「悪夢」巴里花組 はる様


 目が覚めると、辺りは紺色の石壁に囲まれていた。暫く呆然としていたが、ここが独房だと気が付いて喪失感と安堵感が入り混じった溜息を漏らす。鉄格子から差し込む月明かりが、白い息と共に冴える房内を照らし出していた。

「また、嫌な夢を見ちまったな…。」

房の主は呟きながら、薄い毛布を肩まで引き上げた。
一年を通して過ごし易いと言われている巴里も、冬になるとめっきりと冷え込んでくる。ましてや夜明け前の、しかも石造りの独房の中ときては、その寒さは推して知るべしだった。それに日照時間も短くなって、朝は8時頃でもまだ薄暗いため現在の時刻もよく判らない。
『まあ、まだ起床の号令も無いから、もう一眠りするくらいの時間はあるだろう。』
そう考えはしたものの、またあの夢を見るのではと思うと再び眠りに落ちる気にはならなかった。

まんじりともせず夜を過ごし、格子越しの空が気持ち明るくなった頃、石畳の廊下を靴音が近づいてきた。その靴音は鉄格子の前で立ち止まると、房の主に向かって言葉を掛ける。
「ロベリア・カルリーニ。出るんだ。お前に、いや君達に頼みたい事がある。」
寝不足の目で人影を眺め、ロベリアと呼ばれた女性は揶揄するように答えた。
「何だ、エビヤン警部じゃないか。アタシのレビューは今日じゃないぜ。それとも、個人的に見せて欲しくてこんな所まで来たのかい。」
だが、そんな軽口を無視するように、ジム・エビヤンは黙って独房の鍵を開けただけだった。
その態度が気に入らなかった主は一つ舌打ちをすると、何を言ってやろうかと相手の顔を睨み付けて―そして言葉に詰まってしまった。
警部の顔には疲労の色が濃く出ていた。眉間には深いしわが寄り、その目の下には黒いくまが浮かび上がっていた。
「…何があった?」
「詳しい事は後で話す。来てくれるな。」
ロベリアは一つ溜息をつくと、勢いをつけて粗末なベッドから飛び降りた。
「時間外労働だ。ボーナスは弾んでもらうよ。」

 灰色の霧の中に沈む街並を抜けて車が横付けをした先は、ロベリアが予想した通りシャノワールの正面入口だった。ポーチを通りロビーを抜け、従業員専用通路を歩いて秘書室の扉を潜る。秘書のメル・レゾンがエビヤン警部とロベリアを迎え、二人を奥の支配人室へと導いた。
そこには既に先客の姿があった。だが、その数はロベリアの予想よりずっと少ない。
「この店のオーナーと青いの、それにチビと赤いのはどうした?」
その問いに、ソファーに腰を降ろしている迫水典通支部長が答えた。
「マダムグラン・マとグリシーヌさん、そしてエリカさんは賢人機関の会議に出席するため伯林に出張中だよ。」
「コクリコさんは、シルク・ド・ユーロの地方公演で巴里を離れていますぅ。」
コーヒーを配っていたもう一人の秘書―シー・カプリスが補足する。
『…そう言えば、先週末のレビューで独逸のプリンがどうとかエリカが言ってたような。』
北大路花火の横に腰掛けながらロベリアが思い出していると、メルが部屋の扉を閉めて言った。
「エビヤン警部、これで全員揃いました。一体どのようなお話なのでしょうか。」
立ち上がろうとする警部を片手で制したのは迫水支部長である。
「いや、私から話そう。警部から直接話を聞くのは色々と都合が悪いだろう。皆は最近巴里で起こっている『女性・児童連続通り魔事件』は知っているね。」
各人それぞれの仕草で頷いているが、ロベリアだけはその事件を詳しく知らなかった。シャノワールのレビューに出演するため週末限りの外出許可しか出ていない彼女は、当然のように世間の事情に疎くなっていた。そんな彼女の表情を見て、支部長は改めて事件の内容を語り始めた。
その事件に巴里の人々が感心を寄せ始めたのはここ一ヶ月の事である。当初は個別の通り魔犯罪だと思われていたが、様々な共通点から巴里っ子の間では同一犯による犯行であると噂されていた。現在までに被害を受けた人数は―。
「…98人もの方が犠牲になってしまったよ。」
抑制された声で言った迫水の発言を、激情を必死に押さえ込んでいるエビヤンの声が訂正する。
「いや、102人です。昨夜も4人の市民が被害に遭ってしまった。」
部屋の中にいる者は、暖房が効いているのにうそ寒そうな表情をした。
そんな中で、ロベリアだけが激発寸前の警部に表面平然と言い放つ。
「それは確かに酷い事件だ。でもな警部、その犯人をアタシ達にどうこうさせようって言うつもりならそれはお門違いってもんだ。巴里華撃団の相手は怪人であって、人間相手の事件なら、それは警察の仕事だ。」
「ロベリアさん!そのような言い方はどうかと思います。」
珍しく語気を強めた花火だったが、それをエビヤン自身が制した。
「いや、いいんですよ。確かにロベリアの言う通りなんですから。」
そう言った警部の声は苦い。
「人間が相手なら、確かに私達の仕事です。だが、今回は…。」
「もしかしたら…再び怪人が現れたとでも?」
控えめに花火が問うと、迫水が警部に代わって答える。
「状況から見てその可能性がある。有り体に言えば、普通の人間では今までの犯行が立証出来ないんだ。」
そう言うと、支部長は皆の前に証拠を並べてみせた。

第一に、これほどの被害者が出ていながら目撃者が一人もいない点。
犯行が行われた時間が真夜中で、場所が人通りの少ない裏通りならば、或いはそんな事もあるかもしれない。
だが、今回の事件では時間どころか場所さえも唯一つとして同じではなかったのだ。
ある時は昼間のシャンゼリゼ大通りで。またある時にはオペラ上演後のガルニエ入口で、不幸な被害者は不本意な石畳との抱擁を強制された。時間や場所を考えれば辺りには溢れ返る人がいた筈だが、その誰一人として犯人の姿を見たものはいなかった。
際立つ例として、この事件が一躍有名になったメトロ1線での犯行がある。
休日の買い物時間帯で混雑していた地下鉄がコンコルド駅を出発した。そして次のシャンゼリゼクレマンソー駅に到着した時、その中の一車両内で生存していたのは凄まじい惨状の中で気を失っていた男性客だけだったのだ。警察は意識が回復するのを待って事情聴取を行ったが、正気を失っていた男からは何一つ有効な回答を得る事が出来なかった。

第二に、被害者が通常では考え難い傷を受けている点。
警察の手により被害を受けた人の調査が行われたが、それにより全ての被害者には共通の傷跡がある事が判明していた。その調査報告書には次のような一文が載っている。

