「穏やかな午後」巴里花組 はる様

 七月に入ると巴里の街にも夏の気配が色濃くなる。陽光は強く、街路樹の葉は緑がより深まり、石畳の上に強いコントラストの模様を描いていた。昼間には気温が90F(華氏。摂氏に換算すると約32℃)を越える日も珍しくないが、湿度が高くないためか随分と過ごし易く感じる。舗道に並んだパラソル付きのテーブルに腰掛けて、子供はマンタロー(ミントシロップを水で薄めた飲み物)やシトロン・プレッセ(搾りたてのレモン汁に砂糖と水を好みで加える飲み物)を、大人ならばビエール(生ビール)を片手に話に花を咲かせている姿を見かけるようになるのもこの頃である。

そんなある日の午後、モンマルトルのカフェにもパラソルの下椅子に腰を降ろしている黒髪の青年の姿があった。

ただし、彼の手の中にあるのはビエールではなくジュドランジュ(オレンジジュース)で、隣には談笑する相手も無く、行き交うパリジャンやパリジェンヌをぼんやりと眺めているだけだった。
青年は、表情と同じくぼんやりと考える。

「…今日の日記には、『穏やかな午後だった』と書こうかな。」

西暦1926年7月、革命記念日を数日後に控えたある日の午後。黒髪の青年―大神一郎は、彼としては珍しい事に暇を持て余していた。

大神一郎は今年の誕生日で23歳になった。そして他の同じ年齢の人達と比較をしても、彼はとても忙しい青年だった。表向きの彼の仕事は、モンマルトルにある紳士淑女の社交場「シャノワール」のモギリ兼ボーイである。そして裏では―ある意味、こちらこそ真の姿と言えるのだが―欧州都市防衛計画の要として設立された巴里華撃団・花組の隊長を務めている。本来ならばのんびりとカフェでくつろいでいられるような身分ではない筈だが、これにはいささかの理由が存在した。
つい先日起こった怪人カルマール公爵によるシャンゼリゼ大通り襲撃の際、彼が率いた花組は惨敗を喫してしまった。これには霊子甲冑の性能差や、花組自体のチームワーク欠如など内的及び外的要因があったのだが、隊長である彼は全て自分の責任である
としてそれを一身に背負った。それからは自分のアパートにもほとんど帰らずに、シャノワール閉店後は地下にある作戦司令室に篭って部隊の運用などに心を砕いている毎日だった。その様子を見て身近な人達は一様に心配していたが、今日遂に劇場支配人であり巴里華撃団総司令官のグラン・マから次のような言葉を掛けられてしまった。
「ムッシュ、あんた今日の開店準備が始まるまでシャノワールに来なくていいからね。」
支配人の心遣いが判らない大神ではなかったから、その言葉に甘えてささやかな休みを取った次第だった。
だが、普段忙しい人間の多くがそうであるように、彼も突然目の前に現れた休息を持て余していた。
とりあえずアパートの近くにある行き付けのカフェを訪れはしたが、急の出動があってはとアルコールも取らず、ボンヤリと通りを眺めながら、「帝都と空気が違うのは、やはり食生活が違うからなのかな…」などと考えているような体たらくだった。
当初大神は、この休みを利用してルーブル美術館を見学するつもりでいた。
しかし、グラン・マの秘書を務めている藍色の髪の少女から、「ルーブル美術館はとても広いので、全てを見て回るのならば半日ではとても足りませんよ。好きな作品があって、それだけを見学するのであれば別なのですが…」という控えめな反対意見を受けて諦めていた。
これが主な理由の一つであるのだが、その他にも実は二つ理由があった。
その一つは先月美術館内で起きた怪人ナーデルとの戦闘に関係がある。当時まだ花組は全員揃っていなかったが、「美術品の保護」と「怪人撃退」という任務を見事に成し遂げていた。
だが、その時に守れなかった美術品が一つだけあった。

