「日記」巴里 はる様


1.ある秘書の日記

太正15年9月×日 晴れ後曇り

午前6時起床。自宅で朝食をとった後出勤。昼間とは異なり、朝方はやはり肌寒いくらいだ。巴里には珍しく抜けるように蒼い空。今日は何か良いことがありそうな気がする、とその時は思った。
午前8時大使館に到着。迫水大使は既に出勤されていた。不思議なのは、いつも私より先に来ていることだ。仕事熱心…とはとても言えない方なのだが。
午前9時、大使に決裁をしていただく書類を持って行くとにこやかに応じられた。普段はあまり良い顔をしないのだが、今日は機嫌が良いのだろうか?何にしても望ましいことである、とその時は思った。
午前10時半頃、所用を済ませてから大使の執務室へ書類を受け取りに入ると、そこには迫水大使に代わり大神一郎駐在武官が椅子に座っていた。問い質すと、困ったような顔で代わりに座っているよう頼まれた旨を白状した。どうやら大使は大神武官を身代わりとしてサボタージュをしているらしい。居場所の心当たりを聞き出してから、頼まれても二度と応じないよう念をおして大神武官にはお帰りいただいた(…だけど、ここだけの話もう何回かありそうな気がする。頼まれたら断れなさそうな人だし。本当に新進気鋭の海軍中尉なのかしら?)。
テルトル広場に向かうと、そこには情報通り大使の姿があった。どうやら栗色のおさげ髪の少女と一緒に鳩に餌をあげているらしい。幸せそうな顔をしている大使に向かい職場へ帰るよう伝えると、何と聞こえない振りをしたので強制的に戻っていただいた。その際、襟首を掴まれながらも少女へにこやかに別れの挨拶をしていた点だけはたいしたものだと思う。
午後2時頃まで私が傍で見張りながら仕事をしていただいた。ところが、お手洗いから戻ると迫水大使の代わりに真っ赤な服を着たシスターが座っていた。大使に頼まれたという彼女から手渡された手紙には次のような文面が書いてあった。余りにも馬鹿馬鹿しい内容なので記録しておこうと思う。
『済まない、どうしても外せない用事があるのでエリカさんを僕の代理人に任命した。後の事は彼女に全て任せてあるから、君は何も心配することはないよ。』
その手紙を即刻処分すると、居場所の心当たりを聞き出してから、頼まれても二度と応じないよう念をおしてシスターには帰ってもらった(彼女も、大神武官と同じように頼まれると断れないような顔をしている。困ったものだ…)。
サン・マルタン運河に飛んで行くと、大使は橋の上で少々恰幅の良いご婦人とお話しをしているようである。『どうしても外せない用事』とは女性と会うことらしい。表面真面目な顔をしている大使に向かい職場へ戻るよう伝えると、あろうことか「今、大事な話をしているから暫く待って欲しい。」と仰しゃった。思わず橋の上から蹴り飛ばして、運河から這い上がったところを強制連行…私としても大使にお戻りいただかないと大変困るので、心ならずも少々強引な手段により、どうにか大使には職場へとお帰りいただいた。その後は執務室の窓と入口に鍵を閉めて、仕事が終わるまでは部屋から出られないようにする。
結局、書類の決裁が全て終わったのは午後5時頃のことである。そして大使は慌しく出掛けられた。恐らく、今夜もシャノワールでレビューを観るのだろう。

そもそも、大日本帝国の仏蘭西駐在大使たる方が、あのようにいい加減な人で良いのだろうか?以前はブルーメール家のご令嬢と歩いていたところを見かけたし、その他にも長身の銀髪美女や黒髪黒服の日本女性、更には花屋の店員やカフェの店長とも親しげに話しをしている姿を見たこともある。今日の女の子といいご婦人といい、あの人の守備範囲は一体どれだけ広いのか…いや、そんなことはとりあえずどうでもよい。昔は「鉄壁の迫水」と異名をとったそうだが、一体どの辺りが鉄壁だったのだろう?あるいは、多彩な女性関係を築いたにも関わらず、その情報を一切漏らさずに現在の地位を守っているところがその異名の源なのだろうか。
やはり、現在の状況を本国に報告するべきだろう。このままだといつか問題を起こし、国の利益を損なう恐れがあるかもしれない―等と残業をしながら考えていたら、レビューを観に行った筈の迫水大使が戻られてディナーのお誘いを受けた。そして予約を入れていたというレストラン「ロワゾー・ブルー」の食事はとても美味しいものだった。更に帰りは自宅前まで蒸気自動車で送っていただいた。
…とりあえず、本国に報告するのは次の機会にしようと思う。よく考えたら、不思議と仕事を滞らせたことは無いのだから。

願わくは、明日は迫水大使がちゃんとお仕事をしてくれますように。

追伸
こういう抜け目の無いところが「鉄壁の迫水」という異名の源なのだろうか?