『―凶器は鋭い鉤状の物(※但し、刃物類の鋭利さに非ず)。それを力任せに振るったものと推測される。しかし生物学的に考察するに、通常人間として考えうる腕力の上限を超えた力が働いている点を鑑みて、凶器自体に何らかの機能が付加されている可能性も否定できない―』

「ひょっとすると、昨年の事件で倒した怪人が復活したのでしょうか?」
眉を曇らせながら誰にとも無くメルが言うと、それを言下に否定したのはロベリアだった。
「いや、それは無いね。聞いた範囲でだが、今回の事件は今までのどの怪人の手口とも異なっている。個人の欲望に忠実な所は同じかもしれないが、ここまで直接的に人間を狙う奴はいなかった。」
「すっ、すると、新たな怪人が現れたんですかねぇ。」
怯えたシーの言葉に、しかし答えられる者はこの場には存在しなかった。
顎に手を当ててロベリアは思案をめぐらす。状況から考えれば、新たな怪人が出現したと考えるのが自然だ。だが、逆に言えば現在は状況証拠しかないのである。何故今なのか、何故去年の騒動の時に現れなかったのかも不明だった。
『もっと情報が、それも出来るだけ確実な情報が欲しい。』
そして睡眠時間も欲しい、この所嫌な夢ばかり見て寝不足気味だ―と粘りのない頭で考えていると、隣に座っている花火がぽつりとつぶやいた。
「こんな時に、皆さんがいてくれたら…。」
「下らない事を言うなっ!」
突然気色ばんだロベリアに、そこにいた人々は驚きの視線を向ける。
「ご、ごめんなさい。私、何か気に障るような事を…。」
「あ…いや、その、何だ、今ここにいない奴を頼ってもしょうがないだろうが。」
ばつが悪そうに横を向く彼女を見て、皆は顔を見合わせた。ロベリアがここまで感情を露にする事は滅多に無い事だった。
『くそっ、これと言うのも…。』
脳裏に浮かんだ一人の男性の姿に焦点が合いそうになり、慌てて頭を振った。そして無理矢理事件に頭を切り替える。
―女と子供だけ狙われる・100人を超える被害者・鋭い凶器・そして人外の存在―
一見同じ形のないレンズの向こうに、ロベリアはぼんやりと結ぶ一つの像を幻視した。
「ベート…ジェボーダンのベート。」
その言葉を聞いた者は、顔を紙のような白い色に変えた。
「や、やだなぁロベリアさん。何突然大昔の話をしてるんですかぁ。」
「そうですよ。それは十八世紀頃の、しかも南仏の話ですよ。」
そう反論したシーとメルだったが、その言葉には力強さが著しく欠けていた。それほどまでにその名前は有名で、そしてその話には曰くがあったのだ。

 他の国と同じく、仏蘭西国にも夜の闇が存在する。そして仏蘭西人にとってもっとも危険な闇の住人は狼だった。その理由はいくつかあるが、狼が住む森を切り開いて畑や牧場したため人間の生活圏と隣接してしまった事が大きいだろう。
仏蘭西国の歴史の中で特に有名な人食い狼が二匹いる。それが十五世紀に現れた「クールトー」と、十八世紀の「ジェボーダンのベート」だった。
クールトーが縄張りにしたのは巴里の周辺で、その下には300匹もの狼が従っていたという。ある時には市内にまで侵入し、ノートルダム広場で聖職者14人を襲ったこともあった。最後は騎士団の手によりその一党ごと全滅させられたが、その際には多くの騎士を道連れにしたという。この話は「シートン動物記」の中に「仏蘭西の狼王」という題でおさめられている。
ベートが歴史上に現れたのはルイ十五世の時代、革命前の西暦1764年、南仏蘭西の中央山塊ジェヴォーダン地方だった。農家の女と子供が、次々と「得体の知れない何か」に襲われる事件が続発し、この地方の人々を恐怖に陥れた。猟師による大掛かりな狩りや国王による3度の討伐隊派遣もあったが効果は無く、その後も被害者は増え続け、その数は約3年間で101人にも上っている。西暦一七六七年七月、この事件の初めからベート退治を指揮していた土地の貴族アプシェ侯爵の領民ジャン・シャステルが雄の巨大な狼を射殺して以降ベートが現れなくなったので、この事件はそこで終わりを告げている。
しかし、様々な謎や疑問が後世に残された。

先ず、ベートの正体が今に至るまで不明だった。
当時の目撃者が次のような証言を残している。
「―狼よりはずっと大きく子牛ほどもある。頭部は異常に大きく、吻はグレーファウンド犬のように細長く、口は大きく裂け、牙は長くて鋭い。耳は直立して、肩から尾にかけて一本の太い縞がある。尾は地に付いて余るほど長く、走る時はそれを上下左右に振って舵を取る。足指には鋭い鉤爪がある。歩いているさまは鈍重そうだが、走ると地響きを立て、かなりのスピードを出すことができる―」
これが全て事実ならば既に立派に怪人の条件を満たしているが、この他にも「狼と熊とが混血した怪物で、人語をしゃべり、二本足で飛ぶように走る。」という噂まであった。

次に、ベートの最後が判然としなかった。
シャステルが巨大な狼を倒してから被害者が出ていないのだから、これがベートの最後であると言えるだろう。ところが、これよりも前にベートが倒されているのだ。
ルイ十五世が三度目に派遣した討伐隊のアントワーヌ・ド・ヴォーテルヌが、一七六五年の秋大掛かりな狩りの末に巨大な狼を射殺した。彼は国王にベートを倒したと認められ、莫大な賞金と名誉を得ている。
しかし、これが相当に怪しいものだった。
ヴォルテールヌは当時ベート退治に手間取り、国王の不興をかって首になる寸前だったという。そこで彼は、国王に退治したと認められる為に様々な裏工作をした。国は国で、この後被害が続き、シャステル自信が倒したと訴え出ても、「ベートはすでに退治したから。」とそ知らぬ顔を決め込んでいる。

最後に、最大の功労者であるジャン・シャステル自身に不審な点があった。
この人物には不可解な言動が多く、ジェボーダン地方に来る以前の消息が一切不明だった。その為、「ベートを操っているのはシャステルだ。」という噂まであったのだ。

今回の事件と比較すると、巴里で起こっている点を考えればクールトーの方に関わりが深い。そして犯行の様子から考慮するとベートの姿が当てはまった。鋭い鉤爪、飛ぶように走る、得体の知れない何か―。
そこまで考えて、ロベリアはソファーにもたれ掛った。
『結局、こっちも状況証拠しかないんだよなあ。』
やはり情報が欲しかった。いや、もはや情報とは言えないようなものでもいい。切っ掛けになるような何かが欲しかった。