それは「ルーブル美術館」そのものである。

ルーブルは十二世紀にフィリップ・オーギュストが建てた城塞が起源となっている。巴里の拡大により街に取り込まれてからは宮殿として改増築が繰り返され、ルイ14世が権力の中心をヴェルサイユに移してから約一世紀、フランス革命後の西暦1793年に美術館として開館された歴史を持っている。
つまりは美術館と言っても中は宮殿そのものであり、訪れた人は美術品とともにそれが展示されている美術館の壮麗さにも心を奪われると言われていた。
その言わば「美術品」の中で、戦闘が行われたのである。
大理石の床は霊子甲冑の歩行やグライドホイールの使用により傷だらけになり、壁はマシーネンカノンの跳弾により穴だらけに、更に光武Fが排出する蒸気や敵蒸気獣の爆発により展示室は大きな痛手を受けてしまった。
任務は無事に達成されたのだから、それ以外の件について大神には責任が無い。しかし、戦闘が行われたドノン翼2階部分が未だに閉鎖中で、世界中から訪れた観光客や巴里在住の芸術家を落胆させていると聞けば、その当事者としては何となく後ろめたい気持ちになるのだった。
そしてもう一つの理由が、自分は芸術というものを解しないのではないかと大神が思っているからである。
大神一郎は、日本海軍の江田島海軍士官学校50期の首席卒業である。それはただ単に「優れた海軍士官候補生」というだけに留まらず、礼儀をわきまえた文武両道の「優れた人間」と同義であるとさえ言えた。そんな彼は当然のように文化史の面から美術の豊富な知識を有している。
ただし、「知っている」と「理解している」は全く別の事である。
美術書に載っていたオーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」やエドガー・ドガの「ダンス教室」、クロード・モネの「日傘の女」を見て、その光の表現の見事さに感嘆したし、カミーユ・コローの傑作と言われている「モルトフォンテーヌの思い出」を目にした時は、写真と見紛うような美しい景色に驚嘆した事もある。
ところが、一般的な人物画や風景画から一歩「外れる」と途端に分からなくなった。
著名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホの画集を見た事もあるが、有名な「ひまわり」や「オーヴェルの教会」などの絵を見て「これがあの有名な」とは思ったけれど、絵自体については「うーん、よく判らないな」というのが正直な感想だった。士官学校時代に同期の加山雄一が雑誌に載っていた絵をしきりに感心していたので見せてもらった事もあるが、やはりこの時もさっぱり理解出来なかった。確かパブロ・ピカソとか言う画家の「アヴィニヨンの娘たち」というタイトルで、今流行のキュビスム(立体派)というそうだが、その時はこれを理解出来た加山の方を感心したものだった。
その後士官学校を卒業して帝国華撃団・花組の隊長に着任してからは、その任務で手一杯だった為に芸術とはすっかり疎遠となってしまった。
つまり、士官学校を首席で卒業し、男性としては異例の霊子甲冑を動かせる程の霊力を有している大神一郎だったが、こと芸術については人並みだったのである。
先の対ナーデル戦の直後、美術館側の厚意で差し替えられていた本物の「モザ・リナの微笑み」を見せてもらった事があった。その時某隊員の「何だか暗い絵ですねぇ。もっとこうパーッと明るい色を使ったら、とってもハッピーな感じになると思うんだけどなあ」という発言に対して思わず同意をしてしまった為、呆れたグリシーヌ・ブルーメールによる『ルネサンス期における西洋絵画史について』という講義(という名の説教)を二人で受ける羽目に陥った事を思い出し、一人苦笑する大神だった。
世の中には「お金を払って時間を買うのよ。」と言う人もいるそうだが、彼はそうではなかったらしい。
普段はあちこちで会う知り合いにも出会わず、こうして一人腰を降ろし物思いにふけるのは余り建設的ではないと思ったようだ。
「お店の開店準備が始まるまで部屋で寝ていようかな。」と全く建設的ではない結論を出して、残ったジュドランジュを一気に飲み干した。
その時、彼は突然自分の名を呼ばれたような気がした。その直後に聞こえた衝突音と、「痛っ!頭打った~。」という声で待望の知り合いがすぐ近くにいる事が判明したが、それが果たして幸運な事なのかは判断をしかねた。

 明るい栗色の髪と優しさに満ちた大きな瞳、そして遠目にも生える赤い修道服と額にクッキリと浮かぶ赤い跡。モンマルトルの教会で働くシスター見習いであり、シャノワールではダンサーを務め、そして巴里華撃団・花組隊員でもある少女―エリカ・フォンティーヌは、大神の姿を見付けると一目散に駆け寄ってきた。
何となく穏やかな午後が終わってしまうような気がしたが、彼は笑顔で立ち上がり、彼女に椅子を勧めるのだった。
「エリカくん、何か飲むかい?」
「それでは、オランジュ・プレッセ(オレンジ汁に砂糖と水を好みで加える飲み物)をお願いします!ああ、大神さんはやっぱりエリカが思った通りの人ですね。」
「思った通りって?」
「大神さんって、女性には優しいじゃないですか。」
「……。」
誉められているのか判断に迷う大神だった。
注文した飲み物を店主のエヴァが持ってきた。嬉しそうな顔でオランジュ・プレッセを作っているエリカに用件を尋ねる。
するとエリカは一拍間を置いた後、突然大神に苦情を言い始めた。
「もう、何処にいたんですか大神さん!私さっきからずっと探してたんですよ。作戦司令室にも格納庫にも、それにシャワー室にも売店にも秘書室にもいなかったじゃないですか。メルさんに聞いたら外にいるって教えてくれたから、私モンマルトル中探し回ったんですよ。もうエリカぷんぷんです!」
「いや、俺はずっとここにいたんだけど…。」
答えはしたものの、何故か押され気味の大神は矛先を変えることを試みた。もっとも、よくよく考えたら本道に帰しただけなのだが。
「と、ところで、どうして俺を探していたんだい?」
するとやはり一拍間を置いた後で、身を乗り出しながらエリカは答えた。
「そうそう、思い出しました!実は大神さんに頼みたい事があるんですよ。もちろん、大神さんはオッケーしてくれますよね。ここで断るようなダメニンゲンじゃないって、エリカ信じてます!」
やはり、どうにも押されっぱなしという状況に変化は生じなかったようである。
「…とりあえず、どんな事なのかを教えてよ。」と返すしかない彼だった。