 

2.ある整備士の日記

 西暦1926年10月×日 雨

日記というものはその日の最後、寝る前に書くものなのだろうか?もしもそうならば、今書いているこれは日記とはいえないのかもしれない。何しろこれから、出撃から戻ってくる光武F2を徹夜で整備をしなくてはならないのだから。ジャン班長からのお呼びがかかる前に、書けるだけ書こうと思う。
今日の俺は幸運だ。何と言っても今回の担当が「花火機」なのだから。現地からの連絡によると、花火さんのF2には損害は出ていないようだ。今回もOrge F11.bisと各駆動部分のチェック、霊子照準器の微調整、鶫の超鋼ワイヤー製弦の張替え、予備矢筒に矢の補充…その程度で済む筈だ。被弾していないのならば積層装甲の交換も不要。
やっぱり、整備の面から言わせてもらえば遠距離支援攻撃が理想だよなあ。損害を受ける可能性は低いし、機体にかかる負荷も近接突撃機とは比べものにならないし。大神隊長やグリシーヌ様、ロベリア姐さんのF2担当になった日には、完徹確定どころか二徹も覚悟しなくちゃならない。いくらF2になって基本フレームの剛性が上がっただの、サブフレームが取り付けられただの、装甲が強化されただの言ったって、敵と直接やり合うのだから当然被害は避けられないし、何より光武Fと比べて出力が上がった分の負荷が諸に関節等の稼動部分に掛かっちまう。急な再出撃に対応出来るよう被害を受けた装甲と全ての稼動部分を丸々交換して調整、それが終わったら交換した部品の修理と必要な部分品の発注…。ジャン班長は俺等のことを「作業が遅い!何チンタラやってやがるんだ!」って怒鳴るけれど、こんな作業は気が長い奴じゃないとやってられないと思う。
話が逸れちまった。ええと、遠距離支援攻撃の話だったっけ?同じ支援機でもコクリコちゃんとエリカさんのF2は整備が大変なんだよなあ。コクリコ機はソルニエ社製マジカルホーンの調整が大変なのはもちろんだけれど、それ以上にコクリコちゃんの操縦が…。装甲の小型化等による機動力の向上と操縦者の資質によって驚くような動きをする機体は、近接突撃機とは異なる意味で駆動部分に負荷がかかってしまう。搭載カメラの映像を仲間と見ていた時、コクリコ機が蒸気獣の頭を飛んだ場面で歓声と同時に悲鳴も上がったっけ。あれはコクリコ機担当の連中からだったなあ。脚部や股関節限定だけれど、この機体も一度出撃すると駆動部分を総交換しなければならない。バランサーの調整も他のF2より慎重に行わなければいけないし。…分からないのがエリカ機なんだよ。突撃機でもなければコクリコちゃんのような曲芸操縦をするわけでもないのに、戻ってくるとあちこち傷だらけになっているし。…ひょっとして、霊子甲冑着たまま転んだりしているのか?
まだ声が掛からないかな?それでは話を続けよう。
そもそも普通の人型蒸気と霊子甲冑の違いは様々にけれど、その最大の差異は搭載されている機関だ。蒸気機関を遥かに上回る霊子力機関の出力により、霊子甲冑は他の現用兵器とは比較にならない戦闘能力を有することが出来、それ故に蒸気獣や怪人を相手として戦うことが出来る唯一の兵器足りえている。