 その日は朝から晩まで忙しい一日になった。
やるべき事が多かった―とは一概に言い切れない。なにをするべきなのかが明確になっていなかったのと、何より動員出来る人数が少なかったのだ。
とりあえずベートに目星を付けて、花火は朝から情報収集のため図書館に向かい、ロベリアは作戦司令室で迫水支部長、ジャン班長と共に一応の作戦を考案していた。エビヤン警部は警察官の任務を遂行するために警察署に戻っている。午後になると迫水は計画実行のために街へ向かい、ジャンは格納庫に篭って必要となる物の準備を始めた。ロベリアも作戦を展開する場所を探しに街へ出ている。
その間メルとシーが何をしていたのかというと、実はシャノワールの開店準備に追われていたのだ。こんな物騒な時期にレビューをしてもお客さんは来ない―と思いきや、実際の客の入りはほとんど変わらなかった。「女や子供が襲われる。」という事は、逆に言えば「男は襲われない。」となる訳で、中には「外に出ればこちらのもんだ。カカアは外に出られないんだからな!」と豪語するような客までいた。そして開店するからには当然レビューをしなければならず、看板女優の二人は例え疲れていても笑顔でお客さん達の前に立たなければならなかった。
ステージから楽屋に戻ると、サフィールから戻ったロベリアが目の前の椅子を蹴っ飛ばした。
「全く!コクリコはしょうがないとしても、何でグラン・マとあの二人はこんな時に伯林くんだりまで出張ってるんだよ。」
転がった椅子を元に戻しながら花火が答える。
「華撃団の方から直に話を聞きたいから、という事でしたよ。何でも新しい華撃団が紐育に出来るのでその参考にしたいとか…。」
「新しい華撃団が紐育に?」
有り得る話だな、とロベリアは思った。都市には必ずと言ってよいほど霊的脅威が潜んでいる。トーキョー然り、巴里然り…。これからも各都市で事件が起きる可能性がある。その街を守る組織も、当然必要になる。そこに住む人々の笑顔を守る為に―。
「ロベリアさん、そろそろ着替えないと風邪をひきますよ。」
そっと花火に言われて我に返ると、ロベリアはらしくない事を考えていた気恥ずかしさから急に話題を替えた。
「そう言えば、図書館で何か手掛かりは見付かったのかい?」
いつもの黒い服に着替え終わっていた花火は、近くの椅子に腰掛けると頭を振った。
「いえ、何も…。動物学者の方や歴史家の方がお書きになった本を幾つか読んでみたのですが、噂や伝説が入り乱れていて余り参考にはなりませんでした。『ベートにはどんな武器も通用しなかったけれど、神様に祈りを捧げて教会で清められた弾丸を使用したら倒せた。』などという記述もあったくらいですから。ジャン・シャステルさんについても、歴史上に現れたのはこの時だけで、これ以前や以後については全く判っていません。」
そうか、と答えたロベリアの声に落胆の色はほとんど無い。その程度の話は既に知っていたし、そもそも手掛かりが無いから調べていたので、どんな些細な事でも何か見付かったら儲け物程度に思っていたのだ。
「あ、他に一つだけ判った事がありました。ただ、今回の事件とは余り関係が無さそうなのですが…。」
そう控えめに切り出した花火によると、三度目に派遣された討伐隊のアントワーヌ・ド・ヴォーテルヌはその数年後に急死したらしい。
「亡くなった時期ですか?そう、シャステルさんが巨大な狼を倒してから数ヵ月後です。亡くなった原因は具体的に記述されていません。ただ、何かの事件に巻き込まれたようですが…。」

なぞったような一日が経過した。つまり新たな情報も無く、幸か不幸かロベリアや花火が狙われる事も無く、そしてシャノワールが臨時休業にもならなかった一日が過ぎたのだ。
店が閉店すると、ロベリアは一人劇場から抜け出した。疲れた体で向かった先は酒場―ではなく、とあるアパルトマンの人気の無い一室である。鍵は持っていないので、当然のような顔をして窓から室内に侵入する。そして間取りを知っているような足取りで壁際まで歩くと、部屋を見渡すように壁にもたれかかった。開け放たれた窓からは月光が差し込み、室内を蒼く照らし出している。部屋のベッドや机は備え付けなので、以前ここに人が住んでいた頃とほとんど変わらないように見えた。
ここはかって、東洋から来た青年が半年間を過ごした部屋だった。
しかし、今のこの部屋は彼女一人には広すぎた。そこに無いものを想った時、心に広がった波紋は想像を遥かに越えていた。我知らず頬を伝う涙が床に落ちる。
『何だよ…どうしちまったんだよアタシは!』
自分から来ていながら逃げるように窓に向かおうとしたその時、僅かな気配を感じて瞬間に身構えた。その気配に憶えはあるが、右手は既にナイフの柄を掴んでいる。
差し込む月の光の中に、うっすらと人の影が浮かんでいた。その影に、ロベリアは見覚えがあった。
「お前、サリュか?」
まるで道化師を思わせる衣装と化粧をした影は、直接ロベリアの意識に語りかけた。
『パリシィの子よ、彼は危険だ。』
「彼…事件の犯人か?奴はやはり怪人なのか。」
ぼやけていて表情は読めなかったが、伝わる言葉に後悔の念が含まれているように感じた。
『私が彼を復活させた。予定通りならば彼もオーク巨樹復活の生贄になる筈だったが、巴里への怨念より自分の復讐を優先させたらしい。その為に彼だけが生き残ってしまった。』
「復讐?何言ってんだか分からないよ。その怪人は何者なんだ。復活させたというなら、再び封印できないのかよ。」
『彼が何者なのかは分からない。あの時、巴里にいたから復活させた。実体を持たない今の私には、巴里の人間全てを守る事も彼を封印する事も出来ない。』
「…なるほど、最近妙な気配を感じると思ったら、お前がアタシ達を守ってくれていたのか。道理で華撃団の誰も被害に遭わない訳だ。」
ロベリアは白い息を吐いた。肺に冷たい空気が入り、先程の動揺が幾分和らいだような気がする。
すると彼女の頭の中に、一つの奇抜な着想が閃いた。
「なあ、封印は出来なくても、そいつと話をする事は出来るのか?」