「実は今日の午前、教会に神父様のお友達という方がいらっしゃったんです。この方が何と、有名な画家さんなんですよ~!もっとも、私はお名前を聞いても全然知らなかったんですけどね。いえ、神父様が仰ったんですよ、有名な画家なんだって。でも不思議ですよね、そんな有名な方と神父さまがお友達だなんて。何でも10年以上昔に知り合ったそうですけど、一体どんな出会いだったんでしょう。だって神父さまと画家さんですよ、全然接点が無いじゃないですか。大神さんはどう思います?」
「…ええと、相談したい事って?」
すぐに脱線しそうになるエリカの話をその度に軌道修正しつつ、大神が聞き出した話の内容は次のようなものだった。
その画家は今日の夕方から仏蘭西国東部へ写生を兼ねた旅行に出掛けるそうで、その前に友人のレノ神父の元を訪れたようである。神父と画家は部屋で普通に談笑していたが、どういう話の流れからか、画家の悩みを神父が受ける形になった。画家は若い頃に巴里にやってきたが、今までずっと住み続けていた訳ではなく、アトリエを残したまま帰郷していた時期があった。そして数年振りに巴里に戻ってきた時、画家が目にしたのは略奪を受けて空になっていたアトリエの姿だった。画家は、自らの記憶や複製写真をたよりに、過去の作品を書き直したりレプリカを作成していたが、やはりどうにも行方不明になった作品の事が気になり続けていたようだ。その会話を偶然耳にしたエリカが、自分が一つでも見付けてきますと探索に立候補し、レノ神父は手を振ってそれを応援した―というのが彼女の主観による話である。
そうなんだ、エリカ君は偉いねなどと言いつつ、大神はその内容の一部に異論があった。「偶然」聞いたのではなく、グリシーヌ邸でのように部屋を覗いていたのではないか。そしてレノ神父も手を振って応援していたのではなく、手を振ってエリカの事を止めようとしていたのではないだろうか―。
そしてエリカの相談というのは、その画家の作品を一緒に探して欲しいという事だった。様々な疑問は残るが、確かにその画家が気の毒だったし、何よりエリカの優しさを大切にしたかった。
「わかった。その画家の作品を一緒に探そう。」
大神が答えると、彼女はとても嬉しそうな顔をした。
やはりこの娘には敵わないな、と思う大神だった。

 巴里は光溢れる花の都である。だが、光があれば当然闇があるように、一歩裏通りを歩くと華やかな表通りとは違う一面を見せる事もあった。もっとも、その陰影こそ巴里の魅力であるという人もいるのだが―。
モンマルトルにある裏通りもそのような場所だった。昼間でも薄暗く、時折姿を見せる人も、表通りを歩く華やかなそれとは一線を画していた。
その一角にある、看板も出ていない木の扉を開くと、先ず最初に飛び込んできたのは鼻をつく酒精の臭いだった。その次に飛んで来たのは低い男の声である。
「まだ開店前だぜ。酒が飲みたきゃ日が暮れてから来な。それ以外のモノが必要なら…金しだいだな。」
確かに店内には、中にいる不精髭を生やした中年の男性の他は、カウンターに座っている一人の客しかいない。
「いや、いいんだよレナード。あいつはアタシの客さ。それにしても珍しいじゃないか、堅物のアンタが、昼間からこんな所に来るなんてさ。」
癖のついた銀髪と、夏だというのに足元まで届こうかという深緑色のコートを羽織った長身の若い女性。彼女は店に入ってきた堅物―大神一郎に対して、まるで珍しい動物を見るような目つきで言った。
行方不明の作品を探す、それも列車が出発する夕方までの間に、である。ただ普通に探しているだけでは不可能だと考えた大神は、「その道」に詳しい人から情報を得る事を考え付いた。そこで「その道」に詳しい知り合い―欧州中に名を轟かせる大悪党であり、現在は巴里華撃団・花組に籍を置いている女性、ロベリア・カルリーニを訪ねたのだが、予想していた通りの場所で彼女を発見出来たのに、余り嬉しくなかった彼だった。
ロベリアの隣に腰掛けて、時間の無い大神は簡潔に用件を伝えた。
「行方不明の絵を探しているんだ。何処かそういう物を扱っている所に心当たりはないかな。」
ロベリアは値踏みをするような目線で大神の顔をひと撫でする。
「相変わらず物好きな男だな、また1フランにもならない事に首を突っ込んでいるのかよ。」
聡い彼女は、先程の会話だけで概ねの事情を察したらしい。
「うん、まあ、ね。それより、心当たりがあるんだね。」
大神が聞き返すと、今度帰ってきたのは言葉ではなく突き出された掌だった。
「何怪訝な顔をしてるんだ、情報料だよ、情報料。考えてもみなよ、アンタがこのまま自力で探し続けても見付かるとは限らない。仮に見付かったとしても、その為に多くの時間と労力を使う。ところが、アタシからその情報を買えばそんな無駄な事をする必要がなくなるだろ。時間と労働の対価として相応の金を払う。当然の事だし、アンタにとっても悪い話ではない筈だ。」
そう言い放ち、その切れ長の目に余裕を湛えて大神を見返した。
ところが、それに対する大神の反応は彼女の予想外だった。一つ溜息をつくと、席から立ち上がり店から出て行ってしまったのだ。
「…ふん、珍しく素直じゃないか。」
独り言つと、彼女自身にも判らない理由で、不機嫌と一緒に目の前のワインを飲み干した。

