴里華撃団花組の隊長である大神一郎は日本から来た青年である。恐らく華撃団の中で一番おにぎりについて豊富な知識を有している筈だった。
納得したコクリコは、自分が何時の間にかすっかり落ち着いていることに気が付いた。そして、目の前の花火は普段と全く変わらない様子なのにも。
「…花火って凄いなぁ。」
ため息と共に呟いたコクリコを、花火は不思議そうな顔で見詰めた。
「…ボク、凄く不安だったんだ。もしもボクたちが怪人に負けたら、この巴里が無くなっちゃうんだって。だから気分を紛らわすために外を歩いてきたんだけど、そうしたら街が真っ暗で、もっと怖くなっちゃって…。」
花火の優しい視線の先で、コクリコは独白を続ける。
「それなのに、花火は何時もと全然変わらないんだもん。何だかボクも落ち着いちゃった。」
照れ笑いを浮かべながらコクリコは思う。花火は、個性溢れる巴里花組の中では決して目立つ方ではない。何時も控え目に、一歩引いたところで皆を優しく見守っている。けれども、その心の芯は他の誰よりも強いのではないだろうか、と。
「花火は怖くないの?巴里が無くなって、この夜の闇がずっと続くんじゃないかって思ったこと無いの?」
そう聞いたコクリコに古拙の微笑(アルカイックスマイル)を向けると、花火は少女のために近くの椅子を運んできた。そして優しく席を勧めると、自らも手近な椅子に腰掛ける。
「私も、コクリコさんと一緒ですよ。不安で、何かしなくてはと思って、こうしておにぎりを握っていたんですから。」
「え、でも、全然そんな風に見えないよ?」
「それは―」
花火は一瞬顔を伏せた。
「?」
不思議そうに小首を傾げるコクリコの目の前で、花火は顔を上げた。そこには、いつもと変わらない微笑があった。
「それは…大神さんと約束をしましたから。」
「イチローと?」
「はい、必ず生きて戻ってくると。だから私は、不安に負けないで頑張れるんですよ。」
そう言った花火は普段と何ら変わらないように、少なくともコクリコには見えた。その様子が、今はとても頼もしく感じる。
「―それに、もしも約束を破ったら針千本ですから。」
いつもの雰囲気のまま、花火は言葉を続けた。コクリコは一瞬頷きかけて、その中に気になる単語を発見した。
「え、針を千本もどうするの?」
「はい、飲ませるのです、大神さんに。」
「…え?」
コクリコは言葉の意味を掴み損ねた。
小柄な少女は僅かな間思案を巡らせて、妥当だと思われる質問をしてみることにした。
「…ハリっていう名前の飲み物が日本にはある?」
少しだけ期待するような栗色の髪の少女に向かい、黒髪の少女は優しい笑みを湛える。
「違いますよ、コクリコさん。お裁縫に使うあの針のことです。」
その時、暖かな厨房に一瞬の静寂が訪れた。
「…約束を破ったら針を飲まされちゃうんだ、イチローは。」
「はい、大神さんは千本も飲まされてしまうのです。」
微笑みながら言った花火に引きつった笑みを返したコクリコは、心の中で感心とも呆れともつかないことを考える。
『そんな凄い約束をしたなら、イチローは絶対生きて戻ってくるよね。でも、ニッポンって凄いことをする国なんだなあ…。』
「―レニさんと織姫さんからの連絡はまだでしょうか。」
気を取られていたコクリコの耳に花火の声が響いた。
「私、メルさんとシーさんにお2人から何か連絡が入っていないのか聞いてきます。コクリコさんはどうしますか?」
「あ、それじゃ、ボクはおにぎりを皆に配ってくるよ。」
我に返ったコクリコは、いつもと変わらない静かな笑みを浮かべている花火に言った。
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いしますね。」
黒髪の少女は軽く会釈をしてから厨房を後にした。
花火を見送りながら、すっかり平静を取り戻していたコクリコは、先程手渡されたおにぎりを口に運びつつ、この状況には余り相応しくないことを考えていた。