 ロベリアの眼下には光の海が広がっていた。
俗な言い方をすれば「宝石を散りばめたような」夜景と表現出来るそこは、シャルル・ド・ゴール・エトワール広場の真中にそびえ立つ凱旋門の屋上だった。
ド・ゴール広場に建つ「エトワールの凱旋門」は、西暦一八〇五年のオステルリッツの戦いに勝利した記念として翌年から建設が開始された。ところが、30年後に高さ約50メートル、幅約45メートルの巨大な門が完成した時には命令を下したナポレオン一世は既にこの世の人ではなく、英雄は遺骸となって門を潜ることになった。その後は極秘裏に巴里華撃団凱旋門支部として改装されており、地下には最終兵器リボルバーカノンが収納されている。
ロマンチックな夜―と言うには地平の縁近くにある赤い満月と、ロベリアが着ているのがドレスではなく戦闘服という所に難があったが、その当事者は特に気にした風も無くシャンゼリゼ大通りを見下ろしていた。普段ならば蒸気自動車の明かりで光の河のようなそこも、外出禁止令が出ている今夜はたまに通る警察車両の照明しか見えない。
『1日で準備が整ったのは上出来だ。後はサリュが上手く話をつけられるかだが…いや、いらぬ心配だったな。』
背後に靴音と気配を感じて振り向くと、一体何処からやってきたのか、そこには一人の青年の姿があった。
「貴女が、彼が言っていた待ち人ですか。待ち合わせの時間には遅れていないつもりでしたが、お待たせした点については謝罪します。」
そう言って軽妙な振る舞いをした青年の姿を、ロベリアは内心驚きをもって眺めた。
少し伸びた銀髪の下に覗く顔は、彼女の目から見ても十二分に整ったものだった。ロベリアとほぼ同じくらいの長身で、見事にスーツを着こなしている。もしも彼がシャンゼリゼ大通りを歩いていたら、多くのパリジェンヌが振り向くだろう。
だが、その優男の正体は―。
「お前が、この巴里で噂の通り魔なのかい。とてもそうは見えないけどね。」
青年は慌てた様子も無く両手を広げた。
「その言われようは心外です。けれども、私は人の価値観を尊重します。世の中にはそのように思う人もいるのでしょうね。」
その態度が妙に腹立って、ロベリアの言葉も刺々しくなる。
「それ以外にどう思ってる奴がいるのか、是非聞いてみたいもんだね。女子供ばかり襲いやがって、この悪魔が!」
「私の価値観について非難してほしくはないですね。それに、私が悪魔ならば貴女も同じですよ。私達は『同族』なのですから。」
その言葉にロベリアの血の気が退いた。確かに青年がパリシィの末裔ならば、彼女と同族と言われても否定は出来ない。それに、ロベリアはかつて「巴里の悪魔」とも呼ばれていた。
「貴女が私を呼び出したのは価値観の相違を埋める為―ではないようですね。それではどのようなご用件なのでしょうか。まさか、私と戦うつもりではないでしょうね。価値観は別として、私は同族の方とは争いたくないのですが。」
「いや、その前に聞きたい事がある。ケンカを売るのはそれからでいいだろ?」
ドレスの代わりに戦闘服を着込んだ女性は、自分を奮い立たせるように軽口をたたいた。
「先ず、お前の事を何て呼んだらいいんだ?名前が分からないと、いい雰囲気になった時困るからね。」
そう問われた怪人は、顎に手を当てて考え込んだ。
「名前…ですか。自分から名乗った事は特にないのですが―そうだ、他の方達から呼ばれていた名前がありますから、どちらでも気に入った方で呼んでください。」
顔の前で人差し指を立てると、怪人は名前を告げた。

―クールトーでもベートでも、お好きなように―

ロベリアは驚きを隠す事に失敗した。赤い月光に照らされている怪人にかけた言葉にも、いつもの軽妙さが欠けている。
「…クールトーとベートだって?まさか、二匹とも同じ化物だったとでも言うんじゃないだろうね。」
怪人は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「言い方に少々不快な点もありますがその通りですよ。そのお顔を見ると、ご存じなかったようですね。」
ロベリアの表情を見て興を誘われたのか、怪人は屋上の縁まで歩くともたれ掛って言った。
「それでは夜も長いですし、私の身の上話でもしましょうか。お互いを良く知る事は、喧嘩をするよりも有意義だと思いますよ。」