大神一郎が再びその店に現れたのはそれから10分程後の事である。
ただし、今回は人数が倍になっていた。
新たに現れた一人を見て、ロベリアの目から余裕が失せる。
「エリカ!お前何でこんな所に!」
慌てた彼女の前につかつかと歩み寄ると、エリカは両肩を掴まんばかりの勢いで喋り始める。
「ロベリアさん!大神さんから聞きましたよ、お店を教える代わりにお金を払えだなんて。もう、何でそんなに照れ屋さんなんですか!正義の為に行動するのが恥ずかしくて、つい情報料なんて言っちゃったんですよね。他の人には判らなくても、神様とエリカには判ってますよ。」
日頃の冷静さが何処かへ行ってしまったのか、ロベリアは大慌てで首を振る。
「勝手に判るな!おいアンタ、こんな手を使うなんて汚いじゃ…」
先程からあらぬ方を向いている大神に噛み付こうとして、エリカがその顔を両手で挟み、強引に自分の方に向け直した。
「今お話をしているのはエリカとです!」

最初にレナードの店―トワール・ダレニェを大神が独りで訪れたのは、単純に若い女性を連れて来るような所ではなかったからだが、余りロベリアを刺激したくないという理由もあった。ロベリアとの話し合いが円満に解決すれば当然にエリカの出番は無かったのだが、今回は時間の都合もあり緊急行為に及んだ次第だった。

ロベリアが降参したのは、それからきっかり3分後の事だった。さすがの彼女も「神様」「正義」「愛」の連続攻撃には耐えられなかったらしい。疲労困憊の体で暫くカウンターに突っ伏していたロベリアだったが、不承不承話し始める。
「全く…まあ、いい。これを聞いたらさっさと帰れよ。 シャルル・マルペルという画商がいる。いや、そいつ自身は真っ当な画商さ。だが、取り巻きの一人であるアンリ・ビュッフェ、こいつは小悪党だ。ロシュシュアール通りから一本裏の通りに小さな店を構えているが、裏では盗品売買を商いにしている。その店を訪ねれば、何か手掛かりが掴めるかもしれない。」
「ありがとう、ロベリア。」
そして御免な、と小声で付け加えた大神のネクタイを引っ掴み、ロベリアは強引に自分の顔に近づける。
「今回の件は貸しにしといてやるよ。何時か必ず、何倍にもして返してもらうからな。まあ、別に金じゃなくてもいいんだけどさ…」
声に艶を込めて迫ったが、その時エリカが飛び付いてきて雰囲気も台無しになってしまった。
「きゃ~っ!やっぱりロベリアさんは正義の心に目覚めてくれたんですね。エリカは信じてましたよ~!」
「だあ~っ、判ったからくっ付くな、離れろ!」
しがみついて離れないエリカを、無理矢理引き剥がそうとするロベリアだった。
早速教えてもらった店に向かおうとした大神をロベリアが呼び止める。
「いいか、さっき言ったようにアンリは小悪党だ。だが、小悪党には小悪党なりの手口がある。そこに気を付けろよ。」
意味は良く判らなかったが、とりあえず礼を返してエリカの後を追いかけた。
最初と同じ二人きりになった店内にレナードの声が響く。
「…あの二人、アンリの奴を相手にするには少し問題があるんじゃないのか?」
「そうだろうね。でも、アタシには関係ない。」
表情を隠してワインを呷るロベリアを、肩をすくめながら無言で眺める店主だった。

