鈍色の空から無数の水滴がしとしとと降り注ぎ、冷たく濡れた銀座の石畳には街明かりが照り映えていた。冬支度を整えた紳士や淑女たちの息も白く、所々に出来た水溜りを避けながら傘を片手に歩道を歩いている。薄墨色に沈む世界に、時折通る帝都蒸気鉄道の警笛が加わった。
その様子を、マリア・タチバナは大帝國劇場の2階にある談話室の窓から眺めていた。目の前のテーブルに置かれたティーカップからは紅茶の豊かな芳香が温かな湯気と共に立ち上っている。
室内には他に真宮寺さくらがおり、蒸気ラジオから流れる流行歌「からたちの花」を聴きながら、図書室から借りてきた手元の童話「注文の多い料理店」に目を落としている。
冷たい窓の外から暖かな室内に視線を戻したマリアは、本を読んでいるさくらを一瞥すると、自らも手に持っていた岩波書店の漱石全集の頁を開いた。
―太正14年11月の氷雨降る寒い午後。先日「紅蜥蜴」の千秋楽を迎えたばかりの大帝國劇場は心地良い倦怠感に包まれていた。
舞台の幕が降り、そして次の公演の準備が始まるまでの僅かな期間は、帝國歌劇団花組にとって貴重な休暇の時だった。その短い休日の初日、あいにく天候は優れなかったけれど、昨夜は夜遅くまで打ち上げが続いていた花組の面々はこれ幸いと惰眠をむさぼった。現在談話室にいない者たちも、きっとこの帝劇内のどこかでアンニュイな時を過ごしていることだろう。
ラジオからの流行歌が流れている談話室に複数の足音が近づいてきた。ノックと共に開かれた扉から現われたのは、『東京文明堂』と書かれた大きな包みだった。
「えっと、すみませーん。ここにマリアさんはいらっしゃいますか?前が見えないので分からないんですよー。」
包みから聞こえてきたのは確かに高村椿の声だった。マリアが答えるよりも前に、その下から顔を覗かせた榊原由里が声を上げる。
「いたいた!椿、やっぱりマリアさんここにいたじゃない。私の情報通り!」
「由里、行儀が悪いわよ。―失礼します、藤井かすみです。マリアさん宛のお届け物をお持ちしました。」
その言葉と共に帝劇三人娘と呼ばれる女性たちが談話室に姿を現した。身体ごと預けるようにして椿がマリアに包みを渡す。
「ありがとう、椿。かすみ、どなたからの贈り物なの?」
マリアの問いに、かすみは添付されていた手紙の差出人欄を読む。
「はい、『断腸亭主人』さまからです。」
「…『断腸亭主人』さん、ですか?」
さくらは不思議そうな顔をしたが、当のマリアは納得顔で頷いて、一先ず大きな包みをテーブルの上に置いてから手紙を受け取った。そして手紙を読み進めて微笑を浮かべる。
「先生、今回のドクロX役をとても褒めて下さっているわ。西洋物ではなく、日本を舞台としたところも気に入っていただけたみたい。」
「それは良かったですね。先生はマリアさんのファンなのに、西洋の作品だと素直に褒め辛いみたいですから。」
上品に微笑んだかすみが答えると、我慢しきれなくなったさくらと椿が異口同音に尋ねる。
「マリアさん、『断腸亭主人』さんって誰なんですか?」
「かすみさんたちだけ知ってるなんてずるいですよ、私にも教えてください。」
それを聞いた由里はやれやれと首を振った。
「2人ともそんなこと知らないの?それはチョッと恥ずかしいわよ。」
「それじゃ、由里さんは知ってるんですか?」
「もちろんよ、椿。…もっとも、本は読んだことないけどね。」
ペロリと舌をだした由里にマリアは苦笑いを浮かべた。
「2人とも、『あめりか物語』や『ふらんす物語』という本の名前は聞いたことがあるでしょう?
