―…太正十三年 初夏…―
政府転覆を図ろうとした黒之巣会を撃滅してから、早半年の月日が経とうとしていた。
あれ以来、大きな事件が起こる訳でもなく、崩壊した地域の復旧作業も順調に行われている。
帝都は平和そのものだ。
大帝国劇場も春からの長期休暇を終え、夏公演への準備が始まろうとしていた。
俺…――大神一郎は三週間振りにここ、帝劇に帰って来た。
本当はもっと早く戻って来たかったのだが、軍の手続きやら何やらで手間取ってしまってそうもいかなかったのだ。
…三週間振りの銀座。
…三週間振りの帝劇。
みんな元気にしてるだろうか?
誰よりも、彼女はどうしてるだろうか?
とにかく早くみんなに、彼女に会いたかった。
階段を一歩一歩踏みしめながら昇り、ロビーへと足を踏み入れる。
すごく懐かしい。
何故だかすごく安心する。
ここが俺の居場所なんだと実感する。
ロビーに立って周りを見回すと、売店に椿ちゃんを見つけることが出来た。
「いらっしゃいませ!何に…って大神さん!」
やっぱり元気がいいなぁ、椿ちゃんは。
売り子は椿ちゃん以外に考えられないだろうな。
「久し振りだね、椿ちゃん」
「つい先刻だよ。早くみんなに会いたくてね。取る物も取りあえずにこうして帰ってきたという訳さ」
荷物なんか適当に詰め込んできたものだから、鞄の中はきっと酷いことになってるだろうな。
開けるのが恐ろしいよ。
「そうなんですか。でも、お元気そうで安心しました。みなさんも心配されてましたから早くお顔を見せてあげて下さい。…あ、それと新しいブロマイド作ってみたんですけど大神さんもおひとつ、いかがですか?」
しかも、相変わらずしっかり者だし。
椿ちゃんに売店を任せておけば帝劇も安泰だな、ホント…。
「じゃあこれを戴くよ」
「こちらですね、五十銭になりまーす!毎度、ありがとうございます!」
何だかんだ言っても結局買ってしまう俺も俺だけど。
「じゃ、俺行くね」
「はい。あ、花組のみなさんはサロンにいらっしゃると思いますよ」
「ああ。ありがとう」
サロンか…。
そういえば、今ちょうどお茶の時間だもんな。
米田支配人に挨拶を済ませたら行ってみるか。
とにかく支配人室に行かないことには仕様がない。
『コンコン』
ドアをノックしては見たものの応答がない。
寝ているのだとしたらイビキくらい聞こえてきてもおかしくないよなぁ。
出かけているのかもしれない。
仕方ない。
このままここで待っていても埒があかないし事務局に行って聞いてみよう。
かすみくんと由里くんにも会いたかったし丁度いい。
「大神さん!いつ戻ってらしたんです?」
「かすみくんも由里くんも元気そうだね」
事務局も相変わらず華やかな雰囲気だ。
二人ともモデル顔負けの美人だからなぁ。
事務局目当てのお客さんがいるというのも納得出来る。
「ところで、米田支配人がいらっしゃらないようなんだけれど…」
「支配人、今日は花小路伯爵にお呼ばれされたとかで外出なさってるんですよ」
「そうなんだ…。ありがとう。じゃあ、また来るよ」
「大神さん。新しい噂話、期待してますからね」
「あまり期待しないで待っててくれよ、由里くん」
や、やれやれ由里くんも相変わらずだな。
どこで嗅ぎつけてくるか判らないから油断も隙もあったものじゃないよ。
支配人がいらっしゃらないようなら仕方ない。
先にサロンに行くとしよう。
こうして久々に歩く帝劇は何も変わっていなくて懐かしさが込み上げる一方だ。
二階に上がるとその想いは一層強くなって、サロンへと向かう足も自然と速くなる。
サロンに近付くにつれ、賑やかな様子が伝わってくる。
良かった。
どうやらみんな元気みたいだ。
「ああっ、お兄ちゃんだぁ!」
サロンに一歩足を踏み入れたところでアイリスが真っ先に声を上げ、駆け寄って来た。
「大神さん!」
「いつ帰って来はったん?」
さくらくんも紅蘭も元気そうだ。
何より目が生き生きとしている。
良い休暇を過ごせていたみたいだな。
「ああ、つい先刻だよ」
「隊長も水臭ぇなぁ。報せてくれりゃあ迎えに行ったのに」
「カンナの言う通りです。報せて下さればよかったのに」
「ごめん、ごめん。急いで来たものだから何も出来なかったんだよ」
カンナもマリアも一段と凛々しい顔つきになったな。
俺も負けていらないな。
そして…、
「あーら少尉。お早いお着きですこと」
ちょっと…、怒ってるかな?
