──・・・その日は彼女にとって、少し特別な日だった。
彼女の朝は早い。
鳥の声がかすかにさえずり始める頃、空が白みかけた頃に起き出す。
ライラック伯爵夫人・・・グラン・マ付きのメイドとして主人よりも早く身支度等を終え、用命があれば直ちに動かなければならないからである。
ベッドから起き出し、彼女・・・メル・レゾンは軽く伸びをした。
カーテンを開けて、窓の外を見るとまだ薄暗いながらも雲一つない空が広がっている。
今日は間違いなく、いい天気になるだろう。
顔を洗ってから、いつもの服に着替え、几帳面に寝間着をたたむとメルはドレッサーの前に座った。
まだ枕のあとが残る髪にブラシをかける。
だが、どうしても襟足のところが跳ねてしまう。
強情なまでの癖っ毛なのだ。
メルは半ばあきらめてため息をつくと、薄いピンクのルージュをひいて身支度を終えた。
そして、姿見を見ながら最後に身だしなみをチェックすると、すぐ隣の部屋へと向かった。
『コンコン』
ノックをしてその部屋の主に声を掛ける。
「おはよう、シー。起きてる?」
そう声を掛けると、予想通りの答えが返って来た。
「おはよう、メル!ごめ~ん。もうちょっと待って。どうしても髪がまとまらないんだよぅ」
「大丈夫よ。まだ時間あるから」
メルはそう言うと鞄の中から詩集を取り出した。
毎朝繰り広げられる光景。
猫っ毛で髪がなかなかまとまらないシーをこうしてドアの外で待つ。
メルはこの時間が何ともいえず好きだった。
しばらくすると、ガタガタと騒がしい音とともにシーがドアを開けた。
「お待たせ!ごめんねー」
元気に飛び出してくるシー。
「ううん。じゃ、行きましょうか」
メルはそう言うと詩集を閉じた。
ふと、シーが何やら大きな包みを手にしているのが見えた。
「シー、その荷物は何?」
メルがそう聞くと、シーは『待ってました!』とばかりに嬉々として言った。
「さすがは、メル。よく気付きましたねぇ。じゃあ、今日は何日だか知ってる?」
「何日って・・・6月1日だけど・・・。あ・・・」
シーの言葉でメルは重要なことを思い出した。
「メルお誕生日おめでとう!!」
シーはそう言うと、自分が手にしていた大きな包みをメルに差し出した。
そう、この日6月1日はメルの誕生日だったのだ。
「あ、ありがとう」
メルは少し照れくさそうに、シーからその包みを受け取った。
「何あげようか迷ったんだけどぉ、やっぱり手作りの物をあげたくてケーキ焼いたんだ」
「嬉しいわ。シーのケーキは美味しいもの」
シーのお菓子はお世辞抜きで美味しいのだ。
店で買ってくる物よりも美味しいとシャノワール内でも絶大な人気を誇っている。
何よりもシーが自分の為に焼いてくれたというのがメルには嬉しかった。
「喜んでもらえて良かったぁ。じゃあ、お仕事行こう?」
「そうね」
シーにもらった包みを大事そうに抱えながら、メルはシーのあとに続いた。
その後。
シャノワールに着いてからも皆が口々にメルの誕生日を祝った。
きっと前日までシーが皆に言って回ったのかもしれない。
皆に誕生日を祝ってもらうのなんて、子供の頃以来だった。
何だか恥ずかしいような照れくさいような感じもあったが、それでもメルには嬉しかった。
あっという間に時間が過ぎていく。
自分が何となく浮き足立っているのが分かる。
誕生日とはこんなにも嬉しかったんだと子供の頃を思い出す。
いつもは仕方ないから、とこなす司会の仕事でさえも楽しく感じた。
そんな司会の仕事を終え、いつもの服に着替えて秘書室に戻るとドアの前に誰かが立っているのが見えた。
この巴里では珍しい黒髪。
大神一郎だ。
大神はメルが戻って来たことに気付くと、メルの方を向いて微笑んだ。
「大神さん、どうなされたんですか?」
「あ、メルくん。良かった」
「え?」
「はい、誕生日おめでとう!」
そう言って大神が差し出したのは小さな袋と花束だった。
「あ、ありがとうございます」
「ごめんね。渡すの遅れちゃってさ。皆がいるところでは何か渡しづらくてね」
大神はそう言うと照れくさそうに笑った。
「いえ、かえって気を遣わせてしまったんじゃないですか。シーが・・・その・・・、」
「はは、気なんか遣ってないよ。シーくんからメルくんの誕生日が今日だって聞いたのは確かだけど、俺がメルくんの誕生日を祝いたかったのさ」
そう笑った大神につい見とれてしまう。
この人の笑顔は何でこんなにも清々しいのだろう。
人を安心させられる何かがあるとメルは思う。
かくいう自分も大神のこの笑顔が嫌いではなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・あの・・・メルくん、そう見られるとさすがに少し照れるんだけど・・・」
大神にそう言われてメルはハッと我に返った。
気が付けば大神をじっと見つめたかっこになっていたようだ。
慌てて目線を逸らす。
「す、すみません」
「・・・あ、いや・・・」
何とも気まずいような恥ずかしいような空気がその場に漂う。
自分が何ともドキドキしているのが解る。
これ以上、ここでこうしてたら心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「じゃ、じゃあ俺行くね」
この雰囲気に耐えかねたのか大神が先に口を開いた。
「は、はい。ありがとうございました」
メルがそう言って頭を軽く下げると、大神は右手を小さく上げて応えた。
そして、持ち場へと戻って行った。
大神からもらったものを抱えて、秘書室に入る。
自分の机にそれを置くと、緊張が解けたようにメルは椅子に座り込んだ。
思わずため息が出てしまう。
「おやおや、メル。どうしたんだい?ため息なんかついて。恋でもしてるのかい?」
丁度、支配人室から出て来たグラン・マにそんなことを言われた。
「オ、オーナー」
「あはは、図星かい?」
メルのその反応に満足そうな表情を浮かべると、グラン・マは秘書室を出て行った。
『恋でもしてるのかい?』
今のグラン・マの言葉がメルの頭の中で繰り返される。
恋・・・。
これは恋なんだろうか。
自分は恋をしてしまったのだろうか。
二ヶ月ほど前、留学生としてやって来た日本人に。
考えて見れば、大神は無口で人付き合いが下手な自分を解ってくれる数少ない人物のひとりなのだ。
ともすれば、誤解されがちな自分の態度を彼特有のあの笑顔で口調で解いてくれる。
気が付けば、自分もあの笑顔に和まされている。
あの笑顔を自分に向けて欲しいと思ったことも事実で。
「恋・・・しちゃったのかな・・・」
大神から貰った花束を見つめ、そう呟く。
彼にそんなに他意はないのかもしれない。
彼にはもう既に想う人がいるのかもしれない。
それでも・・・、
「大神さんのこと・・・好きになっちゃったんだわ・・・」
口に出してから、メルは顔を真っ赤にした。
そして、秘書室には彼から貰った誕生日プレゼントを嬉しそうに見つめるメルの姿があった。
──・・・その日は彼女にとって、特別な日になった。