 モンマルトルの丘を下り、ロシュシュアール通りを西に向かう。途中のピガール広場から道を折れるのだが、通りをそのまま道沿いに進むと、クリシー通り90番地にシャノワールの先輩であり商売敵でもある「ムーランルージュ」の姿を見る事が出来る。
「ムーランルージュ」はシャノワールに遡る事38年、西暦1889年10月5日創業のナイトクラブである。当時からフレンチ・カンカンで一世を風靡し、舞台には歌姫イヴェット・ギルベールやダンスの女王ラ・グリュル、そして彼女のパートナーである『骨なし』ヴァランタンなどホールのトップスター達が立ち巴里の夜を彩った。更に、その彼女達の姿を開店以来の指定席から酒を片手に描き続け、芸術の面からも鮮やかに彩ったのは生前のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックだった。その彼が退廃の末36歳の若さで世を去ってから四半世紀が経ったが、彼が描いた『赤い風車』は未だ健在である。
大神とエリカはピガール広場から裏通りに入った。この辺りはナイトクラブがひしめく歓楽街だが、さすがにこの時間から開店している店は無い様で、日の差さない通りに人影は見当たらない。
二人が足を止めた先には、建物の1階部分を店舗にしている小さな画廊があった。ガラス戸を押し開くと、店の奥から一人の男性が歩み寄って来る。その男の風貌は一見するとピエロを連想させた。細長い手足と頭頂部が禿げた頭、顔には貼り付けたような愛想笑いの上に丸眼鏡を掛けて、体には奇妙に似合わない高価なスーツを着ている。
「おやおや、これは珍しいですね。シスターと東洋人のお客さまとは。私が、オーナーのアンリ・ビュッフェです。当ギャラリーはゴシックからフォーヴィズムまで、様々な画家の作品が揃っております。お客さまの目的に合わせて、ご予算に見合った絵を用意しますよ。」
こちらを露骨に値踏みするような目をしながらも、言葉だけは丁寧な画商に対し、大神は来意を告げ、最後にロベリアの名を挙げた。
画商の眼鏡越しの瞳に、一瞬打算の揺らめきが過ぎった。それは大神にも看破出来た程度の浅はかなものだったが、画商は顔に笑顔を貼り付けたまま二人を奥に通したのだった。
入口を背にして二人は椅子に腰を下ろし、オーナーのアンリがその対面に座る。
「その画家の作品は、当ギャラリーで一点だけ所有しています。本来ならば売りに出す物ではありませんが…まあ彼女とは知らぬ仲ではありません。今回は特別にお話を伺いましょう。」
恩着せがましいもの言いをしてから、身を乗り出して本題を切り出す。
「それで、ご予算の方は…。」
「はい!タダでお願いします!」
間髪を容れずにエリカが答えると、暫しの間その場を静寂が支配した。
「は、はは、中々面白い冗談を言うお嬢さんですな。」
「いいえ、冗談ではありませんよ。タダで欲しいんです。」
「いや、しかし、それは…。」
「だって画家さんが可哀相じゃありませんか!作品が無くなったらそれは子供がいなくなったようなものですよ。生き別れの親子を再会させたいと思うのはニンゲンとして当然の気持ちじゃないですか。きっと感動の再会になりますよ。驚く父と駆け寄る子、そして抱き合う二人…あーっ、もうエリカ大感激です!」
まずい、と大神は思った。これでは交渉にならないじゃないか、と。
本来は話し合いで済めばそれが最良だが、それが適わない場合には交渉の末の買取りも手段の一つだった。
だが、エリカにはその選択肢は念頭に無いようだった。困っている人を無償で助けるのは当然という彼女の考え方は尊いものだが、このままでは話が進まないし、何より既に話が脱線しかかっている。
「ええと、もしも売っていただけるとしたら、幾ら位の値段を考えていますか。」
事態を進展させようと大神が訪ねると、アンリは助け舟を得たような顔をして体ごと向き直った。
「ああ、こちらの紳士はどうやら話が通じるようですな。そう、世間の相場を鑑みて、更に美術品としての希少価値を考慮しますと…まあ、色を付けてこのくらいですか。」
そう言いながら、画商は掌を広げた。
「5フランですか?」
エリカが真剣に訪ねると、アンリは掌を突き出したままの姿勢で椅子から崩れ落ちた。余りノリがいい人でもなさそうなので、どうやら本当に驚いたらしい。
「けっ、桁が全く、全然違います!500万ですよ、500万フ・ラ・ン!」
「500万フラン!?」
今度は大神とエリカが驚く番だった。椅子から転げ落ちる事は無かったが、受けた衝撃ではいい勝負だったろう。ちなみに、シャノワールの入場料は3フラン、売店で売っているブロマイドは50フラン、特製オルゴールは450フランである。大神の給料でいうと約300年分だ。
「…そんなにするんですか?」
「これでも、あの方のお知り合いということでお安くしているのですよ。それでは改めてお聞きしますが、お客さま達のご予算は如何程ご用意してあるのですか?」
そう問われた大神が現在所持している金額は、薄い財布の中にある60フランと少しである。エリカにはまだ聞いていないが、きっとこれよりも少ないだろう―或いは持ち歩いていないかもしれない。大神はそれ程お金を使う方ではなかったから、銀行にはそれなりの蓄えを有してはいるが、あの金額を前にしては焼け石に水であった。
そんな二人の様子を見て、画商は笑顔の裏に損得勘定の数式を書き込んだ。そして得られた回答に従い、急に心底困ったような表情と声をつくる。
「いや、まあ、私としてもね、そちらお嬢さんが仰るようにね、その絵を無償でお返ししたいのですよ。でもね、私はその絵を盗品とは知らずに、知り合いから高額で購入してしまったのです。それをこのままお渡しすると、私は破産するしかありません。いや、私だけの体であれば、犠牲となってこの身を差し出す事についてはやぶさかではありません。しかし、私には愛する妻と子供が…。」
最後は両方の掌で顔を覆い、そして大袈裟に溜息をついてみせた。
これには大神は面食らってしまった。迂闊と言えばその通りだが、まさかこういう展開になるとは想像していなかったのだ。
もしもこれが、アンリが銃を持ち出すような事態であったのならば、大神は幾らでも対応する自信があった。何と言っても彼は軍人だし、拳銃や愛用の日本刀を所持していなくても至近から組み伏せる事は出来る。エリカも修道服の下に「ラファエル」と言うマシンガンを隠し持っているし、最終的な切り札としての霊力も期待出来た。
しかし、アンリが言った事は、内容の真偽はともかく正論だった。
盗まれた物が持ち主の手に返るのは道理だが、その為に事情を知らなかった者が不幸になっても構わない筈はない。
エリカも同じ事を考えたのだろう。何も言えず、困った顔で大神の顔を見るだけだった。
掌で隠した顔にひそかな笑みを浮かべたのはアンリ・ビュッフェである。彼が得た回答は、どう考えても全く儲けになりそうにない目の前の客を丁重に、そして速やかに追い返す手段だった。青臭い世間知らずなシスターと東洋人には、大人の理屈をちょっと言えば何も反論出来なくなるなるだろう。後はどうとでも言い包めて追い返し、問題の絵はさっさと転売なりすればこの件は全て終わりだ。問題はロベリアだが…あいつがこんなオメデタイ連中と知り合いの筈が無い。大方何処からか彼女の名前を聞き付けてそれを利用しただけだろう。用心として一言もロベリアの名前を出さなかったが、とんだ取り越し苦労だった。
さて、最後の一押しでもしましょうかと指の間から向こうを覗くと、視界に入る人影が3人になっていた。増えた一人―ガラス戸の向こうに立っている人影を見て、画商は思わず頓狂声を漏らす。
ガラス戸の向こうからアンリを見詰めている長身の影は、正に今彼が脳裏に浮かべていた人物―ロベリア・カルリーニその人だった。
彼女は店に踏み込んで来るでもなく、ただ外から彼を見ているだけである。だが、アンリにしてみればそれはいささかの救いにもならなかった。血の気が引き脂汗が浮かんだ顔は掌で隠す事が出来たが、ロベリアの視線はその全てを見透かしているのではないかという疑念に囚われた。
とにかく、再び指で視線を遮り、先程とは打って変わって余裕の無くなった顔を隠しながら、脳裏では懸命に打算を巡らす。今、自分との関係を悪くしてもあいつには何の利益も無い。こんな連中の肩を持つよりも俺と組んでいた方が遥かに有益な筈だ―。
しかし、どう計算をしても最終的に利益が出るような回答を導き出す事が出来なかった。それどころか、最悪体一つで巴里から逃げ出さなければならない可能性すらある。
微かに震える指の間から、再びロベリアを覗き見る。アンリの期待に反して彼女の姿は変わらずそこにあった。やはり身じろぎひとつせずに、静かに画商を見据えている。
いや、その氷のように静かな視線の向こうに、アンリは見た―或いは幻視してしまった。