でも、霊子力機関は何でもこなせる魔法の道具では無い。乱暴に言えば、蒸気機関よりも高出力な機関というだけだ(当然それだけではないけれど、あくまで極論としてね)。つまり、霊子甲冑といえども結局は即製技術の固まりなのだ。各関節を動かすのは電気モーターであり、機体の均衡をとるのは各部バランサー、敵の攻撃から身を守るのは各部装甲。それら全ての部品を調整し、万全の状態で前線に送り出すためには、俺たち多くの整備士が気の遠くなるような手間隙をかける必要があるんだ。
そして、ハンガーから一歩でも外に出た時点で、その機体は万全の状態ではなくなってしまう。
動いていること自体が奇跡のような機体は、機関が始動した瞬間から、そして一歩歩き出したその時から、何らかの不具合が生じる可能性が発生する。特に1t前後の自重が掛かる脚部の関節は、調整の面だけで言えば1歩歩く毎に総点検したいくらいだ。…もちろん実戦でそんなことをしているようでは兵器として役には立たないので、「万全の状態」にはある程度の幅がもたせてあるし、不具合についても整備士の誇りに懸けて可能な限り出ないように対応している。でも、戦場では何時でも不測の事態が起こるし、先に書いたように動いていること自体が奇跡のような機体は時間が経てば経つほど各部の疲労が蓄積され、部品としての信頼性は低下してしまう。マニュアルスペック上F2の限界行動時間は10時間以上となっているが、内部規定で2時間以内(※戦闘状態時)と制限されているのは、それ以上行動していると機体が耐えられず擱坐する可能性があるからだ。
…うーん、ここまで書いて思うのは、やはり人型なのが問題なんだよなあ。二足歩行というのが最大の障害だよ。俺は世界初の人型蒸気スタアの歩行装置をタイヤに戻した当時の技術者の気持ちが良~く分かるね。スタア改のように歩行装置をタイヤか無限軌道にすれば、整備の手間や部品の信頼性も格段に改善されるのだから。まあ、多少の高低差を克服出来る二足歩行の方が兵器として明らかに優れているのも分かるのだけれど、整備との均衡を考えるとねえ…。今のところは、通常の行軍時にはグライドホイールの使用を徹底してもらうよう、ジャン班長から大神隊長にお願いしてもらうのが現実的な妥協点なのかな。
さて、一段落ついたところでエリカさんの光武F2に話を戻そうか。俺は整備士としてF2の性能を全て把握しているつもりだ。でも、彼女のF2には分からないところが幾つもある!前に書いた装甲が傷だらけになる件ももちろんだけれど、その最たるものが飛行能力だ。いくら霊子コンバーターが羽の形をしていたって、いくら展開時に若干の滑空性が確認されていたって、どう考えても1tを越える機体が飛べるはずが無いんだよ。ところが搭載されたビデオや行動記録装置を見ると、明らかに飛んでいるとしか思えない映像や数値が検出されている。エリカさん本人の霊力特性によるというのが今の段階での推測だけれど、操縦者同様分からないところがある機体というのは何とも整備士泣かせ…おっと、班長の怒鳴り声が聞こえた。どうやら花組が帰投したらしい。今日の日記はここまでだ。