『ところで…花火はいつイチローからおにぎりのことを聞いたんだろう。ひょっとして、知らない間にデートでもしてるのかな?』
北大路花火は作戦司令室に向かう途中、立ち寄ったロビーの窓から外を見た。そこはコクリコが言っていたように、視界の全てが黒一色の世界だった。
「…何て深い闇なのでしょう。」
窓硝子に映った花火の顔は、闇と正反対の色をしている。夜陰は、彼女の心にある暗い記憶を揺り起こさずにはいられなかったのだ。
そんな自分の白い顔をまじまじと眺めた花火は、突然自らの頬を両手でぴしゃりと叩いた。
思いの外強く叩き過ぎたため涙目になりながらも、再び窓硝子に映る自分の姿を見ると、そこには頬に朱がさした黒髪の少女の姿があった。
花火は硝子に映った自分に微笑むと、再び夜の暗闇へと目を向ける。
大神さんと約束をしたから頑張れる―先程コクリコに言ったことは偽りではない。
しかし、花火は年下の友人をこれ以上不安にさせないため、意図的に明るい話題を選んでいたこともまた事実だった。
北大路花火が夜の闇に押し潰されない本当の理由―それは、彼女がもっと深い暗闇と、その中でも明るく輝く光を知っているからである。
少女は冷気が伝わる窓に手を添えて静かに目を閉じた。その瞼の裏に、数ヶ月前までの自分の姿が映る。
光溢れる巴里の街。
その中で自分の心に深い闇を作り、
親友の言葉も届かず、
ただ思い出に縋っていた自分。
大切な人が旅立った世界へと赴く、
それが縋るべき希望だと信じ込んでいた自分―。
北大路花火は16歳の時、フィリップ・ディ・マールブランシュという婚約者を結婚式の当日に事故で失った辛い過去を持っている。
人生最良の日が最悪な日に変わる。その光が明るければ明るい程、その後に突然訪れた闇は余りにも暗く冷たく、そして深かった。
齢16歳の少女が選べたのは、黒服をまとい、夫となる筈だった男性の墓石に寄り添いながら、永久の喪に服することだけ。
過去に生きて、過去に殉ずる―親友を始め、きっと亡くなった男性でさえ望んでいないことを、花火は希望だと信じ込み、それに縋った。そうしなければ、少女は自分だけが生きている現実に耐えられなかったのだ。
しかし、それは花火にとっても本当の希望では有り得なかった。過去の思い出に逃げ込んでいるだけの、それは希望とは正反対の「死に至る病(絶望)」。
誰一人望まない、その余りにも深く哀しい暗闇に、希望という名の光を射してくれた人―それが大神一郎だった。
彼は言った、「忘れるんじゃなく、心にとどめて悲しみを乗り越えるんだ。」と。
その言葉と、そう言ってくれた青年の存在が、少女を絶望という深い闇の底から救い出してくれた。
一筋の光が思い出すことも辛い記憶さえ照らし出し、今では前を向いて歩き出すことが出来るようになったのだ。
「光が吸い込まれるような昏い闇…それでも―。」
花火は夜の闇に向かって独りごちる。
「それでも、明けない夜も、光の射さない闇もありません。一筋の希望の光があれば、巴里は、私たちはまた朝日の下で笑うことが出来る…そうですよね、大神さん。」
そう言った花火に向かって、窓に映った黒髪の少女は明るく微笑んでいた。
作戦司令室にはメル・レゾンとシー・カプリス、そして花火にとって希望の光である大神一郎の姿があった。黒髪の青年を目にして、彼女の胸は温もりに満たされていく。
それでも、花火は自らの気持ちを抑えるかのように、2人の秘書に話し掛ける。
「あの…メルさん、シーさん、織姫さんたちからの連絡はまだでしょうか?」
そんな北大路花火に、大神一郎は真剣な眼差しを向けた。
「花火くん…いい所に来てくれた。…少し話があるんだ。」
「お話…ですか?」
青年の言葉に、少女の胸は我知らず高鳴った。
夜の闇を払う巴里の夜明けまでは後1時間余り―。