ロベリアの瞳に揺れる蒼い炎を。

その瞬間、画商アンリ・ビュッフェは寸前で踏み止まっていた精神の階から無様に転げ落ちた。

両肘をついて掌を顔に当てたまま、何一つ言葉を発しない画商に対して、エリカが思い切って言葉をかける。
「ごめんなさい、私にはいい考えが思い浮かびません。でも絶対、皆がより幸せになるような方法がある筈です。だから諦めないで、皆で考えましょう。今日が駄目でも明日、明日が駄目なら明後日、そして何時か、全員が少しでも幸せになるような方法を。」
不器用に、そして精一杯誠実に言葉を重ねる。
その直後に、アンリは掌をテーブルに降ろした。
画商の顔を見て大神は驚いた。ピエロのような、と称するには生気が欠乏し過ぎている。虚ろな瞳で丸眼鏡越しにエリカを見ると、張りの無い、どこか投げやりな声で答える。
「あ?あ、ああ。そう、そうだね。全く君の言う通りだ。私は君の言葉に感動したよ。是非、私の絵をその画家の元に届けてあげてくれ。え?ああ、妻子の事か。良く考えたら私は妻と既に別れていたし、子供も妻の方について行ったよ。つい失念していた。だから遠慮無く絵を持って行ってくれ…いや、持って行って下さい」
「本当ですか!?アンリさん、素晴らしい心掛けです!きっと神様も、あなたの善行を見ていますよ。いつか必ず、逃げた奥さんと子供さんもあなたの元に帰ってくる事でしょう。では早速ですが時間も無い事ですし、絵をさっさと持ってきちゃってください!」
会った時から10歳以上老けてしまったように見える画商は、深々と溜息をつくと、危なっかしい足取りで店の奥へと消えていった。
大喜びのエリカを相手にしながら、しかし大神はアンリの態度が腑に落ちなかった。エリカの真摯な姿勢に打たれた―とは残念ながら考え難い。話の流れからすると、どう転んでも交渉が成立する筈がなかった。それが何故急に態度を一変させたのか―。
ふと、大神は振り返った。
しかし、そこには小さなギャラリーと、ガラス戸越しの裏通りしか見ることが出来なかった。

日が傾いた為更に薄暗さを増した裏通りを、石畳に靴音を鳴らしながらロベリアは歩いていた。彼女の姿を見た知人達の反応は、愛想笑いを浮かべながら足早に通り過ぎるか、回れ右して脇道に飛び込むかの二者択一だったが、ロベリアはそれを気に留めるでも無く独り言つ。
「全く、世話の焼ける奴等だ…。」
適当な理由をつけてトワール・ダレニェを去り、そしてアンリの店を覗いて見たら案の定な展開だった。大方アンリの奴が小賢しい事を言って、バカ正直な二人が返答に窮したのだろう。あんな小悪党にエリカの能天気な理屈は通じない。裁判を起こすような時間も無い。そして払うような金も無い。
それならば、目標を達成する手段は一つしかない。