「すみれさん、そんな言い方しなくても…」
「いや、いいんだ。ありがとう、さくらくん」
怒るよな、普通。
三週間も音沙汰が無かったら。
「さて、みなさん。お稽古の続きを始めますわよ」
「えぇー。折角、お兄ちゃんが帰って来たのにぃー」
「せやせや。もうちょいゆっくりしてもいいんちゃう?」
アイリスの言葉に紅蘭も賛同し、すみれくんは決まり悪そうに目を逸らした。
「では、わたくしは先に戻ることにいたしますわ」
すみれくんはそう言うと、速やかに立ってさっさと舞台の方へ戻っていってしまった。
「なんだい、あいつ。何、怒ってるんだ?」
「久し振りの舞台だからきっと緊張してるんだよ。…みんなも俺に構わず稽古に戻ってくれて構わないよ」
本当言うと、慌ただしく帰って来たから少し休みたくもあった。
「…隊長もこう言って下さったことだし、みんな稽古に戻るわよ」
「アイリス、まだお兄ちゃんとお話ししたーい」
そう駄々をこねるアイリスを促して、マリアが言った。
「隊長も帰って来られたばかりでお疲れなのよ。話をするんだったら稽古の後でも出来るでしょう?アイリス」
「…わかった。お兄ちゃん、お稽古終わったらお話しようね」
「ああ。勿論だよ、アイリス」
あのアイリスをも説得してしまうとはさすがはマリアだ。
俺はどうにもアイリスを甘やかしてしまう。
「大神さん、ゆっくり休んで下さいね」
「そや、今のうちにゆっくりしぃ。また、楽しい楽しいモギリの仕事が待ってるんやさかいに」
「…………」
モギリ……。
そうか、モギリか…。
「もうっ。紅蘭が変なこと言うから、大神さん落ち込んじゃったじゃない」
「ほな、大神はん。後でな」
「隊長。じゃ、ちゃんと休めよ」
「ゆっくり休んで下さい、隊長」
「…ああ。お言葉に甘えさせてもらうよ」
みんなが行くのを見送ったあと、部屋にひとり帰る。
荷物を置いて何となくベッドに体を投げ出すとどっと疲れが出た。
急いで帰って来たのが意外にも堪えていたらしい。
気が付いたら俺は眠ってしまっていたらしく、目が覚めたときには既に窓の外は暗く、部屋には薄く月の光が差し込んでいた。
「……ん。もうこんな時間なのか…。」
起こさないでいてくれたんだろうな。
…さて、どうするかな。
米田支配人の所へ行くには少し遅いかもしれない。
…気は引けるが、支配人の所へ行くのは明日にした方がいいな。
とりあえず、夜の見回りぐらいはしよう。
何より、昼間すみれくんと話せなかったのが気にかかる。
すみれくんは部屋にいるだろうか?
思い立ったが吉日。
すぐにすみれくんの部屋に向かった。
起きてるかな…。
『コンコン』
ノックをしたが応答がない。
もう寝てしまったのだろうか。
それともどこか別の部屋にいるのだろうか?
ここでずっと待ってるのもなんだし、サロンにでも行ってみるか。
そう思いサロンに行ってみたもののすみれくんの姿はなかった。
…どこにいるんだろう?
テラスの方を通って下にでも行ってみるか。
もしかしたら水泳場にいるかもしれないしな。
どうせ見回りも兼ねているのだから、多少遠回りでもした方がいいだろう。
そんなことを思ってテラスに足を向けると、彼女はそこで窓の外を眺めていた。
…すみれくん。
「あら、少尉。見回りご苦労様ですわね」
俺が来たことに気付いた彼女が振り向きもせずに言った。
まだ…怒ってるかな…?
「…君に会いに来たんだ」
「それは残念でしたわね。わたくし、これからお部屋に戻るところですの」
そう言って立ち去ろうとしたすみれくんの腕を引き寄せ、抱きしめた。
「…随分、強引ですのね」
「…君と話していたいから。…三週間も連絡しなくてごめん」
「…心配…、しましたのよ?」
少しうつむき加減ですみれくんが言った。
「声を聴いたらきっとそれだけじゃ物足りなくなって、『会いたい』って気持ちを抑え切れなくなるって思ったんだ。それでなくたって、君に会いたくてたまらなかったんだから。一日一日がすごく長く思えたよ…」
そう、声なんかじゃ物足りない。
声だけじゃ駄目なんだ。
会いたい気持ちばかりが募っていってしまう。
早く触れたいって思ってしまう。
「…少尉…」
「ただいま、すみれくん…」
「…おかえりなさい、少尉。」
「誰よりも早く君にただいまを言いたかったんだ。」
「…当たり前ですわ」
「うん…。」
月明かりに照らされた彼女は、より一層美しくて妖艶で、俺は引き込まれるように彼女に口づけた。
「美しい…ですわね…」
寄り添い、窓の外に広がる夜空を見て彼女が言った。
「そうだね…」
でも、月のスポットライトを浴びて輝いているすみれくんの方がもっともっと美しいと思った。
口にしてしまったら、その輝きを逃がしてしまうからそっと胸に秘めておこう。
言葉なんてきっと無意味だ。
月の祝福を受けながら俺たちは再会を果たし、これからようやく俺たちの日常が始まる。