その著者である永井荷風先生の別号が『断腸亭主人』というのよ。」
「荷風先生が私たちの舞台を観に来られていたんですか!?」
「先生のような文化人だけではなく、政界や財界の方々もよく観劇されていますよ。もっとも、皆さまお忍びですし、本名や別号で差し入れをしていただくことが多いですから気が付かないかもしれませんけれど。」
例えば―と続けてかすみが挙げた名前の数々を聞いてさくらは驚いた。誰もが一度は聞いたことがある名前ばかりだったからだ。
丁寧に手紙を戻していたマリアが、ふと気が付いた。
「そういえば、椿はともかくかすみや由里までどうしてここに?」
マリアの問いに三人は顔を見合わせると、代表してかすみが一歩前に出た。顔には僅かに照れ笑いを浮かべている。
「実は、伝票整理が終わったので由里と買い物に行こうと思っていたのです。けれどもこの天気なので中止にしようかと話していたところに『東京文明堂』の大きな包みを持った椿が現われたので、それならば皆で一緒にと…。」
「つまり、暇だったから椿に付いて来ちゃったんですよ。ついでに、もしも良かったら皆さんと一緒にお茶でも飲もうかなと思って。」
婉曲な表現をしていたかすみに代わり、由里が直接的に言った。軽くかすみに睨まれた由里は頭を抱える真似をする。
「あら、それじゃ私と同じね。」
その声に皆が振り向くと、もう一つの入口から藤枝かえで副支配人が入ってくるところだった。
「支配人への報告書も書き終わったけれどこの雨でしょう?外に出掛ける気にならなくて、お茶でも飲もうかと思ってここに来たの。考えることは皆同じね。」
お互いが顔を見合わせて、そして東京文明堂の包みに視線を移す。
室内に明るい笑い声が広がった。
暫く後、談話室には幾つものお皿に載ったカステラと、それぞれの前に置かれたカップが並んでいた。飲み物は各人の好みなので、珈琲や紅茶、そして日本茶の香りが立ち上っている。
茶碗をテーブルに置いたさくらが、美味しそうにカステラを口に運ぶ。
「それにしても、こうして応援してもらえるのは本当に嬉しいですよね。私も湯川マサエ役が良かったとファンレターを頂きました。」
「皆さまの応援があってこその帝國歌劇団花組だもの。今回の公演もお客さまに喜んでもらえたみたいだって、米田支配人も喜んでいらしたわよ。」
珈琲の香りを楽しんでいたかえでが嬉しそうに言った。そして何かに気が付いたように一同を見渡す。
「せっかくの機会だから、皆の嬉しいことって聞いてみたいわ。過去のことでも何でもいいから。
ちなみに私は、帝劇の皆が怪我もなく健康でいることかしら。」
副支配人の言葉を聞いた一同は口々に答える。
―「お客さまも勿論ですけど…やっぱり、好きな人と一緒にいることだと思います。」
―「売店が忙しい時!」
―「一度で伝票の計算が合った時ですね。」
―「新たなうわさ話を入手して、それを誰かに話す時よ!。」
皆の視線が、最後に残った人物に集まった。マリアは少しだけ考える素振りを見せた後、ティーカップをテーブルに置いた。
「今日、雨が降ったことですね。」
不思議そうな顔をしている一同に向かい、マリアは再び口を開く。
「そのおかげで、こうして皆とお茶を楽しむ素敵な時間を持てたのですから。」
その言葉で談話室に優しい空気が満ちた。
真宮寺さくらが勢いよく椅子から立ち上がる。
「わたし、皆さんを呼んで来ます!せっかくだから、皆で一緒にお茶を楽しみましょう。」
言うが早いか、さくらは談話室から飛び出していった。恐らく一番近い大神一郎の部屋から尋ねて回るのだろう。
マリア・タチバナは再び銀座の街に視線を向けた。外はまだ薄墨色に沈んでいたが、そこには色とりどりの傘がまるで花のように咲き乱れている。それを見て口元をほころばせた彼女の耳に、仲間たちの賑やかな声が聞こえてきた。
―結局、その日は一日中氷雨が降り続いた。そして、談話室から溢れる笑い声も一日中止むことはなかったという。