非常手段に訴えるのだ。

隊長がアンリをぶん殴ってもいいし、エリカがマシンガンで脅すのもいい。何なら手か足にでも軽くぶち込んでやればより効果的だろう。相手が正攻法でこないなら、こちらが遠慮する事はない。こいつらには絶対に勝てないと思わせればこちらの勝ちだ。
「だけど、あの二人にはそれが出来ない。」
まだそれ程付き合いが長い訳でもないが、そんな事が出来るような人間ではない事をいやと言うほど思い知らされていた。
「もし店でそんな事を言ったら、あいつら何て言ったろうな。」
ロベリアは少し想像して、そしてすぐにウンザリした。
あの暑苦しい男は『そんな無茶な事は出来ないよ。』とでも言うのだろう。エリカの奴は『世の中には初めから悪い人なんていません。お互い話し合えばきっと判ってもらえますよ。』とか言いそうだ。全く、どうしようもないバカ共だ。
だが―。
「だが…まあ悪くはない。」
仮に、世の中全員があんなだと想像するとぞっとする。しかし、全員が悪党というのもそれはそれで面白くない。色々な人間が集まってそこが街になるのなら、その住人の中に進んでタダ働きするようなお人好しがいた方が何かと退屈しないだろう。巴里は広くもない街だが、ああいうバカを数人受け入れるくらいの大きさはある筈だ―。
突然、ロベリアは道の真中で立ち止まると、罪の無い石畳を思い切り蹴りつけた。
自分も「タダ働きをするお人好し」の一人だと気が付いたのだ。

「これ…ですか?」
「これ…なのかい?」
アンリが持ってきた絵をひと目見て、二人は異口同音に言った。
ほぼ正方形の大きな絵は、確かに妙な作品に見えた。人が窓辺に佇み、その窓枠の上には猫が座っている。エッフェル塔らしきものが描かれているから、窓の外の景色はきっと巴里なのだろう。しかし、人の顔が表裏両方に描かれていたり、猫の顔も人の顔のように表現されている。更に背景に描かれている汽車や人間の上下左右が滅茶苦茶で、横になったり逆さまになっていた。
そして極めつけは使われている色だ。『色彩の乱舞』と言えば聞こえは良いが、空の色に赤や茶、窓枠が青に緑、人の顔や手も普通ではありえない色になっている。
これが本当に探している画家の絵なのか。ひょっとしたら画商が違う作品を掴ませようとしているのではないだろうか。大神はその可能性を考慮したが、そんな彼にエリカが声を掛けた。
「でもほら、この左隅にちゃんとサインが入ってますよ。」
見ると、確かに大文字と小文字が組み合わさったアルファベットで小さく画家の名前が書かれていた。

『ChAgAll(シャガール)』と。

 現在、巴里には欧州各地に向かう為の駅が7つある。
・「東駅(欧州東部諸国・仏蘭西国東部等)」
・「北駅(和蘭国・白耳義国・仏蘭西国北部等)」
・「モンパルナス駅(シャルトル、ロワール地方等)」
・「サン・ラザール駅(ヴェルサイユ、ノルマンディー地方等)」
・「オステルリッツ駅(西班牙国・葡萄牙国等)」
・「リヨン駅(伊太利亜国・南仏蘭西地方等)」
・「オルセー駅(仏蘭西国南西部等)」
この7つの駅は、多くの人達にとって巴里の玄関口となっているが、オルレアン鉄道の終着駅であるオルセー駅だけは鉄道の退潮に伴って14年後に廃駅になってしまう。それから紆余曲折を経て『印象派の殿堂』と呼ばれる美術館として生まれ変わるのは、更に48年後の西暦1986年12月の事である。
画家のマルク・シャガールが仏蘭西東部に向かう列車が発車する駅は東駅だった。譲ってもらった絵を抱え、大神とエリカは路地を抜け、マジャンタ大通りを東に向かって走る。目指す東駅は風格あふれる重厚な石造りの駅舎を夕日が照らし、美しい姿で二人を迎えてくれた。
欧州の駅には改札口というものが無いので、大神とエリカは直接幾つもの汽車が並ぶ広大なホームに入った。そして案内板を見ながら該当の列車を探し、遂に窓越しに画家の姿を見つける事が出来た。
「シャガールさ~ん!お約束通り作品を見つけてきましたよ~!」
窓ガラスを叩きながらエリカが大声で言うと、席に腰を降ろしていた男性が驚いてこちらを向いた。そして暫く惚けたような顔をした後、慌てて車両の外に飛び出してきた。
中肉中背で癖のある髪の中年男性は、エリカの顔を見ながら言った。
「君はレノ神父の所にいたシスターだね。まさか、本当に絵を探してきてくれたのか?」
若干露西亜訛の入った仏蘭西語で訪ねる画家に、二人は布に包まれた絵を差し出した。急きながらその布を剥ぎ取り、姿を見せた昔の自分の作品を眺めて感動の溜息を漏らす。
「嗚呼、間違いない。これは私が最初に巴里に滞在していた時に描いた作品だよ。もう10年以上昔になるかな…。ベラ、イダ!見てごらん、君と結婚する前、そして生まれる前に私が描いた絵だよ。」
そう言いながら、車両から出てきた女性と少女にその絵を見せる。ベラと呼ばれた美しい女性は知性を感じさせる瞳で、そしてイダと呼ばれた愛らしい少女は両親から受け継がれたであろう聡明さと、彼女自身のものである活力溢れる瞳で愛する人の描いた絵を眺めていた。
その様子を嬉しそうに見ていた大神とエリカに、シャガールは言葉を掛けた。
「正直、この絵の事は諦めていたんだよ。それなのに君達は、約束通り私のもとに絵を届けてくれた。本当に感謝の言葉も無い。どうすれば、君達に報いる事が出来るのだろうか。」
「そんな、いいんですよ。喜んでもらえたらそれが1番嬉しいんですから。」
そうエリカが答えるが、画家は納得しかねる様子だった。
その時、シャガールは大神の黒い瞳と髪、そしてエリカの赤い修道服に目を留めた。色彩感覚が刺激されたのか、画家の瞳に創作的感興の色が浮かぶ。
「そうだ、もし良かったら、君達二人の肖像画を私に描かせてくれないだろうか。せめてものお礼の気持ちだ。」
その言葉に大神とエリカ、そしてベラとイダはそれぞれ顔を見合わせた。