怪人が巴里に復活した当時、まだパリシィの怨念を封じていた古の城壁は健在だった。そのため霊力も弱く、狼の姿で暴れまわるのが精々だった。パリシィの聖地であるノートルダム広場で大暴れした時は痛快だったが、その後人間どもに手痛い反撃を受けて呆気なく倒されてしまった。
そこで全てが終わった筈だったが、その時討伐に参加した騎士の一人が極秘裏に遺骸の一部を持ち去った所から話は続いていく。その後数百年振りに目を覚ました時、目の前にいた男が自分を復活させた人物―ジャン・シャステルだった。落ちぶれてジェボーダン地方にまで流れていた彼が思いついたのは、先祖から受け継いだクールトーの遺骸を利用して狂言犯罪を起こす事だった。人間、しかも自分を倒した者の末裔に利用されるなど言語道断だが、彼には先祖から受け継いだ不思議な力―ネクロマンシーとか言ったか―があり、どうしても逆らう事が出来なかった。シャステルはクールトーに人々を襲わせて、騒ぎが大きくなった頃合いを見て自分が倒したように見せ掛け、その賞金を得るという計画を立てた。その実行の際、シャステルからの注文によりクールトーは女性や子供を狙って襲っている。当初は「より恐怖心を煽る為」だった行為に、途中からは自分がのめり込んでいった。その計画は順調に推移していたが、詰めの段階で横合いから金を掠め取られてしまったのだ。怒りの余り真っ赤に染まった目を光らせてシャステルは言った。
「クールトー。いや、今ではベートと言った方がいいな。これが最後の仕事だ。奴が、俺の物だった金を騙し取った下種野郎が今何処にいるのかを探し出せ!そして、奴に相応しい報いを受けさせてやるんだ!」
アントワーヌ・ド・ヴォーテルヌを一族ごと滅ぼしたベートが再び目を覚ますと、そこは故郷である巴里のカタコンブの中だった。ヴォーテルヌの財産を奪ったシャステルがその後どうなったのか、封印された後の記憶が無い彼には窺い知る事が出来なかったが、自分が巴里にいるということは恐らくその金を持ってこの街に舞い戻ったのだろう。古の城壁が無くなった今、彼の行動を妨げるものは何も無かった。そして彼が真っ先に成したのは―
「…復讐、か。自分をいいように利用したシャステルの末裔達に。」
ロベリアの独白に怪人は拍手で応えた。
「ご明察の通りです。これこそ『相応しい報い』というものですよ。さすがに一人一人探して回るのは骨が折れましたが、昨年の末にやっと成し遂げました。」
花畑の害虫を全て駆除し終えた、と言い換えても通用するような表情の怪人に、ロベリアが推論を述べた。
「そして復讐を遂げたベートさんは、怪人の本分に則り、再び巴里の住人を襲い始めました、と。」
やはり拍手で応えながら、怪人はロベリアを褒め称えた。
「貴女は聡い人ですね。貴女のような方と話をしていると気持ちが良いですよ。表面が綺麗な女性でも、頭の働きが鈍いとそれだけで興醒めですから。」
「そりゃどうも。で、次に聞きたいんだが、何故女や子供だけを襲う?」
言葉とは裏腹に、次第に危険な光を帯びる目で怪人を睨む。だが彼は平然とした顔で答えた。
「先程も少し述べましたが、それは個人の価値観です。それに若干修正しますと、私も必要があれば男でも襲いますよ。シャステルの一族が良い例です。…私の価値観ですか?そうですね、女性の方が、より楽しめるからです。」
楽しそうに笑うと、怪人は言葉を続けた。
「ただの人間ならば、私は誰にも負けません。もちろん相手が男性でもね。ところが中にはごく稀に不思議な力を持つ方がいて、そんな方が相手だととても楽しめるんですよ。ジェボーダンでそのような女性と初めて出会った時を思い出すと、今でも心が躍ります。あれは本当に楽しかった。子供?『引き鉄』ですよ。先に子供を狙うと母親は本気に―」
怪人は言葉を紡ぐ手を止めた。彼女が発する危険な雰囲気に気が付いたのだ。
「もういい。良く判ったよ。」
「ようやく判っていただけましたか。」
破顔した怪人に、だがロベリアは同調していなかった。
「ああ。お前とは一生分かり合えない事が良く判った。」
怪人は大袈裟に首を振ると、溜息を一つついた。
「分かり合えないというのは悲しい事ですね。それでは、喧嘩とやらをやりますか?この私と。」
「ああ、いいねえ!やっぱり喧嘩は、売るよりも買った方が気分がいいよ。」
不適な笑みで言い切ると、ロベリアは右手を高々と空に掲げた。そして夜の闇に向かい掌から炎を吹き上げる。感心顔で拍手をしている怪人の耳に、突然毎日聞き慣れている音が届いた。
巴里中の教会が、鐘を鳴らし始めたのだ。耳を澄ますと祈りの声も聞こえてくる。
今夜初めて怪訝な表情を浮かべた怪人が次に感じたのは、体に響く低い振動だった。その直後、凱旋門を取り巻くような光の壁が一瞬空に向かって伸びた。
「…結界、ですか。おまけにカトリックの祈り付き。何か用意をしてあるとは思いましたが、正直ここまで手が込んでいるとは想像していませんでしたよ。ですが、これで貴女も閉じ込められた。そうまでして私と二人きりになりたかったのですか?」
「デートの邪魔をされたくなかったんでね。」

試作段階だった「簡易結界発生装置」を完成に漕ぎ着けたジャン班長をはじめとするシャノワール整備班と、その支援のため仏蘭西カトリック教会や巴里市警に働きかけをした迫水、そして装置の膨大な動力源と戦闘に向いた場所を探し出したロベリアの収めた成果がこれだった。凱旋門支部内リボルバーカノン司令室で、蒸気起動装置の始動レバーから手を放した迫水支部長が誰にとも無く呟く。
「我々に出来るのはここまでだ。後は彼女を信じるしかない。」

不敵に笑った怪人はロベリアに歩み寄った。銀色の瞳に赤い月光が照り返している。
「やはり貴女と私は似た者同士だ。同族だから、というだけではなくね。今、貴女は様々な感情を圧するその攻撃の衝動に身を委ねている。心が躍って仕方がないのでしょう?私から言わせてもらえば貴女も悪魔―」
その言葉を遮るように、何も無い筈の空間から暴風が怪人を襲った。だが彼は平然と右腕を払う。火花と共に金属を擦り合わせたような音が辺りに響き渡った直後、怪人の右隣で轟音と共に床が砕け散った。
今まで何も無かった場所に、光学迷彩を解いた光武F2が現れた。ロベリアは機体に触れての遠隔操作で、振り下ろしたシザーハンドを更に横薙ぎに払う。それを軽く後方に跳躍して回避した怪人の右手には、まるでロベリア機を模したかのような鋭い爪が生えていた。
「私も、貴女と同じなんですよ。同族とは争いたくないと言いながらも、手応えのある相手とやりあえるかと思うと抑えがきかないんです。度し難いですね、貴女も、私も。」
声に愉悦をにじませながら、怪人はその姿を変え始めた。ロベリアが自らの霊子甲冑に飛び乗った時、モニターに映る怪人の顔は既に優男のそれではなくなっていた。
「…人狼かよ。巴里のご婦人方が見たら別の意味で卒倒しそうだな。」
ロベリアは唇を舐めながら独り言ちた。怪人の言葉は不愉快極まりなかったが、この肌が痺れるような感覚は確かに嫌いではない。それに、遣り合っている時には最近のおかしな自分を忘れさせてくれそうだった。画面の向こうに見える怪人に向かって声を上げる。
「さあ、やろうか!少しはアタシを楽しませろよ!」