願わくは、明日は出撃がありませんように。たまにはゆっくりと眠りたい!

 

3.ある少女の日記

西暦1926年12月19日 曇り

聖テレーズはやはり私を見守っていてくれる。だって、誕生日にあんなに素晴らしいおくり物を与えてくれたのだから。

朝起きた時にはいつもと変わらない1日だと思った。飲みすぎてまた身体をこわした父を残し、モンマルトルの市場のすみでいつものように「ラ・マルセイエーズ」を歌う。父が軽業をひろうするより、私が歌った方がたくさんお金をもらえる。もう少し大きくなったら、あんな父の元を離れて、この歌で生きていくのだ。
昼は同じ市場のすみで食事。今日も市場のあまり物で作ったサンドイッチをコクリコが持ってきてくれた。彼女は私より一つ年上だけれど、ちゃんと働いてじかつしているし、旅回りの私とも分けへだてなく接してくれる優しい人だ。
そんなコクリコだからだろうか、つい今日が私の誕生日であることを話してしまった。直後に、赤の他人に何を話しているのだと軽くこうかいしたけれど、彼女は馬鹿にすることなく「おめでとう!」って言ってくれた。そして更に、私をあのシャノワールに連れて行ってくれるというのだ。確かにコクリコはシャノワールのレビューに出演していると言っていた。でも、私はげき場に入れるようなきれいな服を持っていない。そう伝えると、絶対何とかするから夕方ここで待っていてと言ってコクリコは走って行ってしまった。
午後はテルトル広場で歌を歌う。今日はろじょうで歌ってもけい官につかまらなかった。やはり聖テレーズが守ってくれたのだ。夕方になって約束通り市場まで戻ると、コクリコがふくろを手に持って待っていてくれた。その中には彼女のよびのレビュー服が入っていた。コクリコの手伝いということで話をしてきたらしい。私は彼女よりも身体が小さいから少し丈が余ってしまうけれど、すそを折ってくれながら「わぁ、何だか妹が出来たみたいだよ。」と言われた時はなぜかうれしかった。コクリコが本当のお姉ちゃんだったら、毎日がもっと楽しいだろうな…。
はなやかなシャノワールの正面入口を見上げた時は胸がドキドキした。おとずれる大人も皆同じように楽しそうな顔をしている。コクリコに手を引かれて通路を通り舞台うらに出ると、とってもきれいな衣しょうの列や舞台道具が置いてあって、その間をダンサーの人たちが忙しそうに走り回っていた。そしていっしょに楽屋へ入ると、そこには街角のポスターでいつも見ているレビューダンサーたちが出番を待っていた。コクリコが話をしてくれたのだろう、私のすがたを見るとみんながお祝いの言葉をかけてくれた。私とよく似た目をしているサフィールは、「コクリコより小さいんだな。まるでスズメみたいだ。」と言って笑いながら頭をなでてくれた。そしてエリカは私にだきついて来て大変だった。…でも、少しうれしかった。
うら方の人のじゃまにならないようにしながら、舞台うらからステージをみた。
エリカの人を楽しくさせるダンス、コクリコの本当にまほう使いの弟子としか思えないような手品、タタミゼ・ジュンヌの不思議な、でも落ち着いた東洋のダンス…。
そしてあっかんだったのは、ブルーアイとサフィールによる歌だった。正直、今の私には歌詞にある「愛」の意味はよく分からない。でも、2人の歌の凄さは分かる。テーブルについている客は幸せそうな顔をして歌に酔い、曲が終われば万雷の拍手で応えている。その様子を見て、私は胸が熱くなった。私もステージの上に立ちたい。街角で歌っても拍手はしてくれるけれど、でも、私もステージの上で歌って、皆にあんな顔をしてもらいたい!ステージから戻ってきたブルーアイとサフィールを捕まえて、私は思いの限りを二人に伝えた。ふだんなら絶対に他人にそんなことを言わないのに。今考えると、きっと凄くこうふんしていたのだろう。そんな、子供のじょうだんと笑われても仕方がない言葉を、でも2人とも鼻で笑ったりはしなかった。サフィールは私の頭をらんぼうになでながら、「アンタはコクリコと同じで、自分の食いぶちを自分で稼いでいるんだろう?なら、経験が足りないなんて言わない。自分の歌に自信があるのなら、いつか放っておいてもどこかから声がかかる。アンタが舞台に立つのを楽しみにしているよ。」と言ってくれた。ブルーアイは私の前でしゃがむと、まっすぐ目を見ながら「そうだな、私もその日を楽しみに待っている。デビューしたら、ぜひ私と共演してほしい。」と言ってくれた。優しくほほえみながら言ってくれた言葉を、私はずっと忘れないだろう。私はいつか必ず舞台に立って、そしてシャノワールのレビューダンサーたちのようにかん客を幸せにしてみせる!

願わくは、その場所がシャノワールの舞台の上でありますように…。

 

【著者補記】
この後、エディットは15歳で父親の元から離れ、巴里の通りや兵営、安酒場で歌を歌い続けた。そして20歳の頃、シャンゼリゼのキャバレー「ジャニーズ」の経営者ルイ・ルプレの目に留まり、彼女は屋根付きの舞台に初めて登場することになる。その時の芸名は「ラ・モーム・ピアフ(スズメのような小娘)」というが、これはルイ・ルプレが名付けたのか、それとも本人が望んだのかは判然としない。
後世、彼女は「エディット・ピアフ」という名で「バラ色の人生」「愛の賛歌」等の名曲を残し「シャンソンの女王」と呼ばれることになる。

※なお、エディット・ピアフがシャノワールの舞台に立ったというプログラムは残っていない。しかし、ブルーアイやサフィールといった当時のシャノワール看板女優たちとピアフが一緒の舞台で共演していたと証言する者も少なからず存在するという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です