石造りの駅舎を出ると、空は茜色から夕色に姿を変える頃だった。吹き抜ける風にも涼気が含まれている。これから気温が下がり、シャノワールが閉まる頃には昼間と同じ格好では肌寒く感じる程になる。
大神とエリカはマジャンタ大通りを来た道と逆に、モンマルトルのシャノワールに向かって歩いていた。シャガール一家を乗せた列車は巴里を離れ、郊外の田園地帯を走っている頃だ。
結局、二人はシャガールの厚意を受け入れつつも、肖像画の件については丁重にお断りした。
先に言った通り見返りを求める為に絵を探したのではないからというのが主な理由だが、二人には別の、共通した訳も存在していた。
「…自分の顔が青い色だったりしたらね。」
「…そうですよねぇ、私の修道服も何色に描かれるのか判りませんし。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「それにしても本当に良かったです。」
「そうだね、シャガールさんとても喜んでくれていたし。」
そう言って微笑んだ大神の顔を、エリカが嬉しそうに見詰める。
「それに、大神さんも元気になってくれたみたいだから…。」
「え?」
その時、大神は気が付いた。エリカが一緒に絵を探してほしいと言った訳を。もちろん、シャガールの話を聞いて力になりたいと思ったのは本当だろう。だが大神を誘ったのは、先の敗戦以来悩んでいる彼に少しでも元気になってもらいたいからだった。
「エリカくん…ごめん、心配をかけてしまって。」
「そんな、いいんですよ。だって、大神さんは…。」
エリカは頬を染めて俯いた。
「エリカくん?」
大神が声をかけると、彼女は彼に向かって言った。それも、大声で。

「だって大神さんは、『エリカ専用』なんですから!」

その瞬間、大神一郎の視界は確かに揺らいだ。通りを歩く人達が一斉に二人を見たが、それもどこか他人事のように思えた。真っ白になった頭を無理矢理働かせ、言葉の意味を理解しようと試みる。そんな彼に、再び彼女が声をかけた。
「もう、何道の真ん中でボーッと突っ立ってるんですか。周りの人達が見てますよ。他の人の迷惑になりますし、それに恥ずかしいじゃないですか。」
「いいっ!?」
驚いている大神の腕をからめて、エリカは走り出す。
「さあ、シャノワールの開店に間に合いませんよ!」
「ちょっと、エリカくん!?」
大神は何か言おうとしてエリカを見たが、彼女の嬉しそうな顔を目にすると何も言えなくなってしまった。
やはりこの娘には敵わないな、と心底思う大神だった。

大神一郎とエリカ・フォンティーヌは霊力を有している。
だが、その力は未来を見たり知識を得たりする類のものではなかった。だから、マルク・シャガールが20世紀を代表する芸術家の一人になるとは判らなかったし、二人が今日見付けた絵が『窓から見たパリ』というタイトルで画家の代表作の一つとなる事、そして彼が自分や家族以外の肖像画を滅多に描かない事も知らなかった。
当時既に知識層の間で正真正銘の巨匠と認められていたシャガールを、大神とエリカが全く知らなかったのは、西洋美術史にとって不幸な出来事だった。
もしも大神とエリカの肖像画が描かれていたら、東洋人とシスターという極めて稀なモデルの作品として、シャガールの作品群の中で、ひいては美術史上で異彩を放った事だろう。
だが実際に二人が成したのは、偉大な芸術家の作品を一つ後世に残した事と、不幸な画商を一人生み出した事だった。『窓から見たパリ』を見た時にエリカが言った一言を聞いて、アンリ・ビュッフェは卒倒したものである。
「何だか、私にも描けちゃいそうな絵ですね。」

未来を見る事が出来ない大神一郎が、極めて近い未来に見る事になったのは次のような情景だった。
その日の夜、エリカが「黒猫のワルツ」でステージに上っている楽屋で、他の花組メンバーに今日の午後の出来事を話した時の事である。
彼が目にしたのは、話を聞き終えて溜息と共に崩れ落ちるグリシーヌ・ブルーメールと、彼女に駆け寄る北大路花火、そして鬼のような形相で大神の胸倉を掴むロベリア・カルリーニと、それを止めようとするコクリコの姿だった。
遠くに聞こえる観客の歓声と、近くで聞こえる喧騒を聞きながら、頭の片隅で大神はぼんやりと考えた。

「…今日の日記には、『比較的穏やかな午後だった』と書こうかな。」

(了)

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