 霊子甲冑内部の操縦席には何時でも音が鳴り響いている。蒸気併用霊子力機関Orge F11.bisのタービン音、手足を駆動させるモーター音、操縦者に状況認識と注意喚起を促す電子音、友軍機や兵站部隊からの緊急連絡、荒い息づかいと暴れまわる心臓の鼓動、そして、自らが上げる叫び声。
今夜も、ロベリア機の内部は騒音に包まれた。急発進に霊子力機関が唸り、急制動に内部フレームが軋む。光学迷彩で突然怪人の前に姿を現すと、両手のシザーハンドを空に掲げながら叫ぶ。
「朽ち果てろっ!デモン・ファルチェ!」
その直後、死神の幻影が凱旋門の屋上にある全てを薙ぎ倒した。
ロベリアが決闘の場所を狭い限定された所に選んだ理由が正にこれだった。そこで彼女の霊力を使った「技」を繰り出せば逃げ場所は無い。彼女が見たモニターにも、屋上に動いている物体は見当たらなかった。だが、操縦席の騒音にけたたましい警戒音が加わった。画面上に方向とメッセージが表示される。
「上か!?」
並外れた脚力で空に逃れた怪人は、一転して屋上の縁に着地すると光武F2に向かって跳んだ。機械の目に人狼の凶暴な顔が大写しになったすぐのち、機体を轟音と衝撃が襲った。辛うじて転倒を免れた機内に、マイク越しの怪人の声が響く。
「さすがに百年以上も時が経つと面白い物が現れる。中々素敵な鎧ではないですか。私の攻撃を防ぐのも然る事ながら、その装甲に書かれた『MASSACRE(大虐殺)』や凶悪な外見は正に貴女に相応しい。しかし、その恐ろしい武器や技も、私に当たらなければ意味はありませんよ!」
モニターに映る怪人が残像を残して消えると続けざまに衝撃が伝わった。狙いを付けて振るったシザーハンドも空を切るばかりで、まるで怪人の姿を捉えることが出来ない。声に今夜初めての焦りを滲ませてロベリアは毒突いた。
「ちくしょう!何て早さだよ。それにこちらの反応が鈍い!」
霊子甲冑は生身と比較して優れている点が多い。攻撃力然り、防御力然り―。しかし、生身の方が優れている所もある。それが「反応速度」だった。例えば腕を動かそうとした時に、生身の体ならば脳から信号を受けて腕の筋肉を動かすという2工程で済むが、霊子甲冑の場合は更に腕を操作する分1工程余分に掛かってしまう。コクピット全体や操縦者のスーツ肩口などから直接霊力を伝達させて、反応時間を少しでも短縮するよう努めているが、やはりどうしても僅かなズレが発生する。相手が蒸気獣の時には然程問題にはならなかったけれど、生身の、しかも人並み外れた運動能力を有する怪人を相手にした時には、その僅かな差が甚だ大きく感じられた。
「おまけに演算機までイカれやがって、さっきから警報が止まりやしない!」
怪人の異状な速さに演算機が混乱を起こし、ありもしない情報がモニターを駆け巡っている。各部の損傷具合を表示する補助モニターは幸いにして正常稼動していたが、表示されている内容を見ると喜ぶ気にはなれなかった。このままでは早晩行動不能に陥ってしまう。
「一撃でも当たればこっちの勝ちなのに!」
そう叫びながら、状況を変えようと機体を突出させた直後、まるで砲撃を真正面から受けたような打撃が光武F2を襲った。積層装甲でも防ぎきれなかった衝撃は容赦なく操縦者に届き、席から飛ばされたロベリアは正面の主モニターに頭部を強打してしまった。目蓋の裏に火花を見て、彼女の意識を闇が支配した。

気が付くと、ロベリアは石造りの建物が並ぶ街中に立っていた。
「あれ…ここは何処だ?アタシは何をしていたんだっけ?」
彼女は当ても無く石畳の上をさまよい歩いた。何処かで見たような風景だが、肝心な所がぼやけていてはっきりとしない。
辺りには誰もいなかった。鬱陶しいほど付きまとっていた奴がいたような気がするけれど、それが誰なのかも思い出せない。
世界で一人ぼっち―それが彼女を酷く不安にさせた。
『誰か、誰かいないのか!姿を見せてくれ、アタシの隣にいてくれ!誰でもいいから!』
―いや、誰でもいいんじゃない。アタシが隣にいてほしいのはアイツなんだ。
ぼんやりとした像に焦点が合うにつれて、辺りの景色が一変した。
建物は崩れ、何処からか銃撃を受けている。身を伏せたロベリアの視線の先には、物陰に身を潜めている黒髪の青年の姿があった。慌てて彼の元に駆け寄る。
「隊長!」
「ロベリア、無事だったか。」
こんな時にも微笑む青年を見て、彼女の心を暖かいものが満たしていった。
「敵に囲まれている。武器はこれだけなんだ。」
右手に握る拳銃を振った青年の顔は、心なしか不安そうに見える。だが、ロベリアにとってそれは大した問題ではないように思えた。二人一緒ならどんな敵にでも勝てる。出来ない事なんて無じゃないか。そう隣にいる青年に言おうとした時、何故か彼の心の声が聞こえた。
『こんな時、マリアがいてくれたら…。』
その瞬間、ロベリアの顔から血の気が引いた。我知らず黒髪の青年の胸倉を掴んでいる。
「今の隣にいるのはアタシだ!アンタの事を守れるのは、手の届かない所にいるマリアじゃない、今ここにいる相棒のアタシなんだよ!」
語気を強めれば強めるほど、それに比例するように彼女の心に不安が広がった。足元の地面が今にも崩れそうに危うい。そう感じた直後、世界は暗転した。
ロベリアの周囲を漆黒の闇が包んでいた。辺りには再び誰もいない。
「隊長、何処にいるんだ?」
声が黒い色に吸収されたかのように返事はなかった。今や不安は彼女の心一杯に暗い翼を広げている。すると突然、すぐ近くで声がした。
『隊長はいないよ。隊長だけじゃない、お前の周りには誰もいない。』
そこには、もう一人のロベリアが立っていた。腕を組み、哀れむような目をしてもう一人の自分を見ている。
『忘れたのかい?親父やお袋と永久に別れてから、アタシはずっと一人で生きてきたじゃないか。これからも、一人ぼっちで生きて行くんだよ。』
「…違う、今のアタシには仲間がいる。一人じゃない。」
弱々しく答えるロベリアに向かい、もう一人の彼女が気の毒そうに言った。
『仲間?はん、「巴里の悪魔」が何言ってんだか。アタシみたいな悪党にそんなものがいる筈ないだろ?現にお前は今一人じゃないか。』
「…違う、アタシには相棒もいる…。」
いつの間に移動したのか、もう一人のロベリアは彼女の背後に立っていた。そして彼女の耳に、言の葉の形をした毒を流し込む。
『「いつまでも待っている。」なんて言葉を本気にしてるのかい?2年も待ってる男がいる訳無いだろ。きっと今頃お前の事なんかきれいさっぱりと忘れて、帝都で彼女とよろしくやってるよ。』
「違う、違うっ!」
ロベリアは子供のように頭を抱えてうずくまった。
『…いいえ、違いませんよ。貴女は一人ぼっちです。私と同じ貴女に、仲間がいる筈が無いじゃありませんか。』
はっとして目を上げると、そこにはもう一人の自分に代わって人狼がロベリアを見下ろしていた。その両手からは血が滴り落ちている。
ロベリアは絶叫した。

目が覚めると、辺りは暗闇に包まれていた。自分の隣に誰もいない事に気が付いて凄まじい喪失感が彼女を襲ったが、今まで見た有様がよく見ている夢だという事にも気が付いて軽く安堵した。そんな彼女の耳に、何処からか沢山の鐘の音が聞こえてくる。
『―鐘の音?』
そう思ったと同時に、突然の衝撃と轟音が彼女の体を伝わった。急速に意識が回復する。
「マズイ!モニターが全部イッてやがる!」
闇に包まれた操縦席には各所が軋む不気味な音が響いていた。ロベリアはそこに舌打ちと右手を横薙ぎに払う駆動音を加える。更に跳躍して後方に逃れると同時に、足元にあるレバーを力一杯引いた。くぐもった爆発音が体に伝わり、光武F2の前面装甲が大きな音を立てて凱旋門の屋上に落ちる。急に視界が広がったロベリアの目に映ったのは、赤い月光の中肘を抱えてたたずんでいる怪人の姿だった。
「久し振りにお顔を見られて嬉しいですよ。その甲冑姿も良いですが、やはり貴女の素顔には敵わない。それに、その『化粧』も素敵です。」
『化粧?』
顔に妙な感触を感じて手を触れると、そこには血が流れていた。先程頭を強打した時の傷らしい。
「はん!全く悪趣味だね。やっぱりお前とは趣味が合いそうに無いよ。」
「それは残念です。それはそれとして、どうしますか?まだ私と喧嘩を続けますか。もう貴女を守っていた鎧はありません。つまり次の一撃で終わりです。潔く負けを認めれば―と言うのは愚問でしたね。貴女に対して失礼だ。それでは、私も全力で挑みましょう。」
怪人は興奮を隠し切れない笑顔を見せると、屋上の縁に向かい歩き始めた。そこで一転してロベリアに向き直ると、自分の右手を顔の前に掲げ、ことさら鋭利な爪を誇示してみせる。
その姿を操縦席から眺めたロベリアは、そこに人の形をした『自らの終わり』を見た。昔からきっとろくな最後ではないだろうと思い覚悟も決めていたつもりだったが、それが目の前にあると悟った時、彼女は急に恐ろしくなった。『自らの終わり』に恐怖したのではない。それによって『誰とも会えなくなる』のが恐ろしかった。自分の意思とは関係なく手足が竦む。
「わざわざ誘いに乗った甲斐があるというものです。貴女が今までで1番楽しめた!」
人狼は軽く屈むと、そこから一気に跳躍した。その姿を視界に捉えたロベリアの息が止まる。するとその時、彼女の脳裏に懐かしい声が響いた。
『最後まで諦めるな!少しでも可能性があるなら全力を尽くして、そして仲間を信じるんだ!』
怪人の凶器が達する寸前、ロベリアは咄嗟に機体の腕を交差させた。
その直後、衝撃と同時に突然目の前を黒い暴風が通過した。怪人は空中で無様に回転すると、後方の石畳に奇妙な格好で叩き付けられる。何が起こったのか分からないロベリアが音のした方向を振り向くと、広場に面した建物の屋根に巨大な矢が突き刺さり、吹き飛んだ怪人の右足が結界に触れて燃え上がっていた。
「これは…花火か!?」

矢が刺さった建物の、凱旋門を挟んだ反対側の屋根の上に、巨大な弓を装備した黒い霊子甲冑が佇んでいた。その操縦席には機体と同じ色をした戦闘服を着込んでいる北大路花火の姿がある。彼女は見上げる凱旋門上の、更に赤い月を背景に一瞬浮かびあがった怪人を見事に射ってのけたのだが、そんな絶技を披露した花火の顔に笑みは無かった。
「掠っただけ…。倒した訳ではないわ。」
そう呟くと、「鶫」と名付けられた弓に再び矢を番えた。
この作戦での花火の役割は「予備戦力」だった。狭い凱旋門の上に2台の光武F2を展開するのは難しいし、後方支援が特性の彼女の機体では今回の任務には不向きだったからだ。そこで万一ロベリアが敗れた時のために、花火は結界の外で待機をしていたのだが、彼女はただ待っていただけでは無かった。凱旋門を見下ろせるような建築物は辺りにはない。あるとすればエッフェル塔だが、門自体を目視は出来ても狙撃可能な距離ではなかった。そこで、広場に面した建物の屋根から、有るか無いかの一瞬に全てを賭けて、彼女は矢を番え続けていたのだ。集中を持続させるのは並大抵の労力ではない。それでも、と彼女は思う。
『今、花組で出撃出来るのはロベリアさんと私だけ。それにロベリアさんはあそこで一人怪人と戦っている。私も、一緒に戦わなくては!』
しかし、花火の心にも不安が募る。通信は途絶えたままだし、凱旋門上の様子も未だ判らない。それに、やはりこの位置からでは確実に狙える自信が持てなかった。
『せめて、何か目印になるようなものでもあれば…。』
そう思いながら、彼女は屋上に狙いを定め続けた。

人狼は咆哮した。既に存在しない右足を抱えて石畳の上を転げ回る。
「貴様っ!よくも、よくもっ!」
燃え上がりそうな程灼熱した声でロベリアを罵ったが、彼女の返した言葉は冬の空気のように冷たかった。
「悪いねぇ、オイタしちゃって。アタシ達お転婆だからさ。まあ、それくらいの方がお前もそそるだろ?それにしても、どうせなら最後まで紳士を演じて欲しかったもんだね。正直興醒めだよ。」
そう言いながらも、ロベリアは影で必死に自分の光武F2を調べていた。機体の状態を表示する補助モニターは既に無いので、返ってきた反応から判断するしかない。
『機関部―正常稼動中。左腕―反応無し。右腕―どうにか稼動。脚部―ほとんどイッちまっている。そして―。』
ロベリアは左手で右脇腹を押さえた。手袋越しにぬめりとした生暖かい感触が伝わる。先程の攻撃で怪人から受けた傷だった。花火の矢と、とっさに構えた光武F2の手で致命傷だけは免れた。
『だが、血が止まらない。このままだと機体もアタシも長くは持たないな…。』
次の最後の一撃でどうすれば怪人に勝てるのか―その時に思い浮かんだのは同じ黒髪でも少女の方だった。花火なら、やってくれるだろう。
ロベリアはおもむろに機体の右手を駆動させると、そのシザーハンドで動かない左手を切断した。そしてその左手を掴むと怪人に向かって投げ付ける。悶え苦しんでいた人狼は、残った左足と両手を使いどうにか空中に逃れた。
「掛かった!」
ロベリアは叫ぶと、脚部背面に装備されたグライドホイールを使用して落下予想地点に急行した。どれだけ動きが速くても、一度飛んだら着地する場所は特定出来る。そして怪人が地面に到達すると同時に右手を振り下ろした。
「炎のカギで…閉じ込めてやる!カルド・プリジオーネ!」
シザーハンドが屋上に叩き付けられると、今度は炎が凱旋門屋上を襲った。それと同時に爪が弾き飛び、脚部も折れ、光武F2は前のめりに擱坐した。
怪人は業火を避けることが出来なかった。体は炎に包まれ、巴里中に届きそうな絶叫を上げる。そして本能からだろうか、危険な場所から遠ざかろうとして凱旋門の縁に跳ぶ。これを花火は見逃さなかった。しかも、今度は怪人自らが目印になっているので、彼女を腕であれば狙うのは遥かに容易だった。一瞬で狙いを定めると矢は弓音を残して一直線に飛び、そして正に空中に逃れようとした人狼の体を貫いた。
再び、聞く人の魂を冷やすような絶叫が辺りに響き渡った。

一瞬ケーブル類が体を支えてくれたが、ロベリアは操縦席から屋上に滑り落ちた。上げた視線の先には燃え上がるベートの顔があった。
「…そう恨めしそうな顔をするなよ。もうアンタの時代は終わったんだ。年寄りは黙って、若い連中が何をするのかを見ていなよ。」
だが、そう言った彼女自身出血が酷く、もはや立ち上がる力も残っていなかった。
『格好悪いねえ。巴里のために闘って、自分の血だまりの中で逝くのかよ…。』
朦朧としてきた意識の中で、再び彼女を恐怖が襲った。
『いや、駄目だ!まだこんな所で倒れられるか!』
残った力を振り絞って、焼けた石畳の上を這いずり始める。
『東、とにかく東に行くんだ。』
荒い息を吐き、自らの行跡を血で残しながら這った。もはや自分が何をしているのかも判然としない中で、突然ロベリアの目の前に黒髪の青年が現れた。彼に向かって、彼女は精一杯手を伸ばす。
「そうだよ、やっぱりアンタはアタシの隣にいないと駄目なんだ。」
優しく微笑んだ青年がロベリアの手を掴むと、彼女は安堵して気を失った。

 目が覚めると、辺りは白い壁に囲まれていた。風景が少しぼやけて見えるのはメガネを外しているのだろう。どうやら場所はシャノワールの医療室らしい。左手には輸血用のチューブが刺さっている。そして右手は―。
「なあ花火、お前何でアタシの手を握ってるんだよ。」
何故か戦闘服姿の北大路花火は微笑んだ。
「手を握っているのは、ロベリアさんの方ですよ。」
「何だって?」
言われてから改めて見てみると、確かにロベリアが花火の手を握っていた。慌てて手を離すと、その動きに連動して脇腹に激痛が走る。
「まだ動いては駄目ですよ。手術が終わって直ぐなんですから。余程生きたいという気持ちがあったからか奇跡的に一命は取り留めたけれど、暫くは絶対安静だってお医者様が仰っていましたわ。」
「手術が終わって直ぐって…そうだ、怪人は?今は何時なんだ?」
「今は翌日の朝です。怪人の遺体はノートルダム寺院に運ばれて、恐らくもうお清めも済んでいる頃だと思います。それに、今度はサリュさんが魂を導いてくれる筈ですから、今までのような事件は起こらないと思いますよ。」
「…そうだな。実体を失った怪人なら、サリュが責任をもって面倒みてくれるだろう。」
一息ついたロベリアは、そこで初めて疑問に思った。
「ところで、何でお前はそんな格好をして―。」
そこまで聞いた所で、彼女には思い当たる節があった。もしやと思い花火に問う。
「…ひょっとしてお前、ずっと手を握られていたのか?」
「はい。すぐに屋上へ駆けつけた私の手をロベリアさんが握られてからずっと…。ええ、手術中もです。」
にこりと笑いながら答えた彼女の顔を見て、ロベリアは内心考え込んだ。
『花火の奴、強くなったんだか少しズレてるんだか…』
その瞬間、ロベリアの頭を恐ろしい考えが過ぎった。再び、今度は恐る恐る花火に問うた。
「と、所で、その時―というのは屋上での事だが、その時アタシは何か言ってなかったか?」
「ええ―」
そこまで答えると、花火は赤く染まった頬に手を当てて目線を逸らした。
「…いえ、何も言っていませんでしたよ…ぽっ。」
『コイツ何か聞いてやがる!』
これは何としても口封じをしなければ。もしもグリシーヌの耳にでも入ったら何を言われるか!
しかし、それはとりあえず後の事として、今は休むよう花火に伝えるロベリアだった。
部屋を出て行こうとする花火を呼び止めて、ロベリアは言った。
「…オマエが居てくれて助かった。礼を言うよ。」
花火は優しく微笑むと、頭を下げて部屋から出て行った。

医療室には花火と入れ替わるようにエビヤン警部が入ってきた。今まで花火が座っていた椅子に腰掛けると、安心した顔をロベリアに向ける。
「怪我をしたと聞いて心配していたが元気そうだな。あれから通り魔事件は起こっていない。どうやら君達が倒した怪人が犯人だったようだが、一体何者だったんだ?」
「奴から聞いた事は全部話すよ。もっとも、それを信じるかどうかは警部次第だし、信じた所できっと警察発表なんか出来ないぜ。」
そう答えながら、ロベリアは目蓋を閉じた。その薄暗闇の中に怪人の姿が映る。自分とよく似ていて、そして決定的な「何か」が違っていた寂しい悪魔―。

「夢―悪い夢だ…。」

自嘲気味に呟いたロベリアを気遣ってか、エビヤンは話題を変えた。
「そうそう、ボーナスの件についてだが、公に出来ないからそれ程の額は用意出来ないぞ。」
「…いや、金はいらないよ。その代わりと言っちゃあ何だが、別に欲しいものがあるんだ。」
「金はいらないって、どうしたんだロベリア!やはり何処か打ったんじゃないのか?守銭奴のお前が…って冗談だよ、そんな怖い顔で睨まないでくれ。それにしても何が欲しいんだ?減刑ではないだろうし。」
ロベリアは自分から望んで2年間の刑に服している。仮にこちらから減刑を申し出ても決して受けはしないだろう。
「少し長期の外出許可が欲しいんだよ。それと出国許可も。…会いたい奴がいるんだ。」
エビヤン警部は目を見開いた。答えた声には複雑な成分が含まれている。
「まさか、彼に会いにトーキョーへ行くつもりじゃないだろうな?」
「こんな事頼めるのは警部だけなんだ。何とか頼むよ。」
憎からず想っている女性に頼みごとをされるのは悪い気はしない。だが、その内容には心中複雑極まりないものがあった。おまけに、渡航禁止のロベリアにどうやったら出国許可が下りるというのだ!?
頭を抱えてしまったエビヤン警部を横目に、ロベリアは右手を空に伸ばした。そして見えない何かを掴むように手を握る。
『そうだ、ウジウジ悩んでいるなんてアタシらしくもない。隣にいないのなら、攫ってでも連れて来ればいいんじゃないか。向こうにどんな物好きがいようと関係無い。アタシの相棒はアンタなんだからさ!』
不敵な笑みを浮かべたロベリアを見て、エビヤンは溜息をついた。こんな「かわいい悪魔」に惚れられた彼を、羨ましいと思うか災難だと思うかは警部自身にもよく判らなかった。